第4話 片桐紗羽
予定されていた移植のための臓器が、旺華大学病院その他の医療機関へ無事に届けられたことを、社に戻る電車内で最新ニュースを検索して知った。ウェブニュースではかなり厳戒体制を敷いていた警察のこと、無事に手術が始まっていることなどを短く伝えて、前回の失敗から教訓を訴えながら締められていた。
臓器移植はそのための環境と時間など、厳格な諸条件が保たれなければ無駄になってしまう。もちろん適合条件などもあり、何でもいいわけではない。目的が臓器そのものであれば、の話ならば。どちらにせよ犯行声明もなければ、臓器の行方も掴めない。謎の多さも、関心を呼ぶ所以となっている。
急いで雑居ビルの階段を駆け上がり、壁掛けボードにある名前の下に、帰社の札をかける。
編集長は不在らしく、デスクはがらんとしている。
「戻ったのか眞木、昼飯は食ったのか?」
「まだですから買ってきました、茂さんもすか」
上着を脱いでいると、山積みになった書類の山の向こうから、熊かと思うような茂さんが顔を出した。
「付き合え」
体に似合わない、赤いギンガムチェックの手提げ袋を持つ熊──もとい多田成之班長の後について、隣の休憩室に向かう。
どさりとパイプ椅子に座る茂さんの分と二つ、給湯コーナーからお茶を紙コップに注いでから、その向かいに落ち着き、コンビニの袋を広げる。
「そんなのばかり食って、体壊すなよ」
「自慢は勘弁してください」
二段仕様の愛妻弁当を取り出す茂さんとの、一字一句変わらぬこの会話は、もう何度目か分からない。
今日のおかずは肉巻きだそうだ。白いご飯にはていねいにふりかけまでかかっている。一方、俺の前にはコンビニの唐揚げ弁当にサンドウィッチを足している。薄い茶でただ流し込むだけだ。
「昨日は代わりに空港まで行ってもらって助かりました、混んでたんじゃないですか?」
「気にすんな、そっちも大変だったな」
編集長から聞いているのだろう。茂さんも自分の入社のいきさつをよく知っているだけに、気をきかせてくれるらしい。言葉とともに差し出される、幼児が好むようなフルーツゼリーを受けとる。
「甘いもの好きっすね、相変わらず」
「ストレスには甘いものがいいんだよ」
仕事の合間にアイスやチョコを食べてウエスト回りを育おてた茂さんに、奥さんからこれで我慢しろと、弁当によくゼリーが添えられるようになったのはここ半年ほどだ。同僚たちのからかいもどこ吹く風、愛妻家の茂さんは喜んで菓子を我慢しているようだった。
その大事なゼリーを寄越して励まそうとするくらい、分かりやすく友人の死に落ち込んでいるのが見てとれるのだろう。
「葬儀の予定は決まったのか?」
「まだ、これから解剖だそうなので」
そうか。そう言いながら弁当をかきこむ茂さんに釣られるようにして、自分も昼飯を詰め込む。正直、昨日から何を口にしても、味がろくに感じられない。きっと泣き崩れて遺体から離れようとしなかったという、まだ会ったことのない婚約者は、それ以上だろう。自分に何ができるか分からないが、その女性の手助けになれることがあれば、何だってしてやろう。そう思った。
茂さんは珍しく無言で弁当を食べ終わり、いつもはさっさとデスクに戻るのだが、この日は何か言いたげに座ったままだ。どうしたのかと問おうすると、デスクフロアから同僚が飛び込んできた。
「おいニュース見ろ!」
熊のような体格のくせに、真っ先に反応して休憩室のテレビのリモコンを取る茂さん。ちょうど昼のニュースが終わり、ワイドショーが各局始まる時間だ。
見覚えのあるレポーターが、マイクを持って上気しながらまくしたてている。
医者、事件、関係者、謎の死。
それらの単語が耳に入るものの、どうしても繋がらない。
テロップに恭一郎の名前と写真。どこで聞き付けたのか、無理矢理に世間を賑わす臓器強奪事件との関係性を、嫌でも匂わせる言葉がこれでもかと繰り返されている。
こみ上げるのは、怒りというよりも、吐き気だった。
「おい、眞木」
「え、あ……」
茂さんに何度か呼ばれて、ようやく正気に戻る。
よほど酷い顔をしていたのだろう、他の同僚も画面と俺を見比べながら様子をうかがっている。
「大丈夫か、真っ青だぞ」
肩を掴まれて振り返れば、外出中かとばかり思っていた編集長がいた。
その後ろには、むさ苦しい男ばかりの室内では浮くような、美女が一人。こちらを見て、痛ましいものを見るような目を向けられていた。
「……大丈夫です、思っていた以上に早い情報に、驚いただけです」
そうだ。早すぎるが、想定はしていた。
好奇心とは、不可解な関係性のなかで、より大きく育つ。波紋を投げかけ、好奇心を焚き付けた者が勝利なのだ。そういう業界だと、分かっていたはず。
編集長は、テレビの中で唾が飛びそうなほどに言葉を吐くリポーターを一瞥すると、俺に顎で隣の部屋を指す。
「応接室にちょっと来い、眞木。ちょうどおまえに話がある」
編集長の迫さんと付き従っていた女性、俺と茂さんが続く。前を行く女性から、ほのかに鼻をくすぐる甘い香りがした。
応接室に入ると、編集長から告げられたのは無情な指示だった。これまで担当していた臓器強奪事件班から、俺だけが外れろというのだ。
「理由を、教えてください」
まだ助手のようなものだが、最初の取材から回らせてもらっている、初めての大きな仕事だ。納得のできる理由が欲しい。
「そんな酷い顔をして、理由だなんだと言いやがって、鏡見てこい。これは編集長命令だ」
「仕事はちゃんとこなします」
「足手まといだ。逢坂くんの件を調べれば、おまえのことなんざすぐに足がつく。行く先々でカメラ向けられて、困るのはおまえじゃないだろうが」
「……それは」
編集長の言うことは、もっともだった。臓器事件と恭一郎の病院が無関係ではない以上、これ以上俺がうろちょろすれば、さらに恭一郎が事件と関係あるかのように受け取られかねない。
今の半端な俺にできるのは、これ以上恭一郎に不名誉な疑惑を負わせないことくらいなのか……
うなだれる俺の背を、茂さんの大きな手が叩く。さすが熊、慰めには少々強すぎだろう。
「これくらいで落ち込むな、眞木。事件が解明されれば、おまえの友達の疑いだって晴れる、今は辛抱しろ。なに、真相が分かればきっちり記事にしてやる、そうだよな迫さん?」
「もちろんだ、俺たちを信用しろ」
ぎらつく目をした、二人の中年男を前に、自分がまだまだヒヨコなのだと自覚する。いつかこの男たちと同じ場所に並び立てるのだろうか。
「その代わり、新たに逢坂くんの情報があれば、提供してもらうぞ。恩田とかいったか、刑事なんだろう?」
「分かりました」
ようやく納得して答えると、編集長が黙って待っていた女性に目配せをする。
「待たせて悪かった、紹介する。こいつが眞木誠司。体力だけは馬鹿みたいにあるから、好きなように使ってくれ」
「眞木です」
「はじめまして、フリージャーナリストの片桐紗羽です」
柔らかく微笑む女性が会釈する動きに合わせて、再び薫る香水の匂い。きれいに栗色に染められた肩までの髪が、ふわりと揺れる。たまに見かける女性記者はよく紺色のパンツスーツ姿が多いのだが、彼女はベージュ色で膝丈のスカートに同色のジャケットを合わせて女性らしい。
しかし挨拶を終えてすっと表情をおさえると、くっきりとした目鼻立ちなせいか、一転凛とした趣になる変わりように、ハッとさせられる魅力があった。
「昨日、アメリカから帰国したばかりだが、昨日に続いてすぐに取材に向かいたいそうだ。行けるか?」
「大丈夫です……医療訴訟でしたか」
それに答えたのは、迫ではなく片桐紗羽の方だった。
「新薬を投与の説明義務を怠った患者が、数人亡くなっているの。製薬会社からの見返りもかなり得ていて、どうやら薬にも問題があった可能性があるわ。二年前に揉み消された事件だから、知られていないけれど」
「それで、昨日は製薬会社に?」
「アポを取ったはずだったけれど、すっぽかされたわ」
茂さんを振り返れば、渋い顔で頷く。
「秘書のミスで、こちらの落ち度ではないと謝られたが、なぜか日を改めてではなく、二時間ほど待たされてたったの五分の面会で手を打たされた」
「それはまた……それで、今日また改めて向かうんですか?」
「いえ、今日は別の病院につきあってくれるかしら。詳細は移動しながら説明するわ」
片桐紗羽は昨日、編集室に来たときに皆には紹介されていたようだった。応接室を出ると、同僚たちが「紗羽さん」と気安く話しかけている。
その間に自分は取材に同行するためにカメラやレコーダーを準備する。
スマホを確認するが、あれから琉音からの連絡は届いていないようだ。既に解剖は終わっていてもおかしくはない。早ければ明日あたりには、通夜と葬儀の連絡がくるだろう。
リュックをジャケットを羽織り、鞄を持つと片桐紗羽とともに社を出た。すぐにタクシーを拾い、彼女の指示で都内の総合病院に向かうことになった。
「よろしくね、眞木くん。私のことは紗羽でいいわ」
「こちらこそ、紗羽さん」
ぎこちなく名前で呼べば、彼女は微笑んでから前を向く。
目的地の病院までは一時間ほど。その社内で簡単だが改めて自己紹介をしあう。彼女は三十一才、元は有名新聞社の社会部に在籍していたらしいが、水に合わず辞めたという。本人が語るには幸運だっと言うが、フリーになって早々、海外メディアと契約を交わして記事を書いているようだ。その話し方は謙虚で、しかし飾らない。人を不快にすることはなく、魅了する。おそらくかなりの才女なのだろうと、想像する。
それに……。見た目からもっと若く見えたのでそう言えば、声をあげて笑った。
「それは記者としてはマイナスなのよ。取材対象に舐められてしまえば、後輩の男性記者にすら得られる情報量が負けてしまうわ」
「それは、実体験すか」
「それなりに苦労してるもの。でもこの仕事、短い時間で成果が出せるから、やりがいがあって好きよ」
「すごいっすね」
「あら、あなたはもっと凄いじゃない。元オリンピック代表選手でしょう?」
「いや、それは。代表に選ばれたことはあるけれど、結局代表としては競技に出てませんから」
「選ばれるだけでも大したものよ! でもそうね、残念だったわね。怪我?」
「ええまあ」
「でも不謹慎だけど、少しだけ感謝するわ」
切れ長の目を、柔らかく細めるだけで優しさを含む笑顔になる。
「そうじゃなきゃ、こうして出会う機会がなかったんですものね。迫さんが、見所のある新人だって、誉めてたわ」
「ま、さか」
照れ隠しに出た言葉に、彼女はさらに声をあげて笑う。
「あ、そうそう。あなた普段バイクで移動しているって聞いたわ。小回りがきくから次は乗せてくれる?」
「それは、かまわないすけど」
「大丈夫、同乗したことがあるから、心配しないでね」
そんな風に、彼女の話はコロコロと変わる。黙っていれば凛として近寄りがたい雰囲気もあるのに、喋ると人懐こい。人懐こさでは琉音が勝るが、あれは騒々しいばかりだが、この人には流されてしまう不思議な力がある気がした。
ほどなくして到着したのは、恭一郎の大学病院とは違い、かなり老朽化した古い建物の「
名前は聞いたことがある。だが診療科目は総合病院という名には物足りない印象を受ける。外来患者の受付が済んだ午後とはいえ、外来病棟はもう人がまばらだ。
「地域密着型の病院だったけど、それだけに新薬の投与で患者を死なせたなんて噂がたつと、一気に傾いてしまうものよ。最近では開いた病室を改装して、特殊な患者を受け入れていることもあるわ」
「特殊な患者?」
「ほら、スキャンダルの後に入院とかあるでしょう、芸能人とか政治家とか」
「それで聞き覚えがあったのか」
紗羽は小声で説明してから、受付カウンターにいた事務員に話しかける。
「精神科に面会をお願いしてありました、片桐ですが。木内先生をお呼びしていただけますか?」
木内というのは、精神科の医師らしい。そこに入院している患者に、今日は用があるらしいが、話が通じるかどうかはその日次第なのだという。
お待ちくださいと事務員が内線で確認し、ほどなくして案内するからとカウンター内から出てきた。
冷たいタイルの廊下を奥に進み、職員用の階段を上る。三階あたりだろうか、今度は扉につけられた鍵を開けてから、病棟内の廊下に戻る。すると個室らしい扉がずらっと並んでいる。閉鎖的な様子に驚きながら歩けば、すぐにまた扉が見えた。その手前の個室に、俺と紗羽さんは通された。
白いカーテンを引いたベッドがひとつ。その向こうには大きめの窓があり、思っていたよりは明るく、構造は普通の病室に違いなかった。
自分達の入室に続いて、白衣の男性が病室に入ってきた。
「今日はおそらく何も聞けないと思うよ、片桐さん」
「こんにちは、木内先生」
「本当に、見た目に似合わずしつこいね、きみも」
眼鏡越しに睨み付ける、初老の男性医師。そして変わらずにっこりと唇に弧を描く紗羽さん。
そのとき、対照的な二人の空気を絶つかのように、音をたててカーテンが開いた。
白いベッドを囲う、鉄の柵。その間から骨しかないような細い腕が、いくつものチューブをつけたまま二本伸びている。
ガリガリに痩せたスキンヘッドの男性患者が、しわがれた声をあげた。
「よくきたね、紗羽」
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