第3節:深化

 彼女は友達が少なかった。いや正確に言えば、彼女にとって友人とは、僕だけだった。

 僕たちは頻繁に連絡を取った。最初は特に僕の方から。講義の空き時間を訊いて、ランチを一緒に食べた。僕の少ない話題の引き出しに比べ、彼女の引き出しの多さは驚異的だった。箪笥と倉庫ぐらいの差は有るだろう。

 彼女の容姿と所作に惹かれたつもりだった僕は、実はそうではなかったということに気づくのに時間を要した。彼女は…そう、底なしの沼のようなものだ。僕が何か言ったときの、彼女のあの顔。少しだけ俯いて、髪で隠れていない方の目を細めて、右手で長い黒髪をいじる。まるで西洋画の題材そのままのような美が僕の目に飛び込む。だがそのとき、彼女は考えているのだ。僕には思いもよらない発想で、概念で、理論で、知識でもって、僕の言った言葉を認知し、理解し、分析し、議論し、そして言葉を発する。あの美しい、僕の内耳に直接囁いてくるような、透き通る声で。でも、ぶっきらぼうな口調で。僕は彼女の内面、いや、そんな陳腐な言葉では言い表せない、なにかもっと、彼女という"存在"に惹かれたのだ。


 ありきたりな人間である僕の生活事情と引き換えに、彼女の身の回りの話を聞くことができたのは幸いだった。彼女は知的議論だけでなく、世間話も好きだった。

「僕の父は消防署勤めなんだ。今は事務職だけど」

「ほう」

「もともとは消防士だったけど、腰を悪くしてね」

「そうか、立派なお父さんだな」

「そうかな」

「そうさ」

「宮前さんのお父さんは?」

「私の父はクズだった」

「え?」

「ろくに仕事もしないでギャンブル、家での態度は横暴。典型的なドメスティックバイオレンス、私に対する暴言暴力…満点の社会不適合者だ」

 彼女の口からあまりにもすらすらとそんな言葉が出てきたので、僕は目を丸くしてしまった。

「そう驚くな。そんな人間と結婚するような女だ。母も相当キてたぞ」

「ええと…」

「ヒステリックで、非論理的言動が多かった。悲観的で、抑うつの傾向が見られた。話し相手をするには苦労したよ」

「…」

「まあ、良くも悪くもありふれた人たちだったよ。どこにでもよくいる」

「…そうかな」

「そうさ」

 彼女は物事に頓着せず何事も良しとしている、そういうタイプなのかもしれないと、この時は思っていた。

 僕はますます彼女に惹かれていた。

 こんな女性、いや、こんな人間に出会ったのは初めてだった。彼女は常人とは違う。気づけば僕は、家に帰ると彼女の言葉をメモするのが日課となっていた。この一言一句を取りこぼしてはいけないと感じるようになった。


 彼女と日常的に接するようになってひと月が経った。


「柳、お前って宮前桜と付き合ってんのか」

 教養科目である心理学の講義中、隣りに座った同じ学部の友人、進がぶっきらぼうに話しかけてきた。

「付き合ってないよ。なんで」

「見たぞ、一緒にいるところを」

「女の子と一緒に居たら付き合ってるなんて、中学生の考えか」

 進が彼女のことを呼び捨てにしたのが少し腹立たしく、僕は皮肉っぽく言い返した。

「うるさいな。だってあの宮前だぞ」

「有名?」

「知らないほうがおかしいぜ」

 僕はマズローの欲求5段階説と彼女の噂について同時に聞く羽目になった。

 進が言うことには、2年前の大学入学当初、入学生に美人が多いということでそこそこ話題になったらしい。その美人たちの中の一人が、宮前桜、彼女だったというのだ。彼女は、話題になった美人たちの中では比較的地味な方であった。アンニュイだが真面目そうに思われた彼女は、いわゆるオタク的な男性諸君に人気があったらしい。何人もの地味な男子たちがアタックした、とのことである。

 ここからが"謎"である。

「それで、アタックして…どうなった?」

 僕は先生の板書する図をノートに写しながら訊いた。

「それが…わからないんだ」

「…ん?」

 思わず顔を上げて進を見た。

「わからない?」

「ああ…、なぜか宮前に近づいた奴らは…大学をやめているんだ。みんな」

「冗談だろ」

「本当なんだ」

 進は真面目な顔で言い返してきた。

「…告白してみるって言っていたやつも、周りに結果を言わずに二週間以内に大学をやめてる。マジなんだ」

 意図せず開いた口が塞がらなかった。僕は軽く頭を左右に振った。

「まるで都市伝説だな。単にみんなガラスの心だったんじゃないか」

「茶化すな。マジだぞ柳!」

 進は僕の肩に手を置き揺さぶった。

「やめろよ、あんまり騒ぐと怒られる」

「ああすまん…でもな、何か合ったらすぐに俺に…いや、警察に相談しろ」

「ええ?」

 不意に出た"警察"という言葉に、軽く苛立ちを覚えた。少なくとも、僕が想いを寄せる相手なのだ。

「何言ってんだよ進。宮前さんと直接話しもしないで」

「それは…」

「宮前さんは確かに少し変わってるけど、普通の人だ!」

「でもな」

「おいそこ!!」

 いきなり先生から発せられた大声に、僕たちは一瞬で前を見た。

「さっきからずっと私語をしているじゃないか!出ていってもらってもいいんだぞ!!」

 知らぬ間に声が大きくなっていた。

「す、すみませんでした」

「まったく…最近の学生は…」

 先生はブツブツ言いながら板書に戻った。僕と進は大人しく黙ってノートを取り始めた。

 しばらくして、小さな声で進がつぶやいた。

「ま、とにかく気をつけろ」

 僕はしばらく考えて「ああ」とだけ答えた。

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