第5話 蜥蜴の尾①
紗羽の取材相手は、医師ではなく檻のなかの患者だった。
事前に聞いていた話では、面会を要請していた相手は医師ということだった。ここ東宮病院でかつて勤めていた医師で、医療ミスで一度は訴訟に発展した相手だという。ミスであったことは認めたようだが、それ以上は証拠不十分で起訴されることはなかった。紗羽が
「聞いたよ、亜弥ちゃんは亡くなったんだってねぇ、また僕を頼ってくれれば治してあげたのに。残念だねぇ」
「柳沢、あなたの医師免許を剥奪されていないことが、私には理解できないわ」
事前に聞いていたのは、新薬投与で唯一生き残っていた少女が、一月前に亡くなったということ。その担当医師に会いに来たのだが……。
まさかこの檻に入れられた男なのか。
二人の会話を事前に渡された事件当時の記事を取り出す。
本当にこの檻の中の男は、写真と同一人物なのか?
だが柳沢は困惑する俺にはまったく気にした様子はなく、にやにやと紗羽だけを見ている。
「一見、意識が明瞭のようでも、すでに記憶障害がある。あまり興奮させないでくれないか」
紗羽を鉄柵から引き離すのは、主治医の木内だった。
「木内先生、いくつか質問させていただいて、よろしいですか?」
「彼の言葉に何の証拠能力がないのは、片桐さん、事故当初から取材しているあなたが、一番よく分かっているはずでしょう。いったい何が目的ですか、彼はもう社会的に制裁を受けている。これ以上病人をいためつけることは止めてくれないだろうか」
紗羽を諭すように言う木内だったが、その口調は穏やかとは言いがたかった。
初同行の取材がゆえ、傍観者としての客観的印象があるとすれば、木内医師はどこか苛ついているように見えた。取材許可を出したのは、木内ではないのか?
「でも、本人が会うと言ってきかなかったのでしょう?」
「それは……そうですが」
本人? 柳沢が?
「あんまり木内先生を困らせない方がいいわよ、柳沢センセイ」
「いいんだよ、そいつは俺に逆らえないんだから。もうずっと前から」
「じゃあ、質問していいかしら?」
紗羽はひるむことなくそう問いかけ、返事を聞くまでもないのか、パイプ椅子を自分の方に引き寄せて座った。ただ木内の指示で、鉄柵の隙間から手を伸ばしても、柳沢からは決して届かない位置を守る。
「今日聞きたいのは、医師としてのあなたの見解。亜弥ちゃんが植物状態になった原因は、あなたが処方した薬の副反応のせい?」
「違うね」
「じゃあどういう理由? 彼女は一度も目覚めることなく亡くなったわ。直接的原因は臓器不全だけれど、そもそも昏睡に至る要因はなんだったの」
「脳波は?」
「……正常だったと聞いているわ。むしろ活性化しているようで、目覚めないのがおかしいと」
「じゃあ成功したんだよ」
「成功?」
「そ、俺が手術したんだ、当然だ」
「手術?」
紗羽が慌てて鞄から分厚いノートをめくりだす。恐らく今までの取材で得た情報を書き留めているのだろう。彼女は忙しなく視線を泳がせたのち、開いていたページを閉じる。
「そんな情報は、ご両親からも聞いていないわ」
「そりゃそうだろう、勝手にやったから」
「勝手にって、どういうこと?」
紗羽の口調が厳しくなる。
だがそれを意に介さず、柳沢は檻の向こうで人差し指を自分の耳の後ろに当てた。注射を打つときのようなしぐさをしてから、にっと笑う。
「夜、寝ている間に極小チップを埋め込んだんだから、本人も知らないだろうよ」
「あ……あなたそれ、本当なの?!」
つい身を乗り出す紗羽。狙っていたかのように柳沢は、彼女のベージュ色のスーツの袖を掴んでいた。
「紗羽さん!」
とっさに彼女を解放させようとすると、止めたのは紗羽自身だった。
「大丈夫だから、眞木くんはそのまま。興奮させないで」
そう言うと紗羽は、目を見開いて紗羽に手を伸ばす柳沢に視線を戻した。
俺の隣では木内医師が、医療ワゴンの引き出しから注射器を取り出している。
「亜弥ちゃんはまだ十二才だったのよ? どういうチップを入れたの? 目的はなに?」
「アンテナだよ」
「……アンテナ?」
「植物状態というのが、どういう状態か知っているか紗羽?」
「大脳の一部機能が失われて、でも自発呼吸など生命維持のための機能は生きている状態」
「ああ、さすが片桐先生のお嬢さんだ」
「亜弥は、自由に生きていたはずだ。広い世界に手足を伸ばし、どんなことだってできた。殺したのは俺じゃない、おまえたちだ」
太い柵に顔をおしつけ、次第に吐く息を乱れさせる。
「きっと仲間たちが、悲しんでいるだろうよ。亜弥はとても友達思いのいい子だったろう」
「なにを、言っているの……きゃ!」
紗羽の袖を掴む指は、たった三本。だが柳沢は尋常じゃない力で紗羽を引き寄せた。今度こそ危ないと紗羽を掴む手をほどこうとするが、びくともしない。その間にも、鉄柵にぶつかる紗羽の耳元に、柳沢が口を寄せる。
「亜弥が生きてれば、まだ繋がっていたろうになぁ、残念だったな」
柳沢が笑い出す。
だがそれもつかの間だった。鎮静剤を用意した木内医師が、紗羽に夢中の柳沢の首筋に薬を投与したのだ。
すると簡単に柳沢は紗羽の袖を離し、ベッドに力なく座り込んでしまう。
その目は先程までのぎらつきは見られず、床を、いやどこともなく視線が定まらない様子だ。
「……大丈夫ですか、だから言ったんだ。一見明瞭そうでも、もう彼は正気じゃない。まともな話はもう無理です」
「そうかしら、収穫はあったわ」
乱れたジャケットを整えながら、紗羽は少しもへこたれた様子はない。さすが迫編集長が、一目置いているだけはある。
「まさか、真に受けていないだろうな」
「当然、調べられる限り調べるつもり」
木内医師が顔を歪める。
「あのね、いくらうちが緩い体質で、医療事故を頻発させるようなヤブ揃いだとしても、今の話はさすがに荒唐無稽だ。例え柳沢が何かを実際に埋め込んだとしても、注射で入れられるていどの異物で、そうそう人は死んだりしない。ましてや昏睡状態になるなんて他に原因があったとしか思えない。脳の検査までしてるのに、異物があれば誰にでも分かるだろう?」
「だから調べられる限り、調べるんですよ。妄想ならそれを確認するまでです。木内先生はなにをそんなに焦ってらっしゃるのですか」
「あ、焦ってなど……!」
どう見てもここにいる者のなかでは最年長だろう木内医師は、にっこりと微笑む紗羽のペースにはめられているようだった。
「それでは、お忙しいところお時間をいただきありがとうございました。またなにかあればお願いいたします。あ、調べた結果の報告は……」
「必要ない!」
「……そうですか」
紗羽は精気を失い、ぶつぶつと呟きながら体を横たえる柳沢を一瞥すると、小さく頭を下げた。
「柳沢先生のご回復をお祈りしております」
「心にもないことを」
「そんなことはありませんよ、彼が正気になれば、まだまだ聞きたいことがありますから。私も、遺族も、世間も」
そうして、返事を濁す木内医師を残し、俺たちは病室を後にした。
東宮病院を出てすぐのファミレスに二人で入り、取材メモをまとめる。すぐに出されたコーヒーをテーブルの端によけて、紗羽は一心不乱にメモを書きなぐっていた。
彼女が落ち着くのを待ちながら、俺は持たされたレコーダーの音声を確認するために、イヤホンをつけて再生させる。すると彼女も自前のイヤホンをレコーダーの二つ目のジャックに繋ぐ。
しばらく二人黙って聞き、最後の柳沢の言葉で紗羽は音声を巻き戻し、何度か聞き直す。そして満足したのか、イヤホンをはずしてコーヒーに口をつけた。
「本当なんだと思いますか、柳沢の告白は」
「眞木くんは、どう感じた?」
質問で返され、俺は返答に困る。
「妄想であればいい、とは思います。だが彼が元々どういう人物なのか分からないし、それ次第ではありえるかと」
精神を壊してしまった末の妄想と、思いたい内容ではあった。患者に告げずに勝手にわけのわからないものを、頭に入れられるなど、ぞっとする。だがあいつならありえる、そういう人物だったなら?
「紗羽さんはどう感じているんですか。調べたいということは、可能性があると?」
「実は……あいつとは、古い知り合いなの」
紗羽は力なく微笑み、そう告げた。
「柳沢と?」
「そう。私がまだ未成年だった頃、父の研究室に出入りしていた学生だった」
淡々と、彼女が説明してくれたのは、柳沢と彼女の父親の関係。
片桐紗羽の父親は医者で、一時期大学で教えていたことがあったのだという。そこで医学部生だった柳沢が、自宅での研究にも手助けとして訪れたことがあったのだそうだ。
「もちろん、数回会っただけ。だから今回の件で再会したときには、最初は思い出せなかったくらい」
「偶然、すか」
「ええ、驚いたわ。世間って狭いのね」
でも、と続けながらも、紗羽はしばし遠い目をする。
「忘れていなかったのは、昔も彼は少し変わっていて……少し怖かった気がする」
「どういう風に?」
「高校生だったんだけど、ねほりはほり聞かれたわ。学校の成績はどうかとか、お父さんの研究を引き継ぐのかとか、彼氏はいるのかとか。他にもしきりに自分をアピールしてきたりとちょっと困ってたの。そうしたら、ある日を境に家にこなくなったわ。おそらく、父が釘を刺したのだと」
当時の困惑した気持ちを思い起こしたのか、苦笑いを浮かべている。
「それって変わっていたっていうより、紗羽さんを彼女にでもしたかったんじゃ」
「そ、それはないと思う。父への媚の売り方を少し間違っただけだと」
慌てて否定しながら、頬を染める彼女からは、恐らく清楚な高校生時代だったのだろうと思わせる素朴さがにじむ。
「じゃあそれだけすか?」
「ええ、それ以来、話題にもならなかったわ。それに両親がすぐに事故で亡くなったから、医学部の学生さんとは接点なんてなくなったし」
「事故で?」
「ええ、あっけなかったわ、仕事で空港に向かう高速道路で。まだ高校生だったから、何がなんだか分からないうちに葬儀が終わって、しばらく実感なんてもてなかったのだけれど」
「……高校生で、それは苦労したんじゃ。すいません、こんなこと聞いてしまって」
寂しげに見えた紗羽にそう謝れば、ぱっと明るい笑顔に戻り、首を横に振った。
「気にしないで、そんなことより今大変なのは眞木くんの方でしょう? 大変なときに仕事に付き合わせて、悪かったわ」
「いやそれは、全然」
「葬儀には出るんでしょう? 遠慮しないで優先してね、別れはちゃんとしないと絶対に後悔するから。時間はもう決まっているの?」
「あ、いえまだ」
紗羽の熱心さに押されるように、連絡があればとスマホを取り出す。すると数件あった未読メールのうち、琉音の名前をみつけて開いてみる。どうやら面会中に届いていたようだ。
題名は、通夜と葬儀の日程が決まったとある。本文には解剖が無事に終わったこと、それから通夜は明日、葬儀は翌日の昼からだという琉音らしからぬ、用件だけの淡々としたものだった。
昼に仕事を抜けさせてもらうには忍びないことを紗羽に告げると、やはり彼女は何度も首を横に振る。
「大丈夫よ、絶対に出席して、大切な人なのでしょう?」
「親友でした」
「そう、辛かったわね」
大事な人を亡くした経験が、彼女を優しくしているのだろうか。
柳沢に対峙したときの毅然とした姿と、照れ笑いにはにかむ純真さをあわせ持つ。どちらが本当の彼女なのだろうか。いや、どちらも好ましく、魅力的な女性だ。
「ところで、本当に調べるんですよね。亡くなった女性の件」
「ええ、もちろん。そのままにしてはおけないもの。今回、柳沢に面会を願い出たのも、ご遺族からの情報があったからですもの。亜弥ちゃんが亡くなったこと、伝えて欲しいって。命がひとつ失われたことの重さを、もしまだ理解できるならって」
結果としては、その遺族の願いも虚しいものに終わった。
「改めて亜弥ちゃんのご両親にアポを取って、遺体に異物がなかったか確かめないと」
「そうですね、でも」
「でも?」
「
勝手に手術をしたと言い張る柳沢。それが昏睡状態に陥った少女にとって、幸福であったかのように恍惚としていた。畏れも後悔もないあの態度は、たとえ妄想であったとしても許せるものではないだろう。
そう憤ると、紗羽はじっと俺を見てから言った。
「眞木くんは、優しいのね」
「いえ、冷静さが足りないと茂さんによく注意されるんで」
「そうね、記者としては片寄りは危険だわ。何を知っても冷静に徹するべきだけど、人としては眞木くんが正しいわ。そのままでいてね」
紗羽はそう言って微笑むと、さっそく電話してくるからと席を外した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます