第5節:問題


「良いコートだ」

 先に待ち合わせ場所に来ていた彼女の第一声はそれだった。


「建物はル・コルビュジエが設計したんだ」

 上野駅から国立西洋美術館まで距離はほとんど無い。秋晴れで天気も良いし、せっかくだから少し歩こうと、僕たちは不忍池の方から公園の中を並んで行った。

「知らない人だな。有名なの?」

 彼女の身長は、僕より半頭分ほど低い。僕の身長は男の中では平均的だ。彼女のほうが、女性の中では大きい方だった。

「柳が知らない時点で、無名だな」

「ははは」

 木の葉はすっかり落ちていた。上だけ見ればほとんど冬の風景だ。足元の朽ちた葉が、かろうじて秋の視覚を感じさせた。

「数年前に世界文化遺産に登録されたんだ。たしか私達が高校生の頃」

「へえ!すごいんだな」

「ふふ、あのころは面白い現象が起きてね」

「というと?」

「世界文化遺産に登録される前は、誰もがあの美術館の前を素通りしたんだ。動物園に行くために!」

 上野駅から公園口を出てまっすぐ進むと、上野動物園がある。

「ところが世界遺産認定された途端、みんな写真を撮り始めたんだ。コンクリートでできた、何の変哲もない建築構造物をね!それで半年経った頃、どうなったと思う?」

「またみんな素通りするようになった?」

「その通り」

 僕たちは微笑みあった。

「物の良し悪しは、物の価値とは関係ないってことさ…ほら、あそこだ」

 その手前に飾られた彫刻とともに、彼女の言う"何の変哲もない建築構造物"である世界遺産が見えた。


 僕には絵のことはよくわからない。印象派展と銘打たれた特別展を見るにあたって、僕は彼女の解説を期待した。しかし、それは叶わなかった。なぜなら、彼女には彼女なりの見方があったからだ。

「タイトルは見ない、説明は読まない、順路は気にしない」

 それが彼女の芸術鑑賞のルールだった。

「柳、私たちは絵を見に来たんだ。美術史や画家個人の経歴についてレポートを書こうというんじゃない」

 じゃあ、と言うと、何の"デート"らしさもなく彼女は並んだ絵の方に行ってしまった。

 なぜ僕を連れてきたんだろうか。絵よりもそのことが気になってしまう。見慣れぬ西洋絵画の鮮やかな色使いが網膜に写るが、僕は進の言葉を思い出していた。彼女に近づいた人間は、大学をやめている。ではその後は?あのときは訊かなかったが、結局その日の夜に、僕は進に電話した。

「一番多いのは、実家に帰ると言って連絡がつかなくなった奴らだ。二番めは"詳細不明"だ。何もわからないタイプ」

「…その他は」

「……あまり言いたくないが、自殺だよ」

「えっ!?」

 進によれば、彼女と積極的に関わり合いになった男はおよそ二十人。そのうち五人が自殺したのだという。いや、その他の十五人も連絡がつかないのだから、事実上死んだようなものだ。

 彼女は何者なのか。

 僕は、彼女に対する純粋な恋心と同時に、この疑念を、この問いを膨らませていた。

 横に長く、暗い色使いの油絵の前で僕は立ち止まった。

 描かれているのはほとんど裸の人々。顔つきがアジア人とは違う。ポリネシア人だろうか。一番右には赤子、一番左には老婆がいる。中央には、背伸びして果実をもぎ取ろうとしている若い女性。仏像のようなものも描かれているが、よくわからない。

 しばらくぼーっとして、その絵を眺めた。

「『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』」

「うっ!?」

 いきなり自分の右横から発せられた彼女の声に、僕は必要以上に驚いてしまった。

「なんだ、変に驚いて」

「ご、ごめん。そこに居たとは…」

「一通り見てきたからな。なあ、どう思う。ゴーギャンのこの問いを」

 彼女は絵の方を指差した。それに従って、僕は改めて絵を見た。

「さっきのがタイトル?ええと何だっけ」

「『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』だ。絵の左上にフランス語で書いてある」

「宮前さんはフランス語読めるの?」

「ふふ、まさか」

 すると彼女はごく自然に、僕の右手を握ってきた。僕はまた上がりそうになった声をこらえて彼女を見たが、彼女の視線は絵に向いたままだった。

「この問いをどう思う」

 彼女はまた同じ質問をした。僕は早鐘を打つ心臓のあたりを左手でさすりながら、必死に考えた。

「そ、そうだね。…ちょっと大仰すぎると思うな。わざわざこんな絵を描いてまで表現する問いなのかな」

「ほう」

「なんだか、答えを探しているというよりも、救いというか、精神的な充足のための問いなんじゃないかと思うよね。この問いに馬鹿正直に向き合って答えることもできるけど、たぶんそれは描いた人の意図じゃないんだろうな」

「…うん、私も同意見だ」

 その言葉で、何故か安心感が僕の心を支配した。

「人は、何か強大なものに立ち向かうとき心の充足を感じる。それを討ち果たすとき、心の昂りは頂点に達する。だがそこからは、打ち勝ったという過去がその人を蝕む。さらなる心の充足のために、再び苦難を受け入れる。そして大体、二度は打ち勝てないものだ。だがこの問いは…立ち向かうこと自体に意義がある。勝つ必要がない。答えの無い問いに立ち向かうことほど、"安心できる危機感"を得られるものはない」

「"安心できる危機感"…か」

「…人は本質的に無責任なのさ。何か、に縋りたいんだ」

 彼女の手が、僕の右手からするりと外れた。

「特に、現代人は、な」

 確かめるような彼女の口調に、なぜか、だかしかし、僕はやはり安心を感じた。


 結局、その日は西洋美術館を出てランチを食べたあと、科学博物館に梯子した。科博では、彼女は打って変わってよく喋った。特に生物学のコーナーに二時間以上居座って、僕らは議論した。

 人はどこから人になったのか。発生はどこなのか。サルと人の何が違うのか。

 僕らの問いに危機感はなかった。安心も、また無かった。そこには多分、彼女と僕の時間だけが存在した。

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