第2話 死

 恭一郎の大学のある地区より新宿方面へ向かった場所に、藤文舎という出版社の編集部がある。小さな出版社ではあるが、メインを張る週刊『青勢』の、地道な取材から打ち出される記事で、それなりの部数を稼いでいた。

 それもこれも『オヤジ』と呼び慕われている名物編集長、迫の力といえよう。もとは大手新聞社でならした記者だった迫は、そのテコでも動かない頑固さから、古巣を追われた経験があるのだ。所詮記者は一人で記事を世に出すことは叶わない。大手に逆らった迫──「オヤジ」は、己の信念を売ることができず、干された。その後オヤジは、再起できるまで相当な紆余曲折をしたらしいが、詳しくは知らない。

 そんなオヤジだからこそ、ただ腐るだけだった自分でも拾ってもらえたのだろう。

 千駄ヶ谷から地下鉄に乗り、乗り継ぎ駅に停めてあったバイクを拾い、同僚が詰めている記者クラブに急いだ。恭一郎に会うために時間を空けたはいいが、代わりとばかりにオヤジに仕事を言い渡されていたのだ。全くの畑違いの世界から、オヤジに引きずられるようにして入ったこの世界。まだまだ使い走りで失敗も多い。だがいちいち落ち込んでられる暇がないほどに、仕事が尽きないのがせめてもの救いだった。

 件の同僚から原稿と取材資料などを受け取り、これまた今時メールですませられないのかと他社の記者に蔑まれながら、急いで社へ向かう。

 おんぼろビルの地下にある駐車場へバイクを停めると、急いで階段をかけ上がる。親父からもぎ取った三時間の休憩時間が、終わろうとしていた。

 唯一のエレベーターが最上階にいるのを見た俺はあっさり諦め、編集部へ続く汚くて狭い階段へ。するとちょうど降りてきた年配の同僚とすれ違う。古びた雑居ビルでは、大の男がすれ違うにも大変な狭さだ。

「おう、戻ったのか眞木。オヤジが探してたぜ?」

「休憩はまだ終わっちゃいないはずですが……」

 改めて時計を確認すれば、約束の時間までにはまだ十五分ほどある。

「そんな言い訳、オヤジに通用するわけがないだろう、新入社員じゃあるまいし、まだそんな寝言を言ってんのか」

「まあ確かに……茂さん、それ?」

 目にはいったのは、厳つい中年には似つかわしくない、首からかけられた新品のジャック。

「ああ、ちょっと娘にそそのかされてな」

 茂さんと記者仲間から親しみをこめて呼ばれる彼は、多田茂之。油の乗り切った五十代のベテラン記者だ。容姿は熊のようなガタイに、鋭い目つき。記者というより、ヤクザかなにかにしか見えない。そんな彼だからこそ、首からかけた記者証とともに揺れるジャックが、ひどく浮いて見える。照れたようにそう言い訳する熊の弱点は、高校生と中学生になったばかりの、二人の娘だ。不規則な仕事のせいで罪滅ぼしか寂しさからか、デスクに家族の写真が飾られている机は少なくない。茂さんもまたそのうちの一人だ。

「笑うなよ、てめえまで」

「笑ってません。それより、これから取材ですか?」

「ああ、噂というか情報提供があって……まあ、ちょっと信憑性は低いんだが、他にあたるとこがない。一応確認に行くさ」

 口にすることをどこか躊躇う茂さんの様子に少しひっかかる。彼は臓器強奪事件を担当している。

「大丈夫すか? 危ないことなら俺も一緒に」

「いや、いい。おまえはオヤジが呼んでるって言ったろ、早く行け」

「分かりました、じゃあ気をつけて」

 片手を上げながら階段を下りる、熊のような背中を見送った。

 頻繁な人の行き来、積み上がった資料と並ぶ机で雑然とした印象の事務所に入ると、最奥にデスクを構えるオヤジの鋭い目が合った。

「ようやく戻ったか眞木、眞木誠司! ちょっとこっち来い」

 目ざとい人だと内心ため息をつきながら、俺は編集長である迫彬斗さこあきと──オヤジの元へ急ぐ。そして預かっていた原稿の入った封筒を手渡した。

「ああ、ご苦労」

「まだ時間前ですけど、どうかしたんですか?」

 オヤジは原稿を取り出して、首にかけていた眼鏡をかけながら俺をちらりと見る。

 さきほどの茂さん同様、鋭い眼光はとても還暦ちかいとは感じさせない。白髪まじりの髪と眉の下から、じっと見据えたような瞳。常に真実を追求する生きざまが込められている。ゆえに決して大柄ではないのに、存在感は並ではない。

「実はな……」

 オヤジが喋り始めようとしたその時、俺のスマホが振動とともに鳴る。画面を見れば、着信のメッセージと共に表示されたのは『恩田琉音おんだるね』の名前。

 あのバカと内心で舌打ちながら、急いで保留に切り替えた。

「誰だ?」

「私用です、続けてください」

「……ああ。眞木、お前に迎えに行ってもらいたい人がいる。今度うちでも取り上げることにした医療訴訟を、以前から追っている記者だ。空港に着いたが身動きが取れないらしい」

 空港と聞いてすぐになるほど、と納得した。今日は確か有名な歌手の来日が、政府要人の出国が重なり、空港がてんやわんやだと聞いていた。

「じゃあ、資料を渡したらすぐに向かいます。社に連れてくればいいんですね?」

「いや、そのまま製薬会社に取材に行きたいそうだから、案内してやれ。うちは医療関係は弱いからな、あっちの取材に手を貸すかわりに今回の事件にも情報を提供してもらう予定だ」

「分かりました」

 社会、政治関連の記事が得意の週刊誌だが、医療関係も扱っていないことはない。だが、メインではないため、知識に明るい記者ばかりではない。

「頼むよ、フリーのライターだがえらい美人だ。鼻の下のばしてナメられるなよ」

 にやりと口許を上げて忠告するオヤジの言葉に、周囲でPCに向かっていたり打ち合わせをしていた社員が、聞いていたようで笑い声をあげた。

 さっそく出かけるつもりでいたら、オヤジに他の記者から、電話が入ったと声がかかる。

「電話? 誰だ……警視庁の恩田って……」

「恩田?」

 オヤジと俺は顔を見合わす。しかしオヤジは何も言わずに電話に出て一言二言、言葉を交わす。そしてしばらく耳を傾けていたとおもえば、眉を寄せながら俺に受話器を差し出してきた。

「予定は変更だ、今日は上がっていい。だが明日はちゃんと朝から顔を出せ」

「は? ……何、いってんすか?」

 とにかく仕事の途中だ、早く要件を済まそうと電話を受け取る。

「眞木です」

『マキちゃん先輩、ルネです』

「恩田、職場に私用電話するなって」

『先輩……どうしよう』

「恩田?」

 かすれそうな声は、無駄に元気がとりえの恩田らしくなかった。いつだってうるさいくらいに喋り倒す彼女の、聞いたことのない声に困惑する。

『恭一郎先輩が……。どうしよう、マキちゃん先輩。恭一郎先輩が……死んじゃったの』

「は?……なに、言ってる? 恭一郎ならさっき会ったばかりで」

『やだよ……息してないなんて』

 受話器からもれる嗚咽に、何も言い返すことができずにいた。恭一郎とは、ほんの二時間前に分かれたばかりだ。それがどうして、死んだと言われなければならない。

 恭一郎の歩き去る背中、そしてはにかむように結婚という幸せな未来を語った姿を思い出す。

「恩田、今どこにいる?」

『先輩のそばに……これから警察車両で先輩を病院に運びます』

「場所は?」

『旺華大学付属病院です』

 恭一郎の勤務先だ。

「死因は……?」

『飛び降りです、ビルの屋上から』

 そうか。力なくそれだけ言って受話器を置く。

 呆然と目線を泳がせる自分に、オヤジがため息まじりにもう一度言った。

「帰っていい、迎えは茂に代わらせる。行け」

 俺はすぐさま編集部を出て大学に向かった。



 バイクを駐輪場に置いて、附属病院の玄関まで走る。診療時間が終わる頃だろうに大勢の客の出入りするホールを避けて、守衛のいる裏口へ回る。すると、建物の奥には何台かの警察車両が横付けされていて、数人の制服を着た警察官の姿も見えた。

 物々しい雰囲気が、よけいに焦りを募らせる。

 警官の行き来する間を駆け抜けようとしたところで、止められた。

「友人が運ばれたと連絡を受けた、通してくれ」

「入院患者への面会なら、正面玄関を利用してください、今はこちらは閉鎖されています」

 制服の警官が、迷った一般人への対応をマニュアル通りに繰り返す。

「違うんだ、ここに警察車両で運ばれた、恭一郎……逢坂恭一郎の」

「おい、そこで何をしている?」

 警官に止められて押し問答を始めたところで、規制テープの向こうから低い男の声がかかった。姿を現したのは、スーツ姿の背が高く若い男。刑事だろうか。

「あんた、どこから嗅ぎ付けた?」

 スーツの下にさげていた記者証をめざとく見つけた刑事らしき男が、いぶかしげに見下ろしてくる。長身の自分が見下ろされるくらいである、その男は恐らく百九十近くあるのではないだろうか。切れ長の鋭い眼光は、こちらの動きをつぶさに見逃さないと言いたげだ。

「逢坂恭一郎の友人だ。恩田から連絡を受けてきた」

「恩田だ? 恩田琉音か」

「ああ、そうだ」

「まさか、おまえがマキ……あいつが言っていたマキちゃん先輩とかいう奴か」

 驚いたような顔でまじまじと見返された。

「そうだ、知ってるのか?」

 長身の男が規制テープを片手で持ち上げ、顎で入れと指図する。促されるままに潜り抜け、男に連れられて寂れた裏口から病棟に入った。薄暗い廊下を突き当たった先の扉の前で、うつむいたまま長椅子に座る女がいた。

「恩田、いつまでそうしてるつもりだ。お前は警官だろうが」

「……はい」

 消え入りそうな声で答えても、顔を上げようとしない。栗色のショートヘアからのぞく白いうなじが、紺のスーツの肩が、震えているのがわかる。

「分かってるんなら状況を説明しろ。お前が呼んだんだろう、この男を」

「え……」

 ようやく持ち上がったその顔。同僚からこちらに向けられた瞳は涙にぬれている。

「マキちゃん、先輩」

「いったい恭一郎になにがあった、教えてくれ恩田」

 恩田琉音の顔が歪む。食いしばった口を、震えながら開く姿は、いつもの後輩らしくない。それがひどく嫌な予感を煽る。

「通報があって……人が飛び降りたって。駆けつけたらそこに……恭一郎先輩が」

「自殺? 恭一郎が? そんなわけあるか、誰かにやられたんじゃないのか?」

「私だって信じられないよ、でも、先輩はもう……息をしてなくて。それが、事実で……なにもわからなくて」

 とても信じられなかった。だが立ち上がった恩田が開いた扉の先に、横たわる遺体。全身に布がかけられていて、顔を確かめることはできない。恩田からは家族を差し置いて見せるわけにはいかないと告げられ、ただ布からはみ出た血の気のない手を見て、俺はただ立ち尽くすしかなかった。

 冷たい安置所にただ横たわるモノが、ついさっきまで会って会話していた親友だということが、どうしても理解できない。いや、理解したくなどない。

 幻を見たのだと思いたい。

 我慢の限界とばかりに声をあげて泣く恩田とともに、引きずられるようにして刑事に連れ出された。事件性を確かめるために、検視解剖があると聞かされ、結局病棟を放り出された。

 親族ではないただの友人に、それ以上そばにいる資格などないのだ。

 大学ゆえに広さだけは無駄にある。通路にあったベンチらしきものに、鼻をすする恩田と並んで座ると、全身から力が抜けた。

 どれだけの時間、ただ空をながめていただろう。

 ふと、枯れた声で恩田が話し始めた。

「恭一郎先輩は、ここから……勤務先であるこの旺華大学病院から五キロほど離れた、ある雑居ビルの二階の屋根部分で倒れていました。ビルの屋上からは先輩の上着と、鞄が見つかってます。ビルの構造上、先輩が落ちたのは屋上から、エレベーター棟の目の前。すぐに通報されたのは、落下していく先輩を、エレベーターに乘った客が目撃したからです」

 人の目につく場所からの飛び降り。恭一郎からはまるで想像できない死にかただ。

「先輩が、なぜそんな商業ビルにいたのか分かりません」

 恩田の言葉に、俺はようやく恭一郎との会話を思い出す。

 ──これからまた診察なんだ。難しい患者を抱えててね。そう言って病院に戻ったはずじゃなかったのか。

 それを伝えようとして、目の前に大きな影が差した。そこに立っていたのは、さきほどの背の高い刑事だ。

「眞木誠司……被害者が勤務中に休憩を取って、大学時代の友人に会いに行くと言っていたそうだ。真実か?」

「マキちゃん先輩が?」

 恩田が最も驚いたように俺を振り返る。

「ああ、今から三時間ほど前に、千駄ヶ谷の喫茶店で別れた」

「なるほど、では最後に会っていたのか。詳細を聞かせてもらおうか」

 見上げた刑事は、チラリと恩田を一瞥し、続ける。

「明日、署に来てくれ」

「黒崎さん、私も同席します」

「お前は捜査から外れる。事件性がなくてもこれは規則だ」

「そんな! 大丈夫です、ちゃんと冷静にやれます」

 黒崎と呼ばれた刑事は、小さくため息をついて首を振る。見るからに融通はきかなさそうだが、恐らく恩田にとって指導員に当たる立場なのだろう。何度か恩田の口から、厳つくて怖い上司がいると愚痴を聞いたことがある。

「大丈夫だ、聴取くらいいくらでも協力する。恭一郎に何があったのか知りたい」

「マキちゃん先輩……」

 そうだ、何でもする。

 恭一郎がどうして死ななければならなかったのか。その理由を、俺は知りたい。

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