第8話 涙

 恭一郎の両親は、父母ともに薬剤師をしていた。外部調剤薬局が普通になる以前から、苦労して病院と繋がっていたこともあり、その後事業を大きく展開することによって、今ではかなりの店舗を所有しているそうだ。

 知り合った当初から、恭一郎はあまり家族のことは語りたくない様子だったが、次第にぽつりぽつりと話してくれるようになった。金銭的に不足はないが冷めた両親の関係から、恭一郎にとって自分の家は、気の休まる場所ではなかったそうだ。

 恭一郎自身も周囲に気を配れる性質があだとなったのか、わがままを言って甘えられればまた違ったのかもしれない。だがそれも過ぎたことで今さらどうしようもないけどなと、自嘲していた。

 そうして両親との距離感に慣れきった頃だという、父親との軋轢を感じ始めたのは。まるで関心がなかった父親が変わったのは。高校でも優秀な成績を取り続け、医学部も大丈夫と教師に勧められたのが、きっかけだろう。

 ──元々顕示欲が強い人だった、プライドが高くて他人にどう見られているか、優位に立てるか、そればかりを気にする人だった。そういうところが苦手で。

 恭一郎の父親を見る目は、正しかったようだ。

マスコミあいつらをどうにかしろ! だからおまえのような人間と付き合うなと言ったんだ!」

 俺の胸ぐらを掴み、唾を飛ばしながら怒声を張り上げるのは、恭一郎の父親だ。

 まあ斎場出入り口に、カメラを持って集まるマスコミを見てしまえば、誰でも苛つくのは当たり前だろう。

「止めてください、先輩は関係ありません」

 掴んでいた腕を振りほどいたのは、恭一郎の父親よりも背の低い恩田だった。

「じゃあおまえがマスコミに流したのか、恭一郎がまるで犯罪を犯したかのように! おまえらがさっさと犯人を捕まえないからだろうが」

「あなた、恥ずかしいからやめて!」

 今日の通夜で中に入れるのは親族と両親も把握している親しい関係者、それから旺華大学病院の何人か、それから瀧社長と妻、婚約者だった瀧さなえのみ。葬儀場に向かう前に、通夜はごく少数で行うという知らせを受けた。迫編集長と紗羽には、明日にしてもらうことにして、俺のみが葬儀場で恩田と待ち合わせとなった。

 恭一郎の母親は、元々気の強い女性だった。それでプライドの高い夫とは喧嘩ばかりで、最近はほぼ別居状態だったと聞く。だが恭一郎の学校の行事や節目の祝いには、何かしてくれるのは母親だったと、それだけは救いだったと聞いている。だがそれも、医者を目指すことになってからは、父親の妨害もありなかなか会えないこともあったらしい。

「とにかく、式が始まりますから、あなたはお客様のお相手をしてください」

「……わ、わかった。ここは任せる」

 妻に言われて、最前列に座る瀧一家をちらりと見る恭一郎の父は、渋々退く。

 謝ることすらせず去っていく夫に、恭一郎の母親はため息をひとつもらすと、俺に向かって頭を下げた。

「ごめんなさいね、誠司くん」

「いいえ、今俺が記者をしてるのは事実ですから、そう思われるのは仕方ないです。ご両親としても辛い時でしょうし」

「ありがとう……誠司くんには、感謝してます。琉音さんにも。本当に仲良くしてもらって、恭一郎から話を聞くのはあなたたちのことばかりだったわ」

「いいえ、こちらこそ。それなのに何も力になれず……残念です」

 恭一郎の母は、ハンカチで目元を押さえながら、小さく何度も首を横に振る。

 気丈に振る舞っているが、そうとう堪えているのだろう。声も小さく、顔色は白く、眼窩が落ちくぼんでいる。一人息子の死因が死因だけに、やはり寝れてはいないのだろう。

 側にいた恩田も、口をへの時に曲げて、鼻をすする。大きな目からは、今にも涙が溢れそうだ。

「琉音さん、お仕事忙しいのに、わざわざありがとう。それにごめんなさいね、あのバカ息子、大切な友達に自分の情けない姿を見せてしまって」

「そ、そんなことないです。先輩は……うう、どんな姿でも大事な……恭一郎先輩で、真っ先におばさまに連絡できたのも、私よかっ……」

 ついに決壊した涙は、ぽたぽたと床に落ちる。

 ただ子供のように悲しいと大粒の涙を流して泣く恩田を、少しだけ羨ましいと思った。放っておいたらいつまでも止まらないだろうと思い、ハンカチを差し出せば、恩田は遠慮なくそれを受け取り、顔を拭く。

「す、すみません、我慢しようと思ったんですけど」

「ありがとう、琉音さん」

「おばさま、お願いです信じてください。マキちゃん先輩はマスコミにリークなんてしてません、迫編集長もです。おじさまの言った通り、むしろ私たち警察が悪いんです、早く事件を解決できないから憶測ばかり一人歩きして……」

「琉音さん、夫もおそらく分かっているわ、さすがに八つ当たりだったって。それでも、息子に覆い被せるようにしていた自分のプライドの行き先を失って、錯乱してるのよ……本当に情けない人だけどね」

 遠く祭壇そばの婚約者に付き添う夫を見ながら、ひどく冷たい声だった。

「明日の葬儀は広い会場で行いますから、ゆっくり恭一郎とお別れもできないと思うわ、そばに行ってあげてね。それじゃ」

 恭一郎の母は頭を下げると、他の弔問客の方へ挨拶に向かった。

「落ち着いたら、俺たちも行くか」

「……はい」

 止まらない涙を相変わらず貸したハンカチで拭く恩田。

「自分の、持ってないのか?」

「あるけど、マキちゃん先輩のだから、遠慮なく使わせてもらおうかと思って」

「返せよ」

「……マキちゃん先輩がハンカチを必要になったら、私の胸を貸します」

「いらん、返せ」

 拗ねたように、湿ったハンカチを突っ返された。

「明日また足りなきゃ、貸してやる」

 そう言えば、いつものように倍ほどの返事を返されることもなく、ただ恩田のつむじが隣で揺れた。


 親族らしき人たちが入れ違いに、喪主と挨拶を交わす傍らで、ようやく恭一郎の棺桶のあたりの足が途絶えた頃、恩田と二人で恭一郎のそばに向かった。

 幸運なことに顔は傷ついていなかったため、致命傷となった頭部を隠し、上手に死化粧を施されていた。

 白い血の気のない恭一郎を、恩田と二人でただ黙って覗く。

 もう二度と起きないと分かっていても、揺すって起きろと言いたくなる。それは恩田も同じ思いなのだろう。数珠を持ち握りしめた両手は、震えていた。

 俺は恭一郎に手を合わせ、恩田を促して末席に戻る。

 それから通夜式が始まり、僧侶が経を唱え始めた。しばらく控え室に引き込もっていた恭一郎の婚約者が、最前列で泣いているようだった。隣の父親が、しきりに背中をさする姿に、どうしてこんなことにとの思いがどうしても募る。

 そうして短い通夜の経は終わり、恩田とともに会場を出る。集まっていたマスコミの目標は恭一郎の親族というより、次第に「タキ製薬」の社長瀧宗佑氏になっていたようだ。帰路につく瀧氏と娘さなえにマイクが寄せられている。その騒動を脇目に、恩田とともに葬儀場を後にした。

 タクシーに乗り込むと、恩田がため息をもらした。

「瀧氏との関係があったからなんです、恭一郎先輩のことが知られたのは」

「タキ製薬が何かあったのか?」

 一昨日から何度目かも分からなくなった、その会社の名を出すと。

「いいえ、何も。何もないんですが、ここのところ名前を聞く機会が多くて」

「……おまえもか?」

「え? どういうことですか」

 お互いに顔を見合わせ、沈黙が下りる。

 恩田は警察官、捜査上知り得た情報は、漏らすことができない。俺は記者。記事に書く前に警官に教えてどうする。

「……私、警官になんてなるんじゃなかった。なんだかマキちゃん先輩が、遠い!」

「いやそれを俺に言われても知るか」

「いいもん、こっちだってマキちゃん先輩の行動なんて逐一調べて追跡してやるんだから、もし藤文舎に美人秘書でも入った日には、覚えてらっしゃい」

 鼻息荒く、警察官として最低な言葉を並べる。恩田の場合、口だけなのは分かっているので、放置する。だが紗羽のことを思い出し、美人秘書はいないが美人記者なら、いると告げれば。

「う、うそだあ! あの『蒼勢』の編集部に? おじさんだらけのむさい集団がいる、古くて汚いビルに? マジですか!」

 純粋に驚いているようだ。

「社員じゃないけど、取材協力ということで、昨日から一緒に回っている」

「誰が?」

「だから俺が」

 鳩が豆鉄砲くらったかのような顔の恩田。

「じゃあその人も、臓器事件を?」

「違う、臓器事件からは外された」

「……ええ!」

「なんで驚くんだよ、恩田には関係ないだろう」

 理由が恭一郎だということは、恩田には話す気はない。

「でも、だって、せっかく会えるのに!」

「おまえな、そういう冗談はやめろって。恭一郎だって、おまえの嘘に騙されてたぞ、警視庁に詰めてただけのことを、一晩明かしたって言ったろ」

「でも恭一郎先輩、笑ってたし」

 琉音らしいなあ……そう笑った恭一郎を思い出す。

「まあそういうことだから、あんまりやらかすなよ。あの指導官の黒崎ってのに叱られないようにな」

「はーい、でも調べるのが簡単なのは事実ですからね、マキちゃん先輩も浮気は駄目ですよ。今は顔認証でぱっちりなんですから」

「だから、浮気もなにも付き合ってないだろうが。それより、明日は旺華大の篠田教授は来るんだよな?」

「葬儀にですか? 来られるんじゃないでしょうか、お忙しい方みたいですけど、恭一郎先輩にさなえさんを紹介したのが教授だそうですし、瀧社長とも仲良しみたいですから」

「……そうなのか」

「なんでそんなこと聞くんですか?」

「ああ、明日は迫編集長オヤジと一緒に、今組んでる女性記者も参列する予定なんだ。篠田教授に挨拶したいそうだ」

「取材ですか? その女性記者が?」

 恩田が少しだけ眉を寄せる。

「名刺を、渡したいだけだよ。俺だって恭一郎の式を無粋なことして台無しにさせる気はない。それくらいの節度はある人だから、安心しろ」

 恩田はどうしてか、さらに口を尖らせる。

「ずいぶん信頼してるんですね、そんな人がいるなんて知らなかったです」

「来たばかりだからな。仕事のやり方を見れば、分かる。経験豊富で優秀なんだ」

 それでも恩田の顔は戻らず、そのまま彼女の自宅前にタクシーが停車する。もたもたと財布を出す恩田を車から押し出して、じゃあまた明日なと言ってドアを閉める。

 するととぼとぼと歩き恩田は、豪邸と言っていいほどの屋敷の、大きな門をくぐる。それを見守ってから、車を出させたのだった。


 翌日、午前のワイドショーでは大々的に扱っているわけではないが、どこの局でも一度はニュースとして恭一郎の通夜が流されていた。ついでに今日これから葬儀が行われることも併せて。

 それをスマホで確認しながら、喪服に身を包んだ編集長が、舌打ちをした。

 昨夜と同じ葬儀場の、離れのホールを貸しきっているため、そちらに向かっているところだった。他の葬儀の邪魔にならないために、配慮した形になった。

「マキちゃん先輩!」

 名前を呼ばれて振り返れば、喪服ではなく警察のジャケットを着た恩田が、息を切らして駆け寄ってきたところだった。

「おまえ、仕事なのか?」

「はい、少し事情が出来てしまって。黒崎さんも来てるんです」

 恩田の視線を追うと、同じく黒の礼服にジャケット姿で、電話をしている長身の男がいた。

「どういうことだ?」

 側にいた編集長と紗羽もこちらを注視しているのに気づき、恩田が敬礼する。

「本日、こちらの葬儀場の警護にあたる、本田琉音巡査です」

「ああ、きみが。こうして会うのは初めてだな、俺は眞木の上司、迫だ。こちらは契約記者で眞木と組んでもらっている、片桐くんだ」

「はじめまして」

「片桐紗羽です、はじめまして」

 にこやかに挨拶をする紗羽と恩田。

 俺はというと、恩田のシャキッとした姿を見るのは初めてで、驚いていた。仕事なのだから当然だとは思いつつ、挨拶が終わるのを待つ。

「どうしたんですか、マキちゃん先輩?」

「いや、はじめて警察官らしい姿見た気がして。それより、葬儀には出席できないのか?」

「なんか失礼ですね。まあいいや、私は会場内の警護に回りますので。今回は黒崎さんの方の手伝いですから」

「今おまえ研修中で、あいつは凶悪犯係りって言ってたよな」

「はい、それでマキちゃん先輩にだけは、忠告しておきたくて」

「……なにを?」

 恩田は編集長と紗羽の方を見る。

「他言は無用でお願いします」

 すると二人は頷く。

「いいですか、マキちゃん先輩。今日の葬儀にが来ると、公安から情報をもらいました」

「……あいつ?」

 恩田の言葉から予想した人物を、まさかと打ち消したかった。だが恩田ははっきりと告げた。

九条聖くじょうひじりです、指定暴力団三衆会幹部、九条です」

 その言葉に、苦い記憶が甦る。

 思い出したくない名前とその顔を。蛇のように冷徹で鋭い目をした、その筋のエリートだ。

 なぜ九条が恭一郎の葬儀に来る?

「なんであいつが……逢坂くんと何の関係がある?」

 迫編集長が恩田に聞き返す。

「分かりません、そこまでの情報はもらえなかったので。ただ、うちも放置するわけにはいきませんので、黒崎さんたちが警護にあたります。もちろん、公安も内部に入っているはずです」

「ちょ、ちょっと待って、三衆会の九条って私でも知ってるくらいの人よ、それでなんで眞木くんと関係が?」

 俺が言葉を失っている姿に、紗羽だけが何が何だかわからない様子で、疑問をぶつけてくる。

 それに答えたのは、編集長だった。

「眞木が昔、五輪代表候補になったのは話したよな?」

 紗羽は頷く。

「いざ五輪ってときに、こいつに怪我を負わせた張本人が、九条なんだ」

「それ、本当なの? どうして……」

 ひどく驚いた様子の紗羽。

「もちろん偶然だった。九条を乗せた車が、追跡する公安を撒こうとしたときに偶然、眞木と接触した。それだけのことだったんだ、最初は」

「でも怪我は?」

「そう、五輪は断念せざるを得なかった。眞木は何も悪くない、だが相手が相手だったから、公にすることもできないうちに変な噂が持ち上がって、結局代表どころか選手としても活動が難しくなったんだよ」

「そんな酷いことがあったなんて」

 憤る紗羽に、迫も恩田も渋い顔だ。

 そうだ、もうそんなことは帰らぬ過去のことだ。今さら何を言っても始まらない。

「俺のことはいいんだ。だが……そうだな。あいつが俺のことを覚えていたら、少し厄介かもしれない。恭一郎の最後だ、静かに送ってやりたい」

「もちろん、私もそれは同じです。そうですよね、黒崎さん!」

 恩田が力強くそう言うと、背後から低い声が届く。

「そういうことだ、事情は恩田から聞いた。眞木誠司、あんたはあまりうろちょろするな。式が始まったら恩田を側に配置する、トラブルにならないようこちらの指示にしたがってくれ。あいつの目的は別にあるはずだ、いいか、ひっかき回して邪魔するんじゃねぇぞ!」

 指示なのか恫喝なのか分からない迫力でそう告げると、恩田を連れて先に会場に向かっていった。

 俺たちもまた、混み始めた斎場入り口に向かうことにした。

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