第15話 落ち穂拾い
東には
村には五十戸ほどの家があり、普段は田畑を耕すことを
平田を含めたこの地は、昔から南近江をあずかる
義賢は、その子
この時も、浅井
その浅井軍は、
火は収穫を目前に控えた稲の穂を
後には、幾つもの
その人影は、今はもう動かなくなった兵士の
剥ぎ取られた兵士は、裸のままそこに放置された。
もうすでに、
それらの人影は皆、幾らかの戦利品を手にすると、背中を丸めるように抱えながら、また森の中へと消えて行く。
そう、その人影とは平田の農民達であり、これが彼らのもうひとつの顔でもあった。
「
この村の長老、
「ご苦労様です。さっそくですが伝兵衛さん、刀や槍、鎧は地下の倉に運ばせて下さい。それから、
この村人たちに指示を出している男、名を
数年前からこの村で、彼ら農民と共に暮らしている。農民達は彼が何処の誰だかは知らない。ただ、平田の農民にとって、又十郎は無くてはならない存在になっていた。
若手衆のひとり、
「又十郎様、おら達は何をすればいいだか?」
「彦二郎は子供らを連れて、豊郷から彦根にかけて焼け残った稲穂を一粒でも多く掻き集めてくれ」
又十郎はこの若者を大変頼りにしていた。彦二郎もそんな又十郎を、時には父のように、時には兄のようにと慕っている。
「ま、又十郎様、お、おらは何をすれば・・・」
口を曲げながら
又十郎は惣四郎の肩をひとつ叩くと、彼の耳元で
「惣四郎、お前は見張りじゃ。重要な役目じゃぞ。もし、六角の兵がひとりでも見えたら大声で知らせるのじゃ、よいな!」
「わ、わかった」
惣四郎には緊張するとどもる
又十郎は瞬時のうちに指示を出し終えると、馬を走らせた。行き先は
彼は馬を飛ばすと、
又十郎は物売りの格好に扮すると、さっそく今浜城下での情報を集め始めた。
一方、伝兵衛や彦二郎達も又十郎からの指示を着々とこなしていた。惣四郎も言われたように、西の地平線を暗くなってもずっと見つめている。
又十郎が戻った頃には、もう村は何もなかったかのように、またもとの静けさを取り戻していた。
「彦二郎、稲穂はいかほど集まったのじゃ?」
又十郎は期待を込めて彦二郎に尋ねる。
彼は、
「豊郷の燃え残っていた稲穂は、ほとんど刈り取ることができましただ。それに、この子らのおかげで、落ちている穂も
「そうか! 孫助も六郎太もご苦労であったな」
又十郎は子供達の頭を優しく撫でると、
孫助も六郎太も着物の帯にそれをさすと、得意そうな笑みを浮かべた。
次に、又十郎は伝兵衛達に六角家の動きを尋ねた。
「伝兵衛さん、その後六角家の侍の動きは如何ですか?」
「二~三日前、物見の者がやって来て、
伝兵衛が答える。
「おら達に、追い
得意そうに、弥右衛門が鼻を鳴らしならす。
又十郎は、嬉しそうに目を細めると、もう一度皆を見回した。
それから半月ほどたった頃、平田の村に六角家の侍がやってきた。
先頭の武将は
その少し後ろには、その体格とは不釣り合いな水牛の
「この村の
芦毛馬の武将が大声で尋ねる。
皆は一斉に、又十郎の方に顔を向けた。芦毛馬の武将は、
「そなたが、この村の長か? 名は何ともうす?」
又十郎は答える代わりに、手に持った
「お侍様、まずはご自分から名乗るが筋と存じまするが」
又十郎は、目だけは目の前の芦毛の馬を見つめながらも、そこはかとない
芦毛馬の侍は、そんな又十郎に目を向けながら、声だけはなお穏やかである。
「これはすまなかったの。
馬淵嘉門は彼の後ろに控えるもうひとりの侍に目を向けた。水牛の角立てを持った侍は、うるさそうにと馬頭を横に向ける。
「拙者は、あいにく百姓共に名乗る名前など持ちあわせてはおらん」
これには、嘉門が答えた。
「あいすまぬ、こちらは六角義治様が家臣、
又十郎は、両人に深く一礼すると、
「拙者は又十郎と申します、この村では
「又十郎と申すか。実は先の浅井勢との戦の際、当方の兵の骸が山賊に荒らされてのう。その
嘉門の言葉は柔らかかったが、その目はすべてを見透かしているような深い輝きがある。
後ろから布施貞時が言葉を
「馬淵殿、百姓共に遠回しな言い方をしても分かりますまい」
貞時は馬を村人達の前へと押し進めると、さらに大きな甲高いお声でこう伝えた。
「お前達の中に追い剥ぎをした者がおるであろう。その者は、今すぐこれへ名のれ」
村人たちは横目で又十郎を追う。
又十郎は嘉門の馬首をトントンと
「お侍様、ここの村人達は、ひとりもその様なことは致しておりませぬ。
布施貞時は馬を操る
「しょせん百姓の言うことじゃ、信用ならん。きっとしっぽを
帰り際、馬淵嘉門は又十郎にそっと囁いた。
「又十郎とやら。見たところ、お主もとは武士ではござらぬか? もしよろしければ名前を聞かせて・・・」
「拙者は又十郎にございまする。今は農民の居候の身、ただそれだけでございまする」
嘉門は、それ以上尋ねることはしなかった。
又十郎は深く一礼すると、彼らの後ろ姿をいつまでも見ていた。
それからも、平田の農民達は又十郎の指示のもと、米や農作物作りに精を出し、そして時には戦で死んだ侍から鎗刀や衣服などを剥ぎ取る行いをしていた・・・
時は過ぎ、また浅井勢が南近江に兵を進めて来た。対する六角軍も戦上手の
はたして、またも双方には多大な損害を出す結果となった。
平田の農民達は、田畑に横たわる敵味方いくつもの骸を回っては、いつものように様々な品々を持ち帰る。
そんな中、この村の運命を大きく変える事件が起こった。惣四郎が六角家の武将に捕らえられてしまったのである。
その日、惣四郎はいつものように見張りの役目をしていた。
その彼の目の前には、六角勢の足軽の骸が転がっている。彼はその骸から兜を取り上げると、それを自分の頭にのせた。
別に意味など無い。ただ、兜とはそうするものだと惣四郎は思っただけである。そこに、六角方の侍が駆けつけたというのだ。
当然言い訳できるほど
数日後、惣四郎は先の馬淵嘉門と布施貞時に加え、さらに今回は
嘉門は、又十郎に静かに語る。
「又十郎、詳細については惣四郎より聞いている。理由はともあれ、
彼はそう言いながら、又十郎に反論の機会を促す。
又十郎は黙って嘉門の言葉を聞くと、一歩彼らに歩み寄り、ひときわ大きな声で言い放った。
「こたびの
これには馬淵嘉門ではなく布施貞時が答える。
「ならん! 武士の骸を犯すとは
又十郎は布施貞時を
「我らは、ただ落ち穂を拾っただけにございまする!」
「落ち穂を?・・・」
嘉門は又十郎に聞き返す。。
又十郎はひとつ頷くと、さらに続けた。
「さよう、我らは春に田の
又十郎は、その手に真っ黒な
「馬淵様、これは焼けた稲穂でございます。農民はこれを食べるのです」
嘉門は、又十郎が差し出した籾がらに手を伸ばす。
又十郎は続けた。
「武士は戦のために稲穂を焼きまする。半年かけて、やっと実った稲穂を焼きまする。我らは火の中で、必死にその稲穂を刈り、そして落ち穂を拾いまする。武士は田畑の落ち穂を拾うでしょうか?・・・」
嘉門は、焼けた籾がらをその手の中ですりつぶした。
「だからといって、落ち武者狩りをすることは・・・」
又十郎は嘉門の言葉を遮る。
「我らは狩ってはおりませぬ。ただ横たわる死人から
嘉門は、又十郎の言葉にしばし
又十郎は目を閉じながら、さらに嘉門に尋ねる。
「馬淵様は何のために戦いまするか?」
嘉門は首を横に向けると、こう答えた。
「我ら武士は己の
又十郎は真っ直ぐに彼を見つめると、目に力を込めて
「我ら農民は死ねませぬ。我らはいつ何時も、生きるために戦っているのです。それがたとえ違法であったとしても、我らは生きねばならぬのです」
嘉門は、それ以上言葉を交わすことはしなかった。
そこに、三雲隆信が言葉を挟む。
「かといって、我らもこれを見過ごすわけには参らんのじゃ。殿は、落ち武者狩りをせし者共をことごとく処分せよとの
後ろでは、布施貞時が何やら大きな声で叫んでいる。
「隆信殿、良いではないか、村人ひとり残らず首を切ってしまえば・・・」
これには馬淵嘉門が
「又十郎、そちは先程、こたびの所行はお主ひとりの
「いかにも、拙者一人がなした事・・・」
又十郎は嘉門の
嘉門は又十郎に縄を打つと、居並ぶ農民達に大きな声で語りかける。
「聞いての通り、こたびの所行は、すべてこの又十郎ひとりによるものである。よって、村の者には一切のお
嘉門は村人達が騒ぎ立てる前に、それを制した。そうしなければ、又十郎の死が無駄になることを一番知っていたからである。
さらに彼は、三雲隆信と布施貞時にくさびを打った。彼は手にした十文字の槍の石突きで地面をトンとひとつ叩くと二人を見回す。
「三雲殿、布施殿、殿には拙者から申し開きを致しまするゆえ、この場はこれにて・・・」
「馬淵殿がそう申されるならば、拙者
もともと三雲隆信は
布施貞時は何も言わずに馬の
嘉門は又十郎のために馬を用意させた。彼を馬に
二人の馬に寄り添うように、大勢の村人たちが歩き始めた。
村人らにも又十郎の気持ちが痛い程良く分かるからだ。その気持ちが分かるが故に、皆一言も語らずに、ただ黙って歩くのである。
村はずれまで来ると、又十郎は嘉門に一礼し、空を
「今年は稲穂がよう実った。彦二郎、来週には稲を刈り取るのじゃ。また、近々浅井が攻めてくるかもしれんからのう。惣四郎も、また見張りをたのんだぞ」
彦二郎も惣四郎も声を出さずに泣いている。
又十郎は続ける。
「伝兵衛さん、弥右衛門さん、再び拙者が戻ってきたならば、その時は裏山を切り開き新しい畑を作りましょうぞ」
伝兵衛はその場にひれ伏すと、又十郎の馬が見えなくなるまで頭を地面に付けた。
弥右衛門はその傍らで泣き崩れた。
「又十郎殿、最後にお名前をお明かし下され」
又十郎は真っ直ぐに彼を見定めると、馬上で背筋をひとつ伸ばす。
「拙者、今は無き
「その柳井殿が、また何故農民達と共に?・・・」
嘉門は馬首を柳井又十郎のそれに合わせるように手綱を引く。
「美濃長良川での合戦の後、拙者は東近江に落ち申した。そこで浅井の馬回りとして、この南近江に攻め入りましたが、その戦にて
「あの農民達に助けられた、と・・・」
嘉門はひとつ大きくため息をついた。
又十郎は言葉を続ける。
「拙者は侍を捨て申した。何も作らず、何も生まない侍より、貧しくとも田畑を耕し米を作る百姓の方が、どれだけ素晴らしいか。そして、どれだけ美しいか・・・」
嘉門はいつまでも、この又十郎と話をしていたいと思った。しかし、それは三雲隆信によって
「馬淵殿、この先は
しかし、これとて隆信にしてみれば、精一杯のはからいでもあったのだ。
「ところで隆信殿、布施殿は如何されたのか?」
嘉門は、村を出たときから姿を見せぬ布施貞時の所在が気にかかっていた。
「はて、そういえば拙者も見ておりませぬな」
三雲隆信も知らぬと言う。
嘉門は又十郎を馬から下ろすと、宇曽川の流れが見えるところへと彼を導く。
「本来ならば、武士としての礼儀を尽くすところなれど・・・」
「馬淵殿、
又十郎は、深々と頭を垂れた。
「せめて、この馬淵嘉門、貴殿の
彼は、すでに目の前に座する又十郎に対し最後まで礼を尽くした。
「それでは、御免!」
それは秋の青空に、真っ赤な蜻蛉がいくつも張り付いているようにも見えた・・・
それから嘉門は柳井又十郎の身体を戸板に乗せると、布で
彼は兵に荷車を曳かせると、今来た道を戻って行く。
嘉門らが平田川に差し掛かったとき、にわかに前方の空が黒ずんでいくのが分かった。それは時間と共に、更に勢いを増していく。
彼は
「まさか、布施殿が・・・」
彼は十文字槍を小脇に抱えると、馬を走りに走らせた。
やがて、その目にも黄金色に輝く平田の稲田が、一面炎をあげて燃えている光景が飛び込んで来た。
稲田へと続く道の向こうからは、三つ
嘉門は馬首を貞時の前へと滑らせると、鬼の
「布施殿、よもや貴殿、村人らを・・・」
言うが早いか、布施貞時は
「馬淵殿、ひかえよ、殿の
それでも嘉門は、今にもその十文字の槍で、貞時をひと刺ししそうなほどの勢いである。
「布施殿、我ら、村人らと約束を交わしてではないか」
「拙者は交わしてなどおらぬ」
貞時は平然とした顔で、なおも続ける。
「馬淵殿、殿は
「ならば、何故今までそれを黙っていたのか?・・・」
彼の槍は怒りでぶるぶると震えている。
「拙者が話せば、貴殿は従ったと申されるか?」
そう言うと、貞時は馬の踵を返して、嘉門の前を通り過ぎて行く。供回りの者もそれに続いた。
嘉門は燃え上がる稲田を左に見ながら、さらに村への道を
村へと続く
「おいっ、しっかりせい!」
抱き起こし、胸ぐらを引き寄せる嘉門。
しかし、もう惣四郎の息は絶えていた。きっと、彼は又十郎に言われたとおり、ここまで見張りに来ていたのであろう。
村の中に入ると、嘉門は自分の目を疑った。
伝兵衛は裸のまま無造作に柿の木に
子供らも例外ではない。孫助も六郎太も、又十郎からもらった
村には動くものも、小さな命もひとつとして残ってはいない。
嘉門はその場で、奇声とも
「又十郎殿、すまぬ・・・」
嘉門はひとり呟くと、いつしかそこから姿を消していた・・・
それからほどなくして、東近江一帯は浅井に代わり、
それだけでは無い。一部南近江を
最後まで、一千の兵と共に武士を貫き通した
その後、彦根近くの佐和山城には織田家の重臣、
ところが、城を捨て、国を失ったはずの六角勢ではあったが、その一部はなおも落ち武者として信長軍に対してゲリラ戦を展開しているという。
ここ佐和山城下も例外ではなく、百五十名ほどの武者が
彼らは山に引き上げるとき、必ずそこに火を放つ。それは彼らの
その男は、水牛の角立てのある兜を着けていた。そう、あの布施貞時である。
貞時は先の戦で、
織田の兵は、彼らを「火つけ武者」と呼び恐れた。
一方、丹羽長秀も黙って指をくわえて見ていたわけではない。落ち武者狩りの
今回も兵二千を動員し、
丹羽長秀軍は軍勢を二手に分け、鍋尻山の東と西から山を包み込むように駆け登る。
行き場を失った布施貞時率いる六角家の残党は、為すすべもなく討ち取られた。
後には、いくつもの武者の
彼らは一様に百姓の
そう、彼らもまた、落ち武者狩りをする
そのほとんどが、もとは百姓や
彼らは数人で集団を作り、落ち武者の
しかし彼らもまた、命がけである。
落ち武者を見つけても、逆に返り討ちにされることもあれば、せっかく討ち取った首を持参しても、同じ落ち武者の輩として
そんな彼らだからこそ、集団をまとめる者の
そんな彼らを束ねる男は、「
男は転がる骸の中に、水牛の角の兜を着けた武者の姿を見つけた。男は手にした十文字の槍で、その武者の兜の
「貞時殿・・・」
男はそう呟くと、今はもう動かなくなったその瞳を静かに手で閉じた。
時は流れ、
この時には、「多賀の狐」こと、その男が率いる
織田勢の山狩りが厳しくなってきたと言うこともあったが、もうこの頃には佐和山付近の落ち武者はほとんど
男は野武士共を束ね、
そんな折り、京より
『織田
男は、十文字槍をひとつしごくと、静かに口を開いた。
「さあ、落ち穂を拾いに参るぞ!」
野武士達は太神山を下りると
数日後、京に潜伏させている仲間より、信長を討ち取った明智光秀が、今度は
その後、光秀軍は京の
男は
一方、秀吉軍に破れた明智勢も今ではちりぢりとなり、勝龍寺城を出たときは、光秀に
光秀の家臣、
「殿、
馬上の光秀は真っ直ぐ前を向いたまま、静かに言葉を
「もうよい。すべては夢であったのかもしれぬな・・・」と、その時、竹藪の中から
光秀は右
見ると、
竹藪のそこここでも、刃が組み合う音と怒号が聞こえる。
しばらくすると、いくつか生を
ましてやその土民の中に、長柄の十文字槍を持った男がいたことなど、何処にも記されてはいない・・・
戦国史短編集 鯊太郎 @hazetarou1961
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