善悪の此岸
銀狼
僕
第1節:遭遇
あの年の十月に、大学のカフェで彼女と出会ったときのことは忘れられない。
僕はカフェの隣に建つ図書館から借りてきた本、それも分厚いのを何冊も、テーブルに置いて唸っていた。傍らにはノートパソコン。教養科目として受講している社会学のレポートは、僕にとって難題だった。友人の多くはネットからの引用で適当に済ませていた。僕は昔から余計に真面目で、おそらく教授だってちゃんと読みはしないであろうレポートごときに、本気になってしまっていたのだ。
「お待たせしました」
愛想の悪い声で、店員がテーブルにブレンドコーヒーを置いた。
「どうも」
本から顔を上げて見ると、店員は面倒くさそうな顔をしていた。きっとこの様子を見て、この客はコーヒー一杯で長く居座るだろうと思ってうんざりしているのだろう。その通り。悪いが僕は3時間は居座る。
ブレンドコーヒーに口をつけて、溜息をつくと、僕はまた本に戻った。
一時間ほど経っただろうか。僕は一向にレポートを書き出せずにいた。
逸脱?暗数問題?それが何だって言うんだ。論ぜよと言われても困る。
「ここ、いいか」
ハッと顔を上げると、テーブルの向かいの席を指差して、一人の女子学生が立っていた。
「空いているテーブルが無いのでな」
「あ、ああ…どうぞ」
周りを見ると、いつの間にか混んでいた。店員と目が合うと、恨めしそうな顔だったので、向き直って僕は前の女性を見た。
長い黒髪は片目を隠していたが、すごい美人だ。見える方の目は気だるそうで半分くらい閉じかかっていて、アクセサリーの類は一切身につけていなかった。リボンの付いた白いシャツにスカート。お嬢様学校にいそうなタイプだ、と僕は思った。
「本が邪魔ですよね、どけますよ」
「いや、大丈夫だ」
あまり女性らしいとはいえない口調だ。店員が近づいてきた。
「ご注文は?」
「ブレンドコーヒー」
「かしこまりました」
彼女が注文するのを見届けると、僕は本に戻った。
「レポートか」
戻った途端、彼女が話しかけてきた。
「…ええそうです」
「社会学だな」
僕は少し驚いた。
「どうしてわかるんです?」
「本のタイトルを見ればわかる」
それもそうか…。
「テーマは」
「ええと…逸脱における暗数問題…」
「ふうん…」
彼女は下を向いていた。置かれた本の表紙を見ているようには見えなかった。どこか虚空を眺めているようだった。僕は彼女の目を見ていた。気だるそうな目を。
「なあ、なぜわざわざ"逸脱"と言うか知っているか」
「え?」
「"犯罪"ではなく"逸脱"と呼ぶ…それは、焦点が特定の人ではなく、社会にあるからだ」
気だるいが、どこか力強いものを感じさせるその声に、僕は聞き入った。
「あらゆる物事は相対化されることで一般と特殊が生まれる…"逸脱"は相対的に見て特殊な行為ということだ」
店員がコーヒーを持ってきた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
彼女はそれを一口飲んだ。
「相対的に特殊な行為…それは"犯罪"に限らない。世間で言う"常識"が基準となった場合、特殊だと思われる合法的行為はある」
「…例えば?」
「そうだな。ホームレスのゴミ漁りとか、同性どうしの結婚とか…」
「なるほど」
「だから"逸脱"という。世間的常識とのズレのことだ」
「…あなたは社会学部の人?」
彼女はコーヒーを口に運んだ。その仕草が優雅で、見とれてしまう。
「いいや、別に。単なる知識だ」
「博識なんですね」
「皮肉か?」
「と、とんでもない!」
「それで、暗数問題とはどういうことかは、わかっているのか?」
「ああ、はい。ある事項について、統計の上では現れない数字が多く存在してしまうことです…」
「それと逸脱をどう結びつけるつもりだ」
「それが難しくて…」
気づくと彼女はコーヒーを飲み終わっていた。
「…"逸脱"の多くが"犯罪"と言われるのは、被害者が居るからだ。…では失礼する」
そう言うと、彼女は席を立って行ってしまった。
最後の言葉が気になった僕が、「被害者なき犯罪」という言葉に出会うのに、それほど時間はかからなかった。
これが、彼女との出会い。思えば、とても示唆的な出来事だったのかもしれない。
運命なんてものは無い、と彼女は言った。"運命"という言葉は、世界を複雑にするものだという。そう、彼女はよく言っていた。「世界は人々が考えているものより、もっと単純だ」と。彼女は、"運命"というものについて、"素晴らしい"や"ひどい"といった「評価」の概念に見えると言った。僕は最初、よく意味がわからなかったが、やがて「世界は単純だ」ということを理解し始めて、それもわかった。
だから、彼女との再会は「出来過ぎている」と言うのが正確だ。
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