第8話 太田牛一という男

 わしがその男に初めて会ったのは、永禄えいろく八年の美濃みの攻めの最中じゃった。男は弓衆のひとりで、その腕はかなりのものであると言われておった。


 男の名は太田牛一おおたぎゅういちという。

 なるほど名は体を表す言うが、その名の通り牛のように大柄な男である。

 牛一は戦の最中、しばしば弓を筆に持ち替えては、戦況や敵の陣構え、武将の様子などを克明に記録していた。戦場にてこのようなことをする者など他にはいない。

 儂はこの一風変わった男の大きな手に握られた筆が、まるで土筆つくしのように小さく見えたことを今でも鮮明に覚えておる。

 牛一はまた、非常に寡黙かもくな男でもあった。儂がどのように話しかけても、決まって返事は一言しか返ってこない。

 しかし、時折見せる屈託くったくのない笑顔が誰よりも似合う男でもある。


 その後、儂も牛一もそれぞれ戦場で幾度となく顔を会わせることとなったが、儂は侍大将さむらいだいしょうとして、そして、彼は上様の右筆ゆうひつとしてお仕えすることとなったのじゃ。

 

 そもそもこの頃の右筆という役目は、単に殿様の代筆者というものとはだいぶ違う。

 戦時に必要な行政ぎょうせい文書を殿様に代わって発給はっきゅうするのはもちろんのこと、奉行・代官職ぶぎょう だいかんしょくなどを兼務けんむして、その政策決定の過程から関与する場合もあったという。

 だから、この太田牛一も常に上様、そう織田上総介信長様のかたわらで文官ぶんかんとして使えていたということになる。

 時にそれは城中にあり、時には上様と共に幾多の戦場を駆けめぐったりもした。

 牛一には幾つもの逸話いつわがある。そのいずれもが、彼の人柄と右筆としての信念を表したものじゃった。

 それは・・・



 天正てんしょう二年七月、織田信長は織田信雄のぶかつを総大将に、滝川一益たきがわかずます九鬼嘉隆くきよしたから三万の軍勢をもって、伊勢長島いせながしまに攻め入った。この戦で織田軍は、伊勢長島の一向一揆軍を水陸両面から完全に包囲し兵糧ひょうろう攻めにしていた。

 戦には太田牛一も、信長のめいにより、信雄の右筆として彼らに帯同たいどうしていたのである。


 いっぽう対する一向宗徒らは、地侍じざむらいや旧北畠きたばたけ家臣などと共に激しく彼らに抵抗した。

 この時も、織田軍は適地奥まで進行はしたものの、野伏のぶせせりのけいにかかり、這々ほうほうていで退却を余儀よぎなくされていたのである。


 「信雄様、上様はいつお起しになられるのですか?」

 滝川一益はまだよろいに付いた返り血を拭おうともせずに尋ねる。

 「さあ、儂にも大殿のことはわからん」

 今回の総大将を任されている織田信雄も、兜のが外れたまま気付きもしない。

 

 織田軍は伊勢長島の一向一揆軍を後一歩のところまで追い詰めてはいたが、一方の織田勢も、これまでにかなりの兵を失っている。当然こんな様を大殿に知られては、命がいくつあっても足りはしない。

 滝川一益は右筆の牛一を呼ぶと、戦記録いくさきろくをとるようにと命じた。


 「よいか牛一、次のようにしたためるのじゃ」

 牛一は筆を構える。

 「我が軍は長島城の二里にり手前まで進出せり。討ち取りし敵兵の数はおよそ三千、対してお味方の損害はおよそ五百・・・」

 一益はそらんじるように言葉を繋ぐ。


 ところが、太田牛一は真っ白な紙に、その一言も筆を下ろそうとはしないのである。

 「牛一、如何したのじゃ?」

 一益はいっこうに筆を走らせようとはしない牛一に目を移した。牛一は、なおも白い紙の一点を見つめながら、静かに呟く。


 「ここから長島城までは、およそ五里。それに失いしお味方の数はすでに二千を超えまする」

 一益は乗馬用のむち床几しょうぎの角をひとつ叩いた。

 「牛一、お主いつから総大将になったのじゃ。よいから言われたとおりに書けば良い!」


 牛一は筆を筒に収めると、巻紙をふところにとしまった。

 「滝川殿、この太田牛一、嘘は書けませぬ」

 「牛一、おぬし・・・・・」

 一益は牛一に一歩詰め寄る。


 「滝川殿は打ち取りし足軽の首を、大将首と偽ったことがおありでしょうか?」

 「あるわけがなかろう」

 「それと同じにございまする」


 牛一は静かに目を閉じた。

 「それにもしそれがしが、失いしお味方の数を五百と記せば、残りの一千五百の兵卒へいそつが浮かばれますまい」

 「・・・・・」

 一益は、これ以上この牛一に虚偽きょぎの報告を書かせることを諦めた。というよりも、織田信雄自身が真実を報告することを望んだのからである。


 牛一には、このように真実をかたくなに曲げないという頑固さがあった。しかし、同時に彼には、人には持ち合わせないような機転が利く頭もあった。

 それは・・・



 天正三年五月、三河みかわ設楽原したらがはらにて武田勝頼かつより率いる武田軍と織田・徳川の連合軍とが対戦した、いわゆる長篠合戦ながしのかっせんの時のことである。


 散々に武田勢を打ち破った織田・徳川の連合軍は、その夜、天神山てんじんざん城にて首実検くびじっけんを行った。

 この検証には、惟任日向守これとうひゅうがのかみこと明智光秀あけちみつひでも立ち会っている。光秀は次々と敵の首を信長の前に据えさせては、その首の主とこれを打ち取りし武将の名前を事細かに報告するのである。

 信長の横では、太田牛一が、それをひとつひとつ紙に写し取っている。

 生真面目な光秀の語りは、その調子が単調なのか、信長でなくとも飽きてしまう。この時も、やはりそうであった。


 「光秀、今宵こよいはもうよい。残りは明日じゃ」

 信長は、その容姿とは似つかないほどの甲高かんたかい声で言い放つ。

 「はっ」

 光秀は、傍らにある首桶を下げさせると、信長の前に進み出て深々と一礼する。


 「光秀、今宵の首実検の数はいかほどじゃ?」

 一瞬光秀はたじろいだ。

 「ははっ、おそらく二百五十は下るまいかと・・・」

 信長は光秀を見つめたまま、冷たい声で太田牛一に尋る。

 「牛一、いかほどであるか」


 「三百十五にございまする」

 牛一は間髪かんぱつ入れずに答えた。

 「光秀、首実検とはこうするものじゃ。以後気を付けよ」

 「ははっ・・・」

 光秀は信長の姿が見えなくなるまで、たたみに擦り付けた頭を上げることはなかった。


 太田牛一も静かに立ち上がり、そこを後にしようとする。

 すかさず光秀は彼に駆け寄ると、牛一の耳元で囁いた。

 「太田殿、貴殿は紙に印取いんとりながら、なおも数まで数えておったというのか?・・・」

 すると、牛一はニコリと笑う。

 「明智様のお声があまりにも早くて、拙者せっしゃも書き留めるのがやっとでござりました。とても数を数えることなど・・・」


 「しかし、貴殿は先程・・・」

 「明智様もご存じで御座いましょう、上様のご気性きしょうを・・・」

 「・・・・・」

 「あの時、明智様が述べられた数よりも、もし拙者が少ない数を答えましたら、上様はあなた様をもっとお叱りになっていたかもしれません」


 「お叱りに?・・・」

 「左様、光秀お前は数も数えていなかったのか!と。数はいくらでもよかったのです、あなた様が仰られた数よりも、たとえ十でも多ければ上様はご気分良く今日を終えられるのです」

 光秀はこの言葉を聞きながら震えた。信長に長く使え、信長のことを誰よりも知っていると思っていた彼にとって、牛一の言葉はそれほどまでに深いものに感じられたからである。


 こんなところにも、ただ堅物かたぶつなだけではない、太田牛一の機転の良さが伺え知れるところであった。

 ところで、彼は日頃からあまり感情を表に出すタイプの武将ではなかったが、ただの一度だけ、その思いを爆発させたことがある。

 それは・・・・・



 長篠ながしのの合戦の傷もまだえぬまま、織田軍は越前えちぜん国に攻め入った。

 これに対して既に内部分裂の兆しのあった一揆衆徒らは、互いに協力して迎撃することができず、下間頼照しもつまらいしょう朝倉景健あさくらかげたけらを始め、多くの越前国・加賀国の門徒もんとが織田軍によって討伐とうばつされたのである。


 信長はその功をたたえ、柴田勝家しばたかついえに越前八郡、四十九万石を与えた。

 まもなく勝家はその居城を北ノ庄きたのしょうに置いた。この際、勝家には前田利家まえだとしいえ佐々成政さっさなりまさ不破光治ふわみつはるらの与力よりきが付けられ、一揆持ちだった加賀の平定を任される北陸方面軍総司令官となったのである。


 ある時勝家は、北国方面を検察けんさつに来た太田牛一を北ノ庄城に招いた。もちろん、回りには勝家の与力らも顔を揃えている。

 夜、さんざん酒を酌み交わすと、勝家が牛一に語りかけた。


 「牛一、そちは織田家一の果報者こほうものぞ。何せ戦場で生死を分ける戦いをすることなく高禄こうろくをもろうておるのだからのう」

 「殿、それはちと太田殿が可哀想というもの。太田殿とて、以前は弓でその名を轟かせたこともあったというでは有りませぬか・・」

 すかさず前田利家が、その場を取り繕う。

 しかし、勝家はなおも続ける。

 「牛一、強いものに立ち向かってこそ真の男というものぞ」

 太田牛一は飲みかけの杯を静かに膳へと置いた。


 「柴田様、柴田様はこたびどのような敵と戦っておいででしょうか?」

 勝家はぐいっと杯の酒を飲み干すと、絞るような声で答える。

 「こたびは加賀の一向宗よ」

 「では、その前は?」

 「甲斐の武田じゃ。そちも居たであろう」

 「では、その前は?」

 「その前は・・・、その前は近江おうみ浅井あざいじゃ」


 牛一はその大きな体を、さらに前に乗り出すと小声で囁いた。

 「その中で、柴田様が心底怖いと思われたことはございましたか?」


 「怖い? 儂がこわっぱ共を相手に怖いだと。ふざけたことを申すでわない」

 勝家は得意そうに、その二の腕についた幾つもの刀傷を見せる。

 「これがその証じゃ。敵もこれを見ればしっぽを巻いて逃げ出すのじゃ」


 「・・・拙者は、いつも恐ろしい・・・」

 牛一は瞬きもせずに勝家を見つめる。


 「拙者は槍働きではなく、いつ何時も、この筆一本に命を懸けておりまする。そして、戦の相手はいつも上様にございまする・・・」

 「・・・・・」

 勝家は言葉を失った。


 「上様よりも強いお方などこの世には居りませぬ。拙者には、むしろ柴田様がうらやましく思えるほどでございまする」

 牛一のその小さな目には、今にも涙が溢れんばかりである。


 それから一月ほどして、太田牛一は加賀を後にした。

 勝家は牛一のために脇差しをひと振りと馬一頭、毛皮を十枚贈ったという。



 この他にも牛一には、織田家のそれぞれの武将にまつわる逸話がいくつもあるといわれておる。

 もちろん、そんな牛一の人と仕事ぶりを上様もたいそう好んでいたそうじゃ。

 しかし、そんな牛一ではあったが、ただ一度だけ上様の逆鱗げきりんに触れた出来事があった。


 それは天正四年、儂が越後えちご国の上杉謙信うえすぎけんしん対峙たいじしている北陸方面を任されておった柴田勝家殿の陣より無断で帰還してしまった時のことじゃ。

 儂は上様にしこたま怒られた後、長浜ながはま城での謹慎きんしんを命じられることになった。今でも不思議じゃが、よくぞこの時上様からお許しがでたものと思うておる。


 後日、上様の小姓こしょうを努めている森蘭丸もりらんまる殿から聞いた話では、儂が謹慎を受けたとき、あの太田牛一が上様に身体を張って進言しんげんをしてくれたと言うのじゃ。それによって牛一は上様よりたいそうお叱りを受けたわけだが、代わりに儂はまた戦場へと戻ることが出来たのじゃ・・・


 その日、上様はいつものように牛一を呼ぶと、北国ほっこくの柴田勝家殿、関東の滝川一益殿らに当てた書状の代筆をさせていた。

 牛一はそれらの書状を書き終えると、上様より拝領はいりょうした筆とその筆入れを自分の前に並べ静かに頭を下げた。


 「上様、この太田牛一、今までただの一度も上様のお考えに異を唱えたことはございません。ですが、こたび羽柴殿の件につきまして一言お申しいたしたく存じまする」

 「申してみよ」

 上様が言葉静かに答える。

 「今浜にて謹慎中の羽柴殿をお許し下さいませ。上様にとりまして筑前ちくぜん殿と日向守ひゅうがのかみ殿は、まさに車の両輪。どちらひとつを欠いても織田という車は回りません」

 この言葉を聞いた蘭丸殿は、一瞬言葉を失った。


 上様は何時にない無い低い声で、彼に尋ねる。

 「牛一、そちはいつからこの信長の軍師となったのじゃ?」

 「この太田牛一、お役目を返上し今一度申し上げまする。なにとぞ、羽柴殿をお許し下さいませ・・・」


 タンっ!

 上様は、蘭丸殿より太刀を引き抜くや、一気に切っ先を牛一の左肩へと押し当てた。

 「牛一、この信長が目を節穴ふしあなだと思うてか!」

 言うが早いか、上様は牛一を足蹴あしげにすると、その刀を横へと放り投げた。仰向けにひっくり返った牛一は、その場にてすぐに平伏した。


 信長は筆入れを彼の前へと放ると、なおもたたみかける。

 「太田牛一、猿のことはあい分かった。だがしかし、役目を返上し右筆を抜けることまかりならん」

 いつの間にか、牛一に並ぶよう森蘭丸も平伏していた。



 その後、上様は惟任日向守明智光秀殿によって、本能寺にて討ち果たされてしまい、代わりに儂が、今や織田家の後を任されようとしておる。

 ほんに、一寸先がわからんのも戦国のならいなのかもしれんのう。


 「じゃからのう、今儂がこうしておられるのも、半分は牛一のお陰なのかもしれんのじゃ」

 儂は目の前に居並ぶ武将に、彼の話を聞かせた。


 「佐吉さきち、太田牛一をこれへ」

 佐吉こと石田三成は、機敏にその身体を動かすと、次の間より巨漢の男を連れてきた。

 彼はその大きな身体をすまなそうに丸めて座ると、額を畳みに擦り付ける。


 「太田牛一、これよりこの儂に、羽柴秀吉に力を貸してくれんかのう?」

 牛一は上目遣いに秀吉を見上げると、ボソッと呟いた。


 「仰せの通りに・・・」


 相も変わらず、牛一の返事はいつも一言である・・・

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