第12話 追っ手

 見せていた写真を閉じて、青くなって黙りこんでしまった紗羽を見守る。

 無理もないことだと思う。記者として犯罪を犯す人間と接触することはあるが、暴力団幹部はまた別だ。むしろ記者として犯罪と向き合うからこそ、奴らの底無しの怖さを聞き齧る機会は多い。

「俺が九条と初めて会ったのは、東京五輪の予選会に向けて練習していた時だった」

「眞木くん?」

 紗羽が驚いたように顔を上げた。べつに今さら秘密にするような事じゃなかったが、皆が気を使ってくれていたのは知っている。

「でも、辛いことだったら無理には」

「知っていたほうがいいと思うんだ」

 そう言うと、紗羽は眉尻を下げる。

「近代五種ってマイナーな競技だけど、元々アメリカで育ったから馬術とフェンシング、射撃も経験があったから、大学から本格的に初めたんですよ。こっちでは元々競技環境は良いとはいえなかったけれど、五輪を控えていたからずいぶんマシになって……競技をする度に競技場をあっちこち移動とか、それまでは当然だったんで本当に勘弁してくれっていうか」

 その頃の苦労を思い出してため息をつけば、紗羽がつられたように笑う。

「十八年から一ヶ所でできるようになり、がぜんやる気になってたんですが、ロードワーク中に黒塗りの高級車と接触し、吹き飛ばされて気がついたら病院で寝てました」

 怪我自体は大したことなかった。腕を骨折していたが、幸運にも利き腕ではなかった。あとは全身の打ち身やかすり傷で、軽い脳震盪を起こしたくらいだった。選考対象となる大きな大会までまだ二ヶ月以上あったので、負傷はかなりの痛手ではあったものの、まだ諦めるレベルではなかった。コーチと相談し、リハビリと練習メニューの組み直しをしているところに、あいつはやって来た。

「九条が、直接?」

「ああ、元々警察からは相手が悪かったから注意しろとは言われていたけれど……」

 九条自ら病院通っていた自分に会いに来たのだ。あの男にとっては、腹いせ以外のなにものでもなかった。

「あいつに教えられたのは、信じられない事実だった。黒塗りの車に乗っていた九条の部下は、俺をひくつもりではなくて、本当は俺の前にいた親子連れ……ベビーカーを押した母子が目的だったらしい」

 紗羽は驚きのあまり、あんぐりとした顔だ。そりゃそうだろう、俺も当時、同じ反応しかできなかった。

「三衆会はまだ当時、地盤固めが終わってなかったみたいで、ある人物を消すことで関東での勢力を得ようとしてたそうです……まあこれは、あとで迫編集長に教わったことですが。その当時、九条にとって邪魔だった相手が刑務所にいて、早急に部下を送り込んで始末するつもりだったようです。そのための人身事故だったはずが、俺が余計なことをしたから計画が狂ったと……だから悪いが相応の責任を取れって」

「まさか、そんなことで……だって眞木くん関係ないわよ」

「そんなこと通用する相手じゃなかったんすよ。当時は不可抗力でも、暴力団に目をつけられてるなんて奴、選考に通るわけがないじゃないですか」

「まさか、協会に手を回したの?」

「いえ、近代五種の協会はかばってくれたんですが、そのもっと上がダメだと」

「上って五輪組織委員会?」

 俺が首を振ると、紗羽は眉間にシワを寄せた。

「政治家……九条と繋がってるってことよね」

「どういう経緯かは分からないが、どうもその辺りだと聞いている」

 紗羽は大きくため息をつき、どうみても冷めきった紅茶を口に含んだ。

「そんなことがあったせいで、あなたの友人の恩田さんがあんなに神経質になってたというわけね」

「ああ、あいつは側で全部見てたから。恭一郎とともに」

「ねえ、眞木くん。あんまり言いたくはないけど、その恭一郎さん、それだけ三衆会の恐ろしさを知っていたなら、何もあなたに告げなかったなんておかしくないかしら。篠田教授との関係上とはいえ、もし九条と繋がりがあったなら、あなたに何か警告とか残したんじゃない?」

 思い付くことといえば、古いメモリーカードのことくらいだ。だが中身はほとんど学生時代などの旅行や行事の写真ばかりだった。そのことを伝えると。

「もう一度、確認してみたらどうかしら」

「そうすね、一応見てみます。まあ現物は警察に提出しているので、何かあれば恩田からも連絡があるでしょう」

「……そう、そうよね」

「とにかく、いまは今日これからどう動くかですが」

「今からだと夜道になってしまうから、安全のためにビジネスホテルとりましょう。空きがあるか確認するから、眞木くんは編集長に連絡してくれる?」

「分かりました」

 そうして迫編集長に経緯を説明し、翌朝東京に戻ることにした。一方宿の方も無事にとれて、移動することに。

 時刻は九時を回り、すっかり辺りは暗くなっていた。ホテルまではほんの五分ほど。大型遊園地も近く、平日でなければビジネスホテルといえども、そうそう空いていなかったろう。とにかく慌ただしい一日だった。紗羽も俺の体調を気遣ってくれて、早々に別れて部屋に休むこととなった。


 異変に気づいたのは、深夜三時半を回った時間だった。

 さすがに疲労が溜まっていたのか、ベッドに入るとほぼ同時に眠りについたらしく、まだ寝ぼけていたのかもしれない。部屋の中でがさがさと物音がする気がして眼が覚めた。

 サイドボードの時計はまだ起きるには早い。眠気に再びまぶたを閉じたのだが、しばらくもしないうちに聞こえる、ドアの音。

「誰だ?!」

 飛び起きて周囲を見回しても誰もいない。とっさに部屋のドアを開け、廊下を見るが人の気配はない。

 いや、ちょっと待て。鍵が開いていた、なぜだ。確かに閉めたはず……

 やはり色々あったせいで、どこか神経が過敏になっていたのかもしれない。いつも通りの行動をしたつもりでも、抜けていたところがあるのかもしれない。そう思い直してベッドに戻り腰を下ろす。だがふと目に入った小さなテーブルの上にあったスマホが、気になる。

 おかしい。スマホはテーブルの上ではなく、ベッドの枕脇においたはずだ。

 焦りながら他にも異常がないかと見回したが、バイクで急いだためにかさばる荷物の多くは紗羽の鞄のなかだ。あとはライダースジャケットのポケットにあるものくらい。

 のそりとクローゼットを開ければ、ハンガーから外れて床に落ちたジャケットが。恐らく、物音はこれだろう。拾い上げてポケットを確認したが、バイクの鍵や財布、免許証も異常はない。泥棒ならばここを触らずに逃げるだろうか。

 そうしてからようやく、問題のスマホを調べることにした。

 画面を立ち上げれば、いつも通りの待ち受け画面。開きっぱなしのタブは一つもない。スマホで履歴を確認できるものから、片っ端から調べる。アプリは比較的履歴を追うのは簡単だが、メール機能は覗いたくらいじゃ分からない。結局、一通り調べても誰かに操作された形跡を見つけ出すことはでいなかった。だが既読メールならば、覗いただけでは痕跡が残らない。

 結局、空が白む頃まで調べつくし、お手上げとなった。

 紗羽と約束の時間まであと僅か、寝る間もなく帰り支度をすることになった。朝食を食べたらすぐに発つつもりだったので、荷物を持って一階のレストランに入りコーヒーを飲んでいると、ほどなくして紗羽も降りてきた。朝食を食べながら今朝の侵入者のことを告げると、さすがに驚いた様子で俺の対応を叱り飛ばした。

「すぐにフロントに電話するなり、私を呼ぶなりどうしてしなかったの! もし相手が危害を加えるつもりだったら、どうするつもりだったの」

「あ、いや、すみません。半分寝ぼけてたんで、後から冷静になって調べたらやっぱり間違いじゃなかったと自覚して」

「もう! 眞木くん甘いわよ。あなたに何かあったら、迫さんにどう申し開きしたって許してもらえないわ」

「そんな子供じゃないんで、そこまでは心配しなくとも」

「そういうことじゃないの!」

「いやでも、俺の方だけで良かったすよ。紗羽さんとこに行ってたらそれこそどうしようもないんで」

 そう言えば、彼女はぐっと言葉がつまったようで黙りこんでしまう。

「早めに、発ったほうがいいかもしれませんね」

 紗羽も頷く。


 ホテルを出たのはそれからすぐだった。事前に調べたかぎり、高速道路はまだガラガラだ。順調ならば昼前には都内に入るだろう。そう考えてインターチェンジを通過したすぐ後のことだった。

 追い越し車線でトラックを抜き、走行車線に戻ったところで、バックミラーの黒塗りの車に気づいた。

 一瞬、恩田からの忠告が頭をよぎったが、すぐに打ち消す。車は追い越し車線に乗ったまま、加速している。きっとすぐに追い抜かれてあっという間に先を行くだろう、そう考えていた。

 だが俺たちのバイクの前に、車線変更してきた。

 追い越し車線には、後続車はない。ほんの少しあがる拍動。今日は後ろに人を乗せていることを肝に命じ、わずかに速度を落とす。

 だが目の前の車も、明らかに速度を落としてきた。

 腰にしがみついていた紗羽の腕に、きゅっと力が入る。紗羽が気づいたのを契機に、俺はスロットルを開けて加速した。バイクの機動性を優位に、減速してきた黒い車をよけて追い越し車線へ移る。運転席を脇目に、さらに加速した。

 さすがに紗羽も驚いたように身を固くするが、さすが自らも運転するだけあり、こちらに上手く身を任せてくる。このまま振りきってしまおう、そう考えている後ろから、うなるエンジン音。ぎょっとして後方を見れば、さきほどの車が追いかけてくる。

 とたんにハンドルを握る手に、汗がにじむ。

 空いているとはいえ、高速道路だ。このまま紗羽をのせて黒塗りの車を巻くのは、とても危険だ。少しでも接触されたら、怪我では住まない。

 どうにかしないと、気持ちばかりが焦るなかも、ぴったりと追ってくる車。

 昨夜の恩田からの警告が、これだったのかとメットの中で舌打ちをする。

 そうこうしているうちに、前方に数台の車が小さな集団をつくっていた。このままではじきに、追い付いてしまう。他の車を盾に、バイクで路肩を走ってすり抜ける方法もあるが、相手がもし恩田が懸念した通り、三衆会の金本だとすれば他人を巻き込むことも厭わないかもしれない。そうしたら無関係の人まで傷ついてしまうことになる。

 決断はできなかった。 

 猛スピードで迫るバイクと車に、追い越し車線の最後尾についていた乗用車が、道を譲った。時速は百二十キロをゆうに越えている。

 すると腰にしがみついていた紗羽の片手が離れる。そして上を指差す。

 頭上を越えていくのは、サービスエリアの案内表示だった。紗羽の指示に気づき、俺は前方に目を向ける。

 八台ほど固まりになった一段の先頭には、トラックが二台平行して走っている。時速制限がついている車同士の追い越しが、後続車の妨げになっていたようだ。だがトラックなら運転手はプロだ。一か八かで、そのトラックの間を通過することに決めた。

 さらにスロットルを開ける。無風ではないが、あまり速度を出しすぎると煽られる可能性がある。そんなことになったら、二人とも即死だ。

 だが追っ手に追い付かれれば、同じ運命をたどる。そんな確信があった。

 ならばやるしかない。そう腹をくくってスピードを出す。そしてトラックの間をぬって先頭に出ると、慎重に路肩に寄せて速度を落とす。

 一気に車の集団が、俺たちを抜き去ってゆく。当然、黒塗りの車もその一団に挟まれるように、追い越してゆく。

 そうしてすぐに現れたサービスエリアの分岐にさしかかると、そちらに向かったのだった。



「まさか、カーチェイスの真似事をする羽目になるとは思わなかった……」

 コンビニ前にバイクを止めて、大きく息をつきながらメットを脱げば、思った以上に汗だくになっていた。

 先に降りた紗羽は、へなへなと歩道の段差に腰を下ろしている。

「……あの区間に、オービスがないことを祈ってるわ」

「そんんときは潔く罰金でもなんでも払います。生きてる証拠ってことで」

「は、ははは……ほんと、死ぬかと思ったわ」

「俺も」

「ううん、眞木くんじゃなかったら死んでたわね、ありがとう」

「いえ、怖い思いをさせてすみません」

「眞木くんが謝る必要ないよ、それより手を貸してくれるかな? 腰が抜けちゃって」

 照れた様子でそう言う紗羽に手を貸して立たせ、予定外に早い休憩を取ることに。

 暖かい飲み物を飲みながら、今後の予定を立て直す。

 再び高速道路で待ち構えられる可能性があると思うと、正直生きた心地がしない。少々時間はかかるが、次のインターで降りることを選択する。下道もまったく危険がないわけではないが、逃げ込む場所があるし万が一の時に怪我ですむか即死かという違いは大きい。

 とりあえず帰社が遅れることを編集室に連絡を入れ、念のため恩田にも経緯を伝えておくことにした。

 当然ながらさきほどの出来事を伝えたら、久しぶりに恩田の悲鳴のような声を聞いた。そしてパトカーで迎えに行くから待てと無茶を言い、俺が断るまでもなく、電話口の向こうで黒崎らしき低い声に諌められていた。

 編集室では例のジャックの件で忙しく、編集長に繋げてもらうことはできなかった。代わりにと出てくれた茂さんが、伝言を引き受けてくれた。酷く心配してくれたが、こればかりは何とかして無事にたどり着くしかない。少なくとも、時間までに戻らなかったらこれで捜索してもらえるだろう。

 いいかげん腹をくくってそう言えば、紗羽も苦笑いで肩をすくめていた。



 


 

 

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