第6話 蜥蜴の尾②
翌日午前、亡くなった最後の患者、
影山家の所在地は、東宮総合病院から五キロほどより郊外にあった。駅から少し離れていることもあり、紗羽をバイクの後部席に乗せて向かうことになった。
しっかり腰につかまっていてくださいと伝えはしたものの、いらぬ心配だったことがすぐに判明した。高速道路を降りてすぐの信号待ちでようすを伺えば、紗羽は緊張するどころか、フルメットの奥から「楽しい」と弾んだ声が返ってきた。
いらぬ心配どころか、おそらく二輪免許を持っているのではと予測する。到着してから聞いてみれば、「やっぱり、分かってしまった?」と茶目っ気たっぷりに笑った。
バイクから降りた紗羽は、もちろん今日は女性らしいスーツ姿ではなく、紺のパンツスーツ姿だった。だがまとめていた髪を下ろし、持参したネックウォーマーをはずせば、柔らかそうな花柄のスカーフが現れて彼女らしさが戻る。
「少し早めに着いたけれど、行きましょうか」
約束の時間には三十分ほど早い。影山夫婦はまだ到着してはいないだろうが、事前準備のために予約は取ってある。個室ではないが、高い衝立で比較的席が離れている和食レストランで、話を聞くことにしたのは紗羽の提案だ。
揃って玄関をくぐれば、すぐに店員に席に案内される。
向かい合って座り、俺が取り出したのは書類の束。昨日のうちに取材資料として紗羽から渡されたそれらの束は、医療事故訴訟になった経緯と関係者の情報、それから各社メディアが報道した記事。一通り読んでおけと言われたが、あまりの量に読むだけで精一杯だった。
「読んでくれたようね」
紗羽がこれまで一年以上の時間を費やして追ってきたのは、当初は至極地味な事件だった。影山亜弥をはじめとする五人の患者たちが、東宮総合病院で柳沢の診察を受けたのが、約一年半前。柳沢が最初に診療したのは総合診療。主に初診の患者を扱っていた。そこに訪れた五人はすべて、心身症を疑う症状ばかりだ。ストレスが原因の目眩、動悸、震え、それから慢性的な頭痛にだるさ。紗羽の取材によると、その五人すべてが難しい勤務状況または人間関係を抱えていた。おそらく総合診療で柳沢が受け持ったのには、彼の専門が精神科だったからだろう。そして五人とも、柳沢から心理検査を指示され、後に診断を受けて向精神薬を処方されていた。向精神薬には合う薬を見つけられるかどうかが、回復までの時間を左右すると聞いたことがある。当然だが、この五人の誰もが、いくつか薬を変えて試していたようだ。だがある時から、一斉に同じ薬に変わる。それが五人を死にたらしめた問題の処方薬だ。この新薬の試験を引き受けた柳沢は、患者の観察を怠り看過できない状況を招く。
「治験は五人だけじゃなかったはずですよね?」
「ええ、そのはずなんだけど、他の患者には異常は出なかったらしいわ。でも効果もなかったということで、病院からその証拠は提出されたものの、個人情報だから一般には公にされていないわ」
「でも当たったんすよね?」
「ええ、遺族から同じ薬を投与された患者を教わって、話を聞けたのは二件のみだけどね。正直、みな病気を抱えているから、関わりたくないというのが本音ね」
「ああ、まあそうでしょうね」
亡くなった患者だけでなく、治験に賛同した患者すべてに製薬会社「タキ」は、かなりの額の見舞金を渡している。
──「タキ」その名を耳にしたのは、一昨日のことだ。まさか仕事でまたこの名に関わることになるとは思わなかった。
「タキ」の社名の由来は、創業者である社長瀧宗佑氏からきている。その娘である瀧さなえが、恭一郎の婚約者だった。
「紗羽さん」
「なに?」
「製薬会社の対応は、酷いものではなかったんでしたよね?」
「……そうね。でも薬を治験にまでもっていく前の段階でも、様々な実験をしているはず。それは製薬会社にも多くの責任があるからよ、医師に託した後もそれは変わらないし、治験にだって関わっているはず。それを忘れてはならないわ」
俺は頷く。これは恭一郎とは関わりのない事件だ、冷静にならなければ。
それから二人で影山夫妻との対面に備えて、いくつか打ち合わせをする。手の内をすべて伝える必要はないが、伝えねばならないことは言葉を選んででも伝えねばならないだろう。それが紗羽の考えだった。
「そろそろね」
紗羽が時計を見ながらそう言ったタイミングで、店員が客を案内してきた。
紗羽とともに立ち上がり、俺は彼女の隣に移って老夫婦に席を譲った。
「亜弥の葬儀以来ですね、片桐さん。その節はありがとうございました」
「こちらこそ、またお時間を取っていただきありがとうございます。こちらは新たに記事を載せていただくことになった、『蒼勢』の記者で助手をしてもらっている眞木くんです」
紗羽の紹介を受けて、頭を下げる。
「眞木誠司です」
「ずいぶんと背の高い記者さんですね、私は影山亜弥の父、徹ともうします、こちらは家内の明子です」
穏やかな口調で挨拶をする影山氏に名刺を渡してから、夫妻と向かい合わせで席につく。
少し早い時間だが、あらかじめ注文してあった食事が出されるのを待ち、紗羽は話を切り出した。
「お電話でもお伝えした通り、昨日柳沢に面会してきました」
「そうですか、あの人は今も入院しているんですよね。退院の見込みは?」
「おそらく、今のところ目処は立っていないと思います。かなり錯乱するようで、強い薬で抑えているようです。見た目もかなり衰えて、面影がありません」
「……そうですか。じゃあ亜弥が亡くなったことも理解できない?」
「いえ、そこは承知しているようでした」
夫妻は、紗羽の報告に首をかしげる。
「実は、柳沢から亜弥ちゃんについての新しい証言が出ました。しかしとても信憑性に欠けるものです、かなりぶっ飛んだ話なのですが……」
「かまいません、聞かせてください。あいつをもう裁判にかけられない、罪を償わせることができないとはいえ、私たちは真相を知りたいと思っています。私どもはこれまで、他の家族とは違いあえて訴訟問題から、耳を塞いできました。それは毎日の看病に膨大な愛情と理性を必要としていたからです。だが娘はもういません」
こちらとしては彼らが選べるよう言葉を濁したのだが、夫婦はそれなりに覚悟を決めているようだ。耳を塞いできたといえ、柳沢の言動について知らないわけはない。
「分かりました、では順を追って」
紗羽はあらかじめ用意しておいたレコーダーを文字に起こしたものを作っていた。もちろんすべてではないが、おおまかな流れがわかるものだ。それをまとめて夫妻に渡す。
「誰から聞いたのか、柳沢は亜弥ちゃんが亡くなったことを知っていました。面会最後に薬を投与されるまでは、激昂することなく比較的しっかりと受け答えをしています」
「……読ませていただきます」
父親である徹氏は、妻にも見えるように寄せて、紙をめくる。
彼らが文字を目で追っている間、紗羽はお茶に口をつけた。自分はそんな余裕もなく、夫妻の様子を見守る。
予想した通り、父親の表情は変わらないが、肌が赤らんでいく。妻の方もハンカチを口許に当ててショックを隠せない様子だ。
だが二人とも、最後のページを読み終わるまで、一声も発することはなかった。
一息ついてから、紗羽の方から切り出す。
「どう、思われましたか?」
しばらく沈黙し、影山氏は絞り出すような声で問う。
「……この男は、いったい何をしたかったんでしょうか。亜弥に、その他多くの患者たちに」
「影山さん……」
「五人も死んでるんですよ、亜弥だってすぐに死ななかったのはたまたまかもしれない。なのにまるで良いことでもしたかのように……本当に狂ってる」
「影山さん、私も知りたいです。どうして亜弥ちゃんを含め、五人もの人間が死ななくてはならなかったのか。だからこそ、確認をさせてください」
紗羽が切り出す。
「亜弥ちゃんのここ、耳の後ろになにか違和感はありませんでしたか?」
「違和感……」
柳沢が指で示した位置を自ら再現するが、夫妻は互いに顔をうかがい、しばし考え込んでから首を横に振る。
「あの、それは亜弥が昏睡状態になる、前でしょうか?」
大人しそうな妻の明子さんが、はじめて口を挟んだ。
「入院したのが、昏睡と同時でした。それまで亜弥は何も言っていませんでしたから、入院後が自然ではないでしょうか」
「そうですね、なにかするとしたら入院後、意識のない状態でないと。亜弥ちゃんだって当時十七才ですから、いわれのない治療は納得しないでしょう」
「それで、何を入れられたんでしょうか。薬?」
それが一番考えられることではあるけれど、ひとつだけひっかかっている言葉がある。
「薬なら、手術したとは言わないのではないでしょうか。正気を失っているとはいえ、長年医師として仕事してきていた人間なら、こう言うのではないでしょうか『投与した』と」
俺の疑問に、影山氏のみならず紗羽も頷く。だが影山氏の妻明子さんは、眉をひそめて怒りを吐き出す。
「注射器の仕草だったんですよね、それで何かを入れるって、まるで犬猫にするチップみたいじゃないですか、バカにしてます」
「……チップ? そんなものを入れてどうしようっていうんだ、それに
影山氏の言葉に、紗羽がはっとした顔をする。
それから慌てて自前のタブレットを取り出したかと思えば、検索をしているようだ。項目は犬、マイクロチップ、火葬。
しばらく文字を目で追っていたが、紗羽は真剣な面持ちだ。
「影山さん、亜弥ちゃんのお骨に、何か異変はありませんでしたか? たとえば一部……耳の後ろだけ黒く焦げたような跡があったとか」
驚いた様子の夫妻。
「それはどういうことですか?」
「今少し調べたんですが、基本的にはチップは溶けて無くなってしまうようなんです。焼却炉の温度はかなり高温ですから、当然といえば当然なんですが、まれに燃えた異物のせいでお骨が染まることがあるみたいなんです。亜弥さんのお骨に、そういった跡があれば、可能性としてなんらかの異物が混入していた証拠になるかと」
影山氏は紗羽の説明に、首をひねる。
「骨かぁ、どうだったか……見なかったというより、そういうことは気にしていませんでした。むしろ気がかりは、長く昏睡状態だったせいで、骨ももろくなってしまっていたことでしたから。火葬場の職員からは加減が難しく、何ヵ所も砕けてしまったことを謝られましたし」
「ねえあなた、確かめてみたらどうかしら」
すると明子さんが夫に提案してきた。
「骨壺はお墓におさめたけれど、いつかは中に散骨するのでしょう? 今ならまだ確かめられるわ」
「明子、それはそうだが、一度は経をあげて納めたものを」
「だって確かめないで疑いを持ったままでいるより、安心した方がいいわ。それに私、なんとなくだけど覚えていることがあるの」
そこで言葉を切り、ほんの少しだけ遠くを見る明子さん。
「何を、覚えているんですか、明子さん?」
「片桐さん、よく聞きませんか? お骨が崩れたり黒く染まったりするのって、その場所が癌で患っていた場所らしいとか、本当かどうかは分からないけれど、よく耳にする噂」
「ええ、耳にしたことがあります」
「私ね、亜弥の骨が黒く染まった箇所があったのを、見た気がするんです。でも噂のこともあって、そんなものなんだろうって気にも留めなかったわ。だから見たのがどこの骨なのか、さっぱり分からないの」
細く骨ばった手を、頬に当ててそう告げる明子さん。
「明子さん……」
「明子、おまえそれは本当なのか?」
いつからか、掘りこたつ式の椅子から腰を浮かせていた影山氏。だがのんびりと頷く妻の様子に毒気を抜かれたのか、ふうと一息ついて佇まいを直す。
「一度、調べてみようと思います」
「でも影山さん、どうかご無理のない程度で……」
いくら親でも、一度は墓に納めた骨を出してこようなんて、軽い気持ちではできるものではないだろう。取材する側としては知らなければ、真相がさぐれないところだが、無理強いはできない。
「いいえ、大丈夫です。私たちはもう、自由なんですから」
紗羽も俺も、彼の言葉にはっとして出かかった言葉を飲み込む。自由。言い換えれば、彼らには費やすべき相手はもういなくなってしまったのだ。
「後日、また連絡させてください。家内と二人で、もう一度亜弥と向き合おうと思います。それが亜弥のためになるなら、まずは私たちで確認します」
自嘲ぎみにそう言う夫に、気遣わしげに手をかける妻。
紗羽も俺も、そんな夫妻に深く頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
そうして影山夫妻とは別れ、レストランを出た。気づけば二時間ほど経過していた。取材の道具をリュックにしまいこんだ紗羽に、メットを手渡す。だが紗羽は受け取ったものの、しばらく考え込んでいるようだった。
「どうしたすか」
「え、あ、うん。今後のことを少し考えていて」
「今後って、遺骨の確認の返事のこと?」
「もし頭蓋骨あたりに何かが燃えた跡があったら、成分調査に出さなくちゃと思って。眞木くん、そういう成分分析に詳しい人、知ってる?」
「え、俺?」
「だって、証拠をつきつければ、柳沢にもうすこし追求できるかもしれない」
しんみりとしているのかと思いきや、全くもってそうではなかったらしい。
「あ、知り合いの大学に紹介を頼めばいいのかな、ちょっと待ってね、確か以前工学部の……」
再びリュックを背中から下ろそうとする紗羽の手から、ふたたびメットを取り戻す。どうやら彼女はもう、次の仕事の段取りに夢中のようだ。手帳の住所録から、つてをいくつかピックアップしている。
この精力的なところは、華奢な体のどこから来るのか。
自分の顎より下にある、栗色のつむじを眺めながら、一息つく。どうやら記者というのは、男女の差なく豪胆でなくてはやっていけないらしい。
彼女に対しての認識を新たにしたところで、ようやく社に戻る気になったらしい。紗羽にメットを被せてエンジンをかけた。すると今度は尻ポケットに入れておいた、俺のスマホが鳴り出した。
「いいわよ、出て」
紗羽に促されて取り出せば、相手は会社、しかも迫編集長の直電だ。とりあえずバイザーだけ上げて電話に出る。
「はい、眞木です」
『片桐くんはそこにいるか?』
「います、代わりますか?」
『取材は終わったか?』
「はい、ちょうど店を出て帰社するところで」
『代わってくれ』
紗羽に手渡せばヘルメットを脱ぎ、マナーモードから戻してなかったわと小さく舌を出した。
「片桐です、ええ、大丈夫です……え?」
声色が変わり、紗羽の顔色がみるみる青ざめる。
なにがあった?
「はい、分かりました……ええ、それは後程私から伝えます」
通話を終えると、紗羽は大きくため息をついた。
「……柳沢が亡くなったそうよ」
「い、いつ」
「今朝だそうよ」
驚きのあまり、声がうまく出ない。
死んだだって?
昨日の今日で?
俺は夫妻がこれで帰るのだと、揃って乗るのを見送ったバス停を振り返る。もちろん、すでに夫妻の姿はない。
俺と紗羽は、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
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