第12話 しかみの身代わり
「殿、お喜び下さりませ。武田方は
伝令の言葉を、
「・・・・・」
口を真一文字にと結んだまま、家康は真正面の一点を見つめる。
再び伝令が、廊下を渡る足音が・・・
「申し上げます。武田方、
「堀江城を!・・・」
堀江城は浜松城の西、ちょうど浜名湖に突き出た格好となる
徳川方にとってこの城を失うことは、すなわち東
「殿、今は兵を温存するべきかと存じまする。此度の武田方が西進は、まさに我が方にとっては吉となりましょうや」
「・・・・・」
未だ家康は瞬きひとつもせずに、ずっと正面に掲げられた『
『戦国の世は、誰もが己の欲望のためだけに戦いをしているから、国土が
「
彼は物静かに、家臣の一人石川数正に言い放つ。
「殿!・・・」
言うや、既に本多忠勝は槍を小脇に抱え立ちつくしている。
いきり立つ三河勢を
「徳川殿、何事も
織田信長より援軍として昨日のうちに浜松城へと入った
「では、佐久間殿は
言い返す
「武田方三万余に対して、こちらは我が織田兵五千を合わせしも、わずか一万三千足らずじゃ。討って出るは無謀であろう」
汎秀も佐久間信盛や
「徳川殿、すでに西三河の岡崎城、吉田城、
林通勝の進言にも、家康は未だ
「三河を二分されるは、徳川の息の根を止められたも同然。ましてや、今ここで城を出ずに見過ごしたとあっては、御味方から武田方へと寝返る者も居りましょう・・・」
「座して死を待つより、ということですかな?・・・」
平手汎秀の言葉に、家康はニタリと笑みを浮かべた。
よって、武田方がここ三河浜松城を目の前にして、急転西へと素通りしてから
時は
家康に従いし三河侍は本多忠勝をはじめ、榊原康政、
一行は大菩薩坂の手前に位置する
おそらく武田方は、この台地からは少し先にある祝田の坂へと差し掛かった頃であろう。これよりすぐに後を追えば、まさに坂の上から一気に武田軍に襲い掛かることができるはずである。
自然と掴む
「殿、この先が三方ヶ原に御座いまする」
石川数正の言葉に、一段と馬足を早める。当然、皆もそれにと続いて行く。
台地一面に生える
その風に混じるように、微かな
「殿!・・・」
榊原康政が声を大きく張り上げるまでもない。
徳川勢の目の前には、すでに陣形を組み終えこちらを
「罠じゃ!・・・」
しかし酒井忠次の言葉よりも早く、家康は既に軍配を横に広げるや、自軍の陣形を
「殿、我が方が数的には不利。ここは
本多忠勝が馬首を家康の方へと向ける。
家康は真正面に展開する武田方の陣形を更に目で追っている。
「殿、武田方は
前方へと駆けていた小笠原長忠が、息を切らして戻って来た。
「それに対して、こちらが敵中突破の陣組をするは、みすみす敵方にこちらの兵数が少ないことを教えるようなものであろうが・・・」
家康は、忠勝の方をジロリと
「忠元! 平手殿に織田方の
「数正、康政! その方らは左翼を固めよ。長忠は右翼にて平手殿と滝川殿に
家康は本陣の近くには本多忠勝と酒井忠次とを備えると、自らもヤクの毛で作られた兜と赤備えの甲冑姿とを武田勢の前に
しかしこの間、何故か武田方は先に仕掛けてくることはなかった。追いかけるつもりが、逆に待ち伏せをされる格好となってしまった徳川方からしてみれば、むしろそれは不思議と言うより不気味なものとして映っていた。
「何故、仕掛けてこんのか?・・・」
忠勝がそう思った矢先、全面の茅の根本に隠れていた武田方の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。
同時に、何人もの兵が崩れるようにとその場に倒れる。
今度は武田の騎馬隊が徳川勢の右翼にと仕掛けて来る。右翼は小笠原長忠と平手汎秀率いる織田勢である。
信玄はあえて、織田の旗指物が多く
いつの間にか、武田方はその陣形を魚鱗から
「殿、右翼が崩れまする」
康政が言わなくとも、家康にはそれが手に取るように分かる。
家康方の陣形が崩れていく中、今度は
「殿、加勢に行きもうす!」
一言残して、忠勝が疾風のごとく馬を走らせた。
「パンッ、パラ、パラ、パラッ・・・」
別の鉄砲隊の音が先程より間近で聞こえる。家康の数十メートル先の兵の
つまりは、武田方の別働隊が、すぐ近くまで迫っている証拠である。
「殿、ここはいったん浜松城までお引きなされて・・・」
供回りの
「兵を引くだと?・・・」
家康は成瀬の肩に軍配を軽く押し当てると、
「申し上げます。御味方の
「何っ! 中根が・・・」
「殿!・・・」
そこに武田方の
「殿、
再び成瀬正義が家康に進言する。
「兵を死なせて、大将だけが生き延びたとして何とするか! ここは三河武士の死に様を、とくと武田信玄に見せてくれようぞ」
家康の言葉に、正義はその顔前へと鬼の
「ならば、そのしかみ顔は如何なこと?・・・」
ヤクの毛をあしらった兜から覗く家康の顔は、目の周りに無数の
「殿には死んでいった者の為、そしてこれから死んでいく者、しいては、これより殿と共に生きていく者の為にいつも
言うや、弟の
「正一、如何なことがあろうとも殿を城までお連れするのじゃ」
「兄じゃ・・・」
背を向ける正義に、弟の正一は軽く頭を下げると、
「正義、何とするのじゃ?・・・」
家康の言葉に、正義はほんの一瞬だけ振り返ると、ニコリと満面の笑みを返す。
それから成瀬正義は黒槍を小脇に抱えるや、馬場信春隊に向かって有りっ丈の声を張り上げた。
「武田のこわっぱどもが、我こそは徳川
「正義ーっ!」
しかしこの言葉は、成瀬正義には届かなかった。彼は馬に
家康の本陣直前まで押し寄せていた馬場隊は、これに引き寄せられるようにと、彼の後を追っていく。
それでも、彼が家康の
戦局はまさに一方的な武田方の大勝利と言っても良かった。
散々左翼で武田方を
「殿、この忠勝に何とぞ
そう言う彼の目には、自然と涙が込み上げてくる。
「忠勝・・・」
当然、負け戦の
「殿、殿には是が非でも生きて頂かなければなりませぬ。でなければ、兄じゃの死が無駄に・・・」
「忠勝・・・」
しかしその言葉を聞く前に、本多忠勝はすでに数十人の手勢を率いると、武田の旗印で埋め尽くされた戦場へと馬を走らせていた。
そしてここにももう一人、家康が危機に陥ったことを
彼は浜松城の
当然、ここからはその様子を具に見ることはできないものの、家康軍の旗色が劣勢なのが肌で感じられる。
微かに見える徳川方の旗印が、
「殿っ・・・」
言うや、櫓を一気に駆け下りると、十数旗の供回りの者を従えて一目散にと城を出た。
当然
城を出た夏目吉信は、欠下城を過ぎたところでは家康と出くわした。供回りの十数騎は何のためらいもなく、そのまま徳川軍の後ろから押し寄せる
「吉信、すまぬ・・・」
悲痛な表情を浮かべる家康に、夏目吉信はさらりと言う。
「殿が生きておられれば、この戦、勝ったも同然!」
吉信は馬を家康に近づけると、その目をジッと見つめる。そして、「殿っ!」と心の中で叫んだ。
吉信は家康の
馬は勢いよく走り出し、家康共々その場より遠ざかっていく。
「さあてと、
夏目吉信はニタリとその顔に笑みを浮かべると、自慢の朱槍を両手で高々と持ち上げ大声で吠える。
「武田の衆、この徳川家康と槍を交える者はおらんか!」
その言葉に、槍を揃える
「いったい、徳川には何人の家康がおれば気が済むのか?・・・」
高坂昌信は勿論それが真の家康でないことなど百も承知のことである。それでも彼は、あえて先を追おうとはせずに、目の前の男に向かい合った。
そう言う意味では、信玄率いる甲斐の武者達もまた、戦国の
「うお―――――っ!」
辺りに鳴り響くような
「吉信―――――っ!」
家康もまた、前を向いたまま流れる涙を拭おうともしない。しかみの殿は、ただ生きるため必死に手綱を操った。
しかしその甲斐あってか、家康をはじめ十数名ほどの者が浜松城を見下ろせる高台まで
ここで
「殿、もう一息に御座いますれば・・・」
言って彼は、家康の前で片膝を着き両の手を差し出す。
「久三郎、
「殿、どうかその軍配を・・・」
この高台より浜松城までの間に、既に武田の軍勢が先回りしていることを承知している久三郎は、家康の身代わりを申し出たのである。
「殿、
家康の後ろから
振り返る家康。
そこには、
「お主ら・・・ だが、それだけはならんぞ!」
声を荒げる家康に、
「殿、そのようにしかみ顔をなさいますな。先に
「忠保・・・」
言うや、中川忠保はひとり、その高台より駆け下りていく。それに寄り添うよう、二旗が従って行く。
「殿、御免!」
松井忠次は小栗忠蔵らに目配せすると、家康の甲冑を脱がせ始めた。
「ならん、忠次!・・・」
はじめこそ
甲冑は忠次、右近がそれぞれ一部ずつ身につけ、外山正重だけは、自分の甲冑の上に家康の
もちろん、鈴木久三郎の手にはすでに家康の軍配が握られている。
「久三郎、忠次達も、どのようなことがあっても浜松城まで戻って参れ。城の門は必ずや開けておく」
「この久三郎、殿と共に生きられたこと、本当に幸せでした・・・」
家康の顔がまた、見る見る崩れていく。
右近が笑いながら
「ほんに、
「儂らは殿と共に戦えて嬉しゅうてならんのに・・・」
正重も笑いながら
「では殿、儂らはひと足先に浜松城でお待ちしておりますぞ!」
言うや、四人は家康に深々と頭を垂れる。しかし、もうその顔には誰も笑みなど無い。四人はそれぞれ別々の方角にと静かに消えていく。
少しの静寂の後、高台の上と下とで大きな名乗り声があがる。恐らくはあの四人のものであろう。
その声の元へと武田の旗が押し寄せていくのが見える。どこからか、散発的に鉄砲の音が鳴り響き、つづいて
「殿、今で御座いまする」
成瀬正一の言葉に、我に返る家康。数騎の馬を従えて、浜松城まで最後の森を抜けていく。
「殿のお戻りじゃーっ、開門、開門ーっ!・・・」
門の手前で
その姿に、徳川方の門兵も急いで門を開ける。
城からはこれを合図に、一斉に敵方へと鉄砲と弓矢で応戦した。
家康が門の抜けると、小栗忠蔵がすかさず門兵に声を掛ける。
「早く門を閉めよ!・・・」
当然であろう。既に武田の軍勢は浜松城の目と鼻の先にまで進出しているのである。その先陣は、今にも城の中へと雪崩れ込んでこようという勢いであるのだ。
門兵がその重い扉を閉めようとする。
「閉めるでないっ!・・・」
家康の声である。
彼は馬から転げ落ちるようにと玉砂利の上に片膝を着くと、見上げる門兵にもう一度一喝する。
「久三郎らがまだじゃ、門を閉めるではない・・・」
門兵は迫り来る武田勢を振り返りながらも、その下知に従った。
よって、浜松城は一転して開門したままの城となったわけである。籠城策をとる城として、このようなことがあり得るはずが無い。
ところが、城にすんでの所に迫った武田方の行軍は、何故か不思議とここで止まった。
つまりは、敵方の武将の一人、馬場信春が城への突撃に待ったを掛けたのである。それは、戦術や策略に
馬場信春はこの開け放たれた浜松城を、家康による『
それに、既に戦の勝敗は見えている。ここで
よって、馬場信春は全ての軍勢をいったん浜松城を囲むようにと待機させたのである。
いっぽう城に着いた家康は、真っ直ぐに彼の部屋へと向かう。途中歩きながら、代わりに着けていた簡単な具足を取り払う。
「
家康は部屋の
間もなく絵師がその部屋へ続く廊下にに
「直ぐさま、儂の姿を写し取るのじゃ」
言いながら片足を組むと、そこに片肘を載せ掌で
絵師が筆を執ると、一言
「殿様、そのようなしかみ顔をなされては・・・」
(我が生涯、このようなしかみ顔をするのは今日が最後じゃ。儂の代わりに逝った者達の為にも、儂は二度とこのような顔をせんと約束する・・・)
「かまわん。この情けない、有りのままの徳川家康をその絵に封じ込めるのじゃ」
その顔に、絵師はゴクリと咽を鳴らす。
「のう、そうであろう。正義、吉信、久三郎、忠保、右近、正重、忠次・・・」
家康はもう一度、彼らの名を呟いた・・・
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