ブレイン ジャック
宝泉 壱果
第1話 再会
大学病院勤務はとにかく時間がないんだと、そう言う友人にようやく会えたのが、春を越えて梅雨が間近に迫った六月の初旬だった。
駅の改札を出たところで、新国立競技場の屋根が目に入った。国際一大イベントを象徴するモニュメントを、鬱々とした心持ちで眺めた日々は、もう二年も前のことだ。
すべての競技者にとって、自国の開催を現役競技者として迎えられるなんてことは、滅多にあることじゃない。だからこそ、目前で断念せざるを得なかった過去は、痛いという言葉では表しきれないほどの、挫折だった。
新しい人生を歩み始めた今でも、目にすれば良い気分はしない。そんな俺、
これから会うのは真面目が服を着たような男、
恭一郎は大学病院の脳神経科の医師として忙しい日々を送っているが、暇があれば飲みに行こうだとか、釣りに付き合えとか、声をかけてくるのはもっぱら彼の方からだった。
だが、ここ一年くらいはメールや電話でしか会える機会が減ってきていた。互いに仕事を持つ身なので当然ではある。だが恭一郎は二週間ほど前に、ぶらりと一度、自分のアパートに訪ねてきた。他愛もない用事だったのだが、久しぶりということもあり家に上がらせて飲んだ。そしてまた時間を取って会おうということになったのだが、今日の呼び出しはまた何か様子が違った。どうも報告があるらしい。
「
呼ばれて向かった席には、既に珈琲を注文していた恭一郎がいた。もとから時間には正確な男だったが、どうやらずいぶんと長い時間を潰していたようだ。ミルクを半分だけ入れて使う癖のある恭一郎のカップのそばに、空になった容器が置かれていた。
「悪い、待たせたようだな」
「いや、実は先に人と会っていたんだよね」
待ち合わせたのは、彼の勤務先がほど近い喫茶店だった。流行りの甘ったるいフレーバーを置くような店ではなく、壁にシミがあってもかまう様子もないような店主の営む店。
その最奥の窓際、小さめの机と椅子が、長い足を折り曲げて座る恭一郎はひどく不釣り合いだった。大学時代から、この男は身だしなみをしっかり整え、男の自分から見ても好感がもてるタイプだ。チャラチャラとした印象などはなく、しかし流行りの店もよく似合う。医師となった今でも恐らく変わることはない。いや、大人の男の落ち着きが増し、それ以上になったかもしれない。
「こんなところでも仕事か? 悪かったな、忙しいのに」
「お前ほどじゃないし、僕が頼んだんだ気にするなよ。とはいえ都合上、誠司をこの場所に来させることになって申し訳なかったよ」
「……もう気にしてねえよ」
スモークガラスの窓を通してさえも、照りつける太陽は外の景色を鮮明に映しだす。
店内からは見えることはないが、もう何年になるだろう。あの新国立競技場で華々しくセレモニーを受けるために、生活の全てを賭けていたと言ってもいい。そんな時代が、自分にはあったのだ。
だがもう昔のこと。不本意な理由で道を絶たれた競技人生だったが、もう戻れないものにしがみついていられるほど、人生は甘くない。
二〇二〇年のオリンピックは波乱の中で開催された。ゆえに後世、本来の目的ではない部分で歴史に名を遺すことになる──。それは俺の上司である男の言だ。
大会の前年に起こったアジアの緊張に、開催も危ぶまれた状態だったが、不安定な情勢だからこそと強硬した面もある。常にテロへの警戒に揺れた日本。目指していたはずの自分が参加できないとなれば、全てが白々しく思えて、オリンピックなどぶち壊してくれればいいのにと、酷いことを考えたりもした。
だが、何もかも終わって、既に二年だ。俺は改札の風景を思い出して呟く。
「駅、想像してたよりさびれてんのな」
「今の時間はしかたないだろう、でも大学もあるし、朝は比較的にぎやかだよ」
拡張工事虚しく人のまばらな駅を思い出して、複雑な心境になる。
「そういえば、先週うちの病院で、近代競技を目指す選手に会ったよ」
「おまえの病院でか?」
「ああ、たまたまリハビリ病棟に用があってね、僕の同期が診てる子がそうだったんだ。落馬して骨折したらしい」
「ああ、旺華大学がまた近代五種を入れたっていう噂は、俺も聞いてる」
「まあね、マイナーではあるけれど相変わらず海外では人気競技だ。スポンサーもつきやすいんだろう。誠司はもう馬場は行かないのか?」
「面倒臭い、バイクで充分だろ」
「面倒って……まあ、お前らしいな」
そんな俺の言い訳に、恭一郎は声も出さずに笑っていた。
「射撃はたまにやりたくなるが、そもそも時間より金がない」
「あんなに働いてるのに?」
「立派なブラックだからな。時間拘束されるのは医者のおまえと差はないが、給料は天と地ほどの違いだ」
苦笑いを浮かべる恭一郎の前に、持っていた封筒を差し出す。
「先日預かったキャリアのデータだ。大したものは入ってなかったけど、一応プリントアウトしておいた」
「ありがとう、助かるよ」
恭一郎が先週ふらりとやってきた時に持ち込んだのは、ずいぶん昔の携帯電話だった。廃棄したいが、充電器がないため、中身を確認できないということだった。
携帯電話はスマートフォンに変化し、そして今はVR通信システム──通称『ジャック』に取って代わりつつある。
『ジャック』というのは、二〇一〇年代に入ってからヒトゲノム解析がほぼ終わると同時に革新的に進んだ脳科学を応用し、通信技術にバーチャルを取り入れたものだ。液晶画面は必要としなくなり、形状だけならイヤホンジャックのような代物だ。通信アクセスは脳へダイレクトに情報を繋ぐことから、通称も『ジャック』と呼ばれるようになった。まだまだ利用者数比率はスマホと二分するが、市場を凌駕するのも時間の問題だろうと言われている。
スマホに代わった時ですら、革命的だと感じたものだが、ジャックはその更に上を行った。めまぐるしく変化するに従って、幻のように消えて行く古い機種。それらを集めるのが趣味なのを知っている恭一郎は、俺に頼むことにしたのだという。機種は三年以上前のものだが、ガラケーと呼ばれていたものだった。その頃には既にスマホが主流だったが、卒業間近で忙しい恭一郎は機種交換が面倒だったのだと笑っていた。
「三年以上前の写真か……懐かしいな。まだ誠司が競技を続けていた頃か」
封筒を開けて、フォトフォルダに入っていた一覧を眺めながら、恭一郎は目を細める。
登録されていたのは学生時代の友人関係、それから関係医療機関の公的なものと、教授たちの連絡先。それからもっとも多かったのは、フォトデータだった。そこには自分と恭一郎、仲が良かった恩田の姿。
「それで、本体は廃棄でいいのか?」
「すまないけど、データを消去して処分してくれないだろうか? 今時そんな古いもの、引き取ってくれる所があればだけど」
「ああ、知り合いの店なら大丈夫だ、来週には行く予定があるから処分しとく」
「助かるよ」
「気にすんな、ところで話があるって?」
連絡をもらって都合をつけたのは一昨日の晩だ。恭一郎からこんなに急に時間を開けて欲しいと言われたことは初めてだった。何か理由があってのことだろうと聞けば、思ってもみなかった言葉を聞くことになった。
「じつは、婚約することになったんだ」
「……誰が?」
「僕に決まってるだろう」
「はあ?」
突然の話題に、思わず大きな声が漏れる。その声に、のんびり注文を取りに来たウェイターが怪訝な顔をする。取り繕うように珈琲を注文し終えて、俺は咳き込みながら恭一郎を問い詰めることに。
「まさか、
「違う、
「じゃあ俺の知らない女か?」
「ああ、実は仕事で知り合った製薬会社の
何か困ったことでもあるのかと思っていただけに、目の前の恭一郎の、思いのほか幸せそうな顔を見て俺は驚いていた。
この男は人当たりは良いものの、どこか他人と距離を保つところがある。それが自分にとっては心地よい部分ではあったが、好意を寄せる女性にとっては物足りないのだと、よくそれが理由で別れ話を突きつけられることが多かった。
「そうか、よかったな。おめでとう恭一郎」
「ありがとう。近いうちに誠司と琉音にも会わせるよ。控えめで優しい人なんだ」
そう言って恭一郎は、何の動作も見せないまま、ジャックから俺のスマホに保存してあった写真データを送ってきた。
恭一郎は、『ジャック』発売初期からユーザーとして名乗りをあげている。脳科学の分やに身を置いているからなのだろう。何度かおまえも使ってみろと勧められているが、自分はいまだ旧式のスマホを所持している。
胸ポケットからスマホを取り出して、送られてきた写真を見る。
恭一郎と並んで微笑む女性は、大人しそうな印象の和美人だった。服装も清楚で女性らしく、柔らかな印象だ。
「しかしずいぶんと急だな、いつから付き合ってたんだ?」
「ああ、付き合うとほぼ同時に婚約したから」
すべてにおいて慎重な恭一郎の、どこからしからぬ素早い行動に驚く。だが、せっかくのめでたい報告にケチをつける必要もないと、言葉を飲み込み「そうか」と相づちをうつ。
本当に気の会う相手に出会えば、時間は関係ないものだ。それはなにも恋人同士だけでなく、友情も変わらない。俺と恭一郎が大学で出会って、打ち解けるまでにそう時間がかからなかったと同じように。
「ところで、おまえこそ最近どうなんだ、誠司? まだ見習いなのか?」
「……まあ、な。原稿は短いのならたまに書かせてもらってる」
不意打ちゆえに誤魔化しきれなかった。
「不規則な仕事なんだろう、ちゃんと食べてるのか?」
「おまえは俺の母親かっての」
小さい声で呟いた言葉もしっかり聞こえたようだ。
「誠司はいつも夢中になると、自己管理をいい加減にする癖があったからな、いい年なんだから直せよ。せっかく拾ってくれた
「
迫というのは、俺が働き始めた出版社の看板週刊誌『蒼勢』の編集長だ。鬼のような執念でスクープを狙う、昔気質の記者だった。わけあって大学を出てからブラブラしていた俺を、編集助手として社にかけあって雇い入れた変わり者だ。仲間内では「オヤジ」と呼び、尊敬しつつ恐れている者も多い。
「だけど、迫さんの所でやっていくことに決めたんだろう? 個人競技向きのお前にしちゃ、よく続いてるからな」
「まだ用心棒兼通訳に、あっちこち引きずり回されてるだけだし」
元々文章を書くような世界に生きていなかった自分を買った理由は、有り余る体力と帰国子女だった語学力だ。それでも編集長の迫さんだけでなく、同僚の鍛え上げには、記事を書かせるための取材の仕方を叩き込もうとしてくれているのが理解できる。だからこそ、畑違いの世界に入り二年目を迎えることができていた。
「そうか……お前も居場所ができたんだな。なんにしろ、少し安心したよ」
だからお前は母ちゃんかっての。俺の苦笑いを笑顔で無視しつつ、恭一郎は冷えきった珈琲に口をつける。
俺もまた届けられた湯気の立つ珈琲をそのま口をつけると。
「で、誠司と琉音はどうするんだ?」
「は? 恩田がどうしたって?」
「つきあってるんだろう?」
思ってもみない言葉に、俺はカップの中で黒い液体を噴きこぼし、盛大にむせた。
咳き込みながら、慌てておしぼりで口元を拭いている間にも、恭一郎は続けてくる。
「忙しくても彼女とだけは会っているんだろう?」
「ちょ、待て、なんか誤解してないか?」
「何を?」
琉音と恭一郎が呼ぶのは、同じ大学の後輩のことだ。俺と恭一郎、そして恩田琉音は、何をするでもなく常に一緒だった。俺が恭一郎を相手にするのが楽なのと同じく、恩田もまた同じような存在だ。性別こそ男女ではあるが、そのような対象として見たことはない。そんなことは恭一郎が最もよく知るはずなのだが。
どうやらこの友人は幸せのあまり、とうとう頭のネジが緩んだのではないだろうか。
「俺と恩田が、どうしてつきあってることになるんだよ」
「あれ? だって琉音が『先輩とついに朝をむかえちゃいました!』て、先日」
そう言いながら、恭一郎は恩田からのメールを俺に見せる。確かに恩田のアドレスから送られてきたものらしい。そして日付に目をやって、すべてを納得する。
「あんの、馬鹿が!」
「あれ、違った?」
にこやかに笑う恭一郎に、このメールの顛末を話して聞かせる。
「この日は例の事件があって警視庁に詰めてたんだよ、なにが朝までだ! あいつの職場じゃねえか」
「ああ、そうか。なんだ、琉音らしいなあ」
「嫌がらせか、あいつ」
恭一郎が笑いだす。
恩田は俺たちから一年遅れて大学を卒業後、警視庁情報処理班として働いていた。医師の恭一郎、記者の俺、それぞれが違う道を歩み始めて三年。
「そういえば、例の事件は琉音も担当してるのか?」
恩田も捜査に加わり、一晩警察に詰めねばならなかった事件というのが、恭一郎の言う例の「臓器強奪事件」だ
ほんの二週間ほど前、日本のみならず世界を震撼させる事件が起きた。脳死提供者の臓器が、移送途中で何者かに襲撃され、奪われたのだ。犯人もその動機すら分からない不可解な事件に、日本中のマスコミがその真相を掴もうと、スクープを追い右往左往したのだ。
医師としてだけでなくとも、恭一郎が気にするのは無理もないことだ。被害にあった臓器の届け先が、恭一郎のいる大学病院だったのだから。
「あいつの部署は映像解析が主だからな、人手が足りないってことで、他の担当をしていた恩田もかり出されたらしい。最近は現場にも回される研修中とかで、楽しそうだったな」
「ああ、琉音らしいな」
「案外向いてるんだろう、じっとしてられない性質だから」
恭一郎は学生時代でも思い出したのか、遠い目をして微笑む。
「また、三人でゆっくり旅がしたいな」
「一番忙しいお前が言うかよ、それにもう無理だろう。これからは婚約者を連れてってやれ」
「……そうだった。でもそうしたら琉音に、文句言われるな」
「なんでだ?」
「あいつはお前と行く口実がなくなるだろ、僕はいつでもオマケだったんだから」
「オマケは恩田の方だろ、笑えねえ冗談はもうよせって」
鞄を持って押しかけてくる恩田琉音の姿を容易に想像できる。それは彼も同じだったようで、恭一郎は破顔した。
「これからまた診察なんだ。難しい患者を抱えててね」
揃って喫茶店を出て、恭一郎は職場の大学病院へ、俺は再び地下鉄に。
だが確認し忘れていたことに気づき、恭一郎を呼び止める。
「おい恭一郎、聞くのを忘れてたが、これも廃棄でいいのか?」
手帳の間に挟んであった、携帯電話の本体から抜き取った、SDカードを見せる。
ジャックが市場に出回る以前からデータのやり取りはクラウドを利用するようになり、通信料という概念もなくなった昨今、メモリーカードは一般人からすれば化石のようなものだ。とはいえ、レコード盤を今も愛する者がいるように、ガラケーと呼ばれた古き良き時代のものを収集する、自分のような者も少なくない。そのうち売れば値段もつくだろう。
「それこそ僕には使いようがないな、使えるようだったら再利用してくれ」
「じゃあ遠慮なく。データは本当に消去でいいんだな?」
念押しして尋ねれば、恭一郎はうなずく。
「もちろん。頼むよ」
俺はそれを受けて、尻のポケットから手帳を出して挟んだ。常に手ぶらで過ごすことが多いが、スマホと手帳だけは商売道具、肌身離さず持ち歩く習慣だ。
「すごいな、まだ夏前だっていうのに、もうボロボロじゃないか」
「まあ、古くさいオヤジに仕込まれてるからな。ジャックにだって手は出すけど使いこなせてない」
ひとしきり笑い終えた後で、恭一郎は職場である旺華大学付属病院へと戻っていく。
しばし見送った後ろ姿が、恭一郎を見た最後となるとは思わずに──
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