第8話 太田牛一という男
男の名は
なるほど名は体を表す言うが、その名の通り牛のように大柄な男である。
牛一は戦の最中、しばしば弓を筆に持ち替えては、戦況や敵の陣構え、武将の様子などを克明に記録していた。戦場にてこのようなことをする者など他にはいない。
儂はこの一風変わった男の大きな手に握られた筆が、まるで
牛一はまた、非常に
しかし、時折見せる
その後、儂も牛一もそれぞれ戦場で幾度となく顔を会わせることとなったが、儂は
そもそもこの頃の右筆という役目は、単に殿様の代筆者というものとはだいぶ違う。
戦時に必要な
だから、この太田牛一も常に上様、そう織田上総介信長様の
時にそれは城中にあり、時には上様と共に幾多の戦場を駆けめぐったりもした。
牛一には幾つもの
それは・・・
戦には太田牛一も、信長の
いっぽう対する一向宗徒らは、
この時も、織田軍は適地奥まで進行はしたものの、
「信雄様、上様はいつお起しになられるのですか?」
滝川一益はまだ
「さあ、儂にも大殿のことはわからん」
今回の総大将を任されている織田信雄も、兜の
織田軍は伊勢長島の一向一揆軍を後一歩のところまで追い詰めてはいたが、一方の織田勢も、これまでにかなりの兵を失っている。当然こんな様を大殿に知られては、命がいくつあっても足りはしない。
滝川一益は右筆の牛一を呼ぶと、
「よいか牛一、次のようにしたためるのじゃ」
牛一は筆を構える。
「我が軍は長島城の
一益は
ところが、太田牛一は真っ白な紙に、その一言も筆を下ろそうとはしないのである。
「牛一、如何したのじゃ?」
一益はいっこうに筆を走らせようとはしない牛一に目を移した。牛一は、なおも白い紙の一点を見つめながら、静かに呟く。
「ここから長島城までは、およそ五里。それに失いしお味方の数はすでに二千を超えまする」
一益は乗馬用の
「牛一、お主いつから総大将になったのじゃ。よいから言われたとおりに書けば良い!」
牛一は筆を筒に収めると、巻紙を
「滝川殿、この太田牛一、嘘は書けませぬ」
「牛一、おぬし・・・・・」
一益は牛一に一歩詰め寄る。
「滝川殿は打ち取りし足軽の首を、大将首と偽ったことがおありでしょうか?」
「あるわけがなかろう」
「それと同じにございまする」
牛一は静かに目を閉じた。
「それにもし
「・・・・・」
一益は、これ以上この牛一に
牛一には、このように真実を
それは・・・
天正三年五月、
散々に武田勢を打ち破った織田・徳川の連合軍は、その夜、
この検証には、
信長の横では、太田牛一が、それをひとつひとつ紙に写し取っている。
生真面目な光秀の語りは、その調子が単調なのか、信長でなくとも飽きてしまう。この時も、やはりそうであった。
「光秀、
信長は、その容姿とは似つかないほどの
「はっ」
光秀は、傍らにある首桶を下げさせると、信長の前に進み出て深々と一礼する。
「光秀、今宵の首実検の数はいかほどじゃ?」
一瞬光秀はたじろいだ。
「ははっ、おそらく二百五十は下るまいかと・・・」
信長は光秀を見つめたまま、冷たい声で太田牛一に尋る。
「牛一、いかほどであるか」
「三百十五にございまする」
牛一は
「光秀、首実検とはこうするものじゃ。以後気を付けよ」
「ははっ・・・」
光秀は信長の姿が見えなくなるまで、たたみに擦り付けた頭を上げることはなかった。
太田牛一も静かに立ち上がり、そこを後にしようとする。
すかさず光秀は彼に駆け寄ると、牛一の耳元で囁いた。
「太田殿、貴殿は紙に
すると、牛一はニコリと笑う。
「明智様のお声があまりにも早くて、
「しかし、貴殿は先程・・・」
「明智様もご存じで御座いましょう、上様のご
「・・・・・」
「あの時、明智様が述べられた数よりも、もし拙者が少ない数を答えましたら、上様はあなた様をもっとお叱りになっていたかもしれません」
「お叱りに?・・・」
「左様、光秀お前は数も数えていなかったのか!と。数はいくらでもよかったのです、あなた様が仰られた数よりも、たとえ十でも多ければ上様はご気分良く今日を終えられるのです」
光秀はこの言葉を聞きながら震えた。信長に長く使え、信長のことを誰よりも知っていると思っていた彼にとって、牛一の言葉はそれほどまでに深いものに感じられたからである。
こんなところにも、ただ
ところで、彼は日頃からあまり感情を表に出すタイプの武将ではなかったが、ただの一度だけ、その思いを爆発させたことがある。
それは・・・・・
これに対して既に内部分裂の兆しのあった一揆衆徒らは、互いに協力して迎撃することができず、
信長はその功を
まもなく勝家はその居城を
ある時勝家は、北国方面を
夜、さんざん酒を酌み交わすと、勝家が牛一に語りかけた。
「牛一、そちは織田家一の
「殿、それはちと太田殿が可哀想というもの。太田殿とて、以前は弓でその名を轟かせたこともあったというでは有りませぬか・・」
すかさず前田利家が、その場を取り繕う。
しかし、勝家はなおも続ける。
「牛一、強いものに立ち向かってこそ真の男というものぞ」
太田牛一は飲みかけの杯を静かに膳へと置いた。
「柴田様、柴田様はこたびどのような敵と戦っておいででしょうか?」
勝家はぐいっと杯の酒を飲み干すと、絞るような声で答える。
「こたびは加賀の一向宗よ」
「では、その前は?」
「甲斐の武田じゃ。そちも居たであろう」
「では、その前は?」
「その前は・・・、その前は
牛一はその大きな体を、さらに前に乗り出すと小声で囁いた。
「その中で、柴田様が心底怖いと思われたことはございましたか?」
「怖い? 儂がこわっぱ共を相手に怖いだと。ふざけたことを申すでわない」
勝家は得意そうに、その二の腕についた幾つもの刀傷を見せる。
「これがその証じゃ。敵もこれを見ればしっぽを巻いて逃げ出すのじゃ」
「・・・拙者は、いつも恐ろしい・・・」
牛一は瞬きもせずに勝家を見つめる。
「拙者は槍働きではなく、いつ何時も、この筆一本に命を懸けておりまする。そして、戦の相手はいつも上様にございまする・・・」
「・・・・・」
勝家は言葉を失った。
「上様よりも強いお方などこの世には居りませぬ。拙者には、むしろ柴田様が
牛一のその小さな目には、今にも涙が溢れんばかりである。
それから一月ほどして、太田牛一は加賀を後にした。
勝家は牛一のために脇差しをひと振りと馬一頭、毛皮を十枚贈ったという。
この他にも牛一には、織田家のそれぞれの武将にまつわる逸話がいくつもあるといわれておる。
もちろん、そんな牛一の人と仕事ぶりを上様もたいそう好んでいたそうじゃ。
しかし、そんな牛一ではあったが、ただ一度だけ上様の
それは天正四年、儂が
儂は上様にしこたま怒られた後、
後日、上様の
その日、上様はいつものように牛一を呼ぶと、
牛一はそれらの書状を書き終えると、上様より
「上様、この太田牛一、今までただの一度も上様のお考えに異を唱えたことはございません。ですが、こたび羽柴殿の件につきまして一言お申しいたしたく存じまする」
「申してみよ」
上様が言葉静かに答える。
「今浜にて謹慎中の羽柴殿をお許し下さいませ。上様にとりまして
この言葉を聞いた蘭丸殿は、一瞬言葉を失った。
上様は何時にない無い低い声で、彼に尋ねる。
「牛一、そちはいつからこの信長の軍師となったのじゃ?」
「この太田牛一、お役目を返上し今一度申し上げまする。なにとぞ、羽柴殿をお許し下さいませ・・・」
タンっ!
上様は、蘭丸殿より太刀を引き抜くや、一気に切っ先を牛一の左肩へと押し当てた。
「牛一、この信長が目を
言うが早いか、上様は牛一を
信長は筆入れを彼の前へと放ると、なおもたたみかける。
「太田牛一、猿のことはあい分かった。だがしかし、役目を返上し右筆を抜けることまかりならん」
いつの間にか、牛一に並ぶよう森蘭丸も平伏していた。
その後、上様は惟任日向守明智光秀殿によって、本能寺にて討ち果たされてしまい、代わりに儂が、今や織田家の後を任されようとしておる。
ほんに、一寸先がわからんのも戦国のならいなのかもしれんのう。
「じゃからのう、今儂がこうして
儂は目の前に居並ぶ武将に、彼の話を聞かせた。
「
佐吉こと石田三成は、機敏にその身体を動かすと、次の間より巨漢の男を連れてきた。
彼はその大きな身体をすまなそうに丸めて座ると、額を畳みに擦り付ける。
「太田牛一、これよりこの儂に、羽柴秀吉に力を貸してくれんかのう?」
牛一は上目遣いに秀吉を見上げると、ボソッと呟いた。
「仰せの通りに・・・」
相も変わらず、牛一の返事はいつも一言である・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます