第10話 雪に散る華
「猿めが・・・」
折から降り続いた梅雨のせいであろうか、
その都度、勝家を先頭とした長い隊列は足を止め、
もちろん勝家とは、織田家の
「猿めが、
「殿、
「分かっておるわ」
清洲会議の経緯ついては誰もが周知の通り、織田
しかしそう決着するまでの過程が勝家の
その上、勝家は
「
秀吉は、わざと親しみを込めるようにと勝家をそう呼んだ。
「な、何を馬鹿なことを・・・」
取り敢えず相づちを打ってみたものの、勝家には返す言葉が頭に思い浮かばない。
元来彼は、この様に自分の意思をあまり言葉に出すタイプではない。増してや、それが恋愛感情ともなれば尚更である。
「権六殿は雪深い北陸ゆえ、人肌が恋しいであろう。織田家のことは三法師様を中心に、
ここまで言われて、勝家ははじめて秀吉の
つまりは、これからの織田家は自分達が中心となってやっていくので、
すなわちそれは、今この会議には居合わせない
勝家が遠く北陸の地で上杉家と
しかし、それを
つまりはそれが、『市』ということである。
しかし、勝家がそれに気付いたときには、すでに
勝家は力無く秀吉に頭を下げた。
「その申し出、有り難く受け申す・・・」
当然勝家にはお市との縁談を断る理由もなく、また一武将として織田家の
「だがしかし、畿内の・・・」
「権六殿、すべてはこれでよろしいか?・・・」
彼は織田家の行く末について言い返そうとしたが、それも今となっては後の祭りと言うことになるのであろう。
今から思えば、恐らくはこれも秀吉が巡らせた計略のひとつに違いなかった。彼は織田家家臣の
それというのも、勝家が元々
その秀吉が一歩折れて、柴田勝家の為にお市を譲ろうというのである。誰の目にも、それは秀吉の
しかしこの、秀吉が市を慕っているという事とて本当のことかどうかは当然分ろうはずもない。
何れにしても、秀吉主導のもと、織田家の
まさに秀吉ならでは、十分に計略を練った上での
勝家が清洲城を出立する日、秀吉は
「殿・・・」
家臣の
振り返りそれを見上げる勝家に、秀吉は品のない顔でニタリと笑って見せた。
勝家は馬の脇腹をひとつ踵で蹴り上げると、黙って前を向いたまま、もう一度奥歯をきつく噛み締めた・・・
「殿、
毛受勝照の言葉に、ひとつ大きく頷く。
勝家は後方に向かって
それに気付いた輿も、道を少し外れた場所へと静かに降ろされた。
下馬して足早に近づく勝家。
「お市殿、間もなく北ノ庄で御座いまする」
「
輿の中より微かな声が聞こえる。
すると、輿そばにいた女が素早くその
輿の中程には金の
「修理亮殿、既に私は
言葉ではそう言いつつも、相変わらず彼女は前を向いたままである。
何処までが市の本音であり、何処からが織田信長の妹としてのプライドがそうさせているるのかは、当然
彼は片膝を着いたまま、市の横顔に頭を下げた。
それを遮るようにと、再び輿そばの女が簾をカラリと下げようと手を伸ばす。
「お
勝家の言葉に、ゆっくりと振り向く女。その顔に別段驚きの表情はない。
「そなた、いつから市殿に付いておられるのか?・・・」
女は軽く首を傾げると、少しだけ目を細める。
「
「清洲?・・・」
「名は何と申すか?・・・」
「辰乃と申しまする」
女は深々と一礼をする。
「では辰乃とやら、くれぐれも市殿の身の回りの世話、よろしく頼んだぞ」
辰乃は答える代わりに、もう一度深く頭を垂れた。
それから一行は、越前は柴田勝家が居城北ノ庄城へと入ったのである。
市が勝家の元へと
「殿、書状には何と?・・・」
最初に口を開いたのは、家老の
勝家はその書状を静かにと彼に手渡す。
元来
長俊はそれを広げるや、周りの者にも聞こえるよう声にする。
「織田信孝殿が支配下に置かれている
「何、稲葉殿が?・・・」
すかさず毛受勝照が声を荒げる。
「そればかりでは御座らん。秀吉めは我らと国を接しておる
「上杉といえば、織田とは
浅見道西は手にした太刀の柄で、床をひとつ大きく突いた。
「殿!・・・」
家臣らの問いかけにも、勝家は
「殿、ここはひとつこちらからも・・・」
道西が言い終わらぬうちに、勝家は静かに喋り始めた。
「既にこちらも手は打っておる。間もなく四国は
これには居並ぶ家臣一同も目を輝かせる。
(しかしこちらの動き、秀吉も既に承知と言うことになるか・・・)
勝家は喜ぶ家臣達とは
それから更に半年が経ち、北陸にも最初の雪がちらつき始めて来た。
この間、勝家は秀吉側の
また秋が押し迫った11月には、秀吉の元に彼の
しかし、これも勝家の所領が北陸にあり、これから続くであろう長い冬の間、彼の部隊が雪により畿内へと行くことができなくなることを見越した見せかけだけの交渉でもあった。
そんな中、北ノ庄の城ではある騒ぎが起きていた。城内に忍びの者が入ったというのである。
別に暗殺や火付けが行われたというわけではない。ただ、明らかにその
「
山中長俊が
「何故、女中部屋などに?・・・」
城の見取り図を眺めながら、浅見道西が城中を
「やはり羽柴方の手の者か?・・・」
言いながら、毛受勝照はその見取り図に三人一組とした兵の駒を並べていく。
「殿、まずは何れより?・・・」
勝照の問い掛けは、当然それはどこから家捜しをするのかと言うことを勝家に尋ねているのである。
勝家はなおも静かに目を閉じると、一言だけ口にする。
「捨てておけ」
つまりは、放っておけと言うことである。
これには長俊が黙ってはいなかった。
「殿、何故に御座いまするか? おそらく間者は羽柴殿より使わされた忍びの者、ここで逃すわけには参りませぬ」
勝家は
「既にこの雪では、何処へ参るわけにもいくまい。それにこちらの内情は間者が伝えずとも秀吉は既に承知のこと」
「しかし・・・」
最後まで道西は異を唱えようとしたが、勝家は聞き入れなかった。
「それよりも、市殿をはじめ
勝家は夫婦になって半年が過ぎた今でも、市のことを『市殿』と呼んでおり、ただの一度も名指ししたことはない。
それが彼の優しさなのか、または市に対する
毛受勝照は勝家の命に与力の
しかし、家中の心配を裏切るかのように、この事件は意外にも早く解決する事となる。つまりは、その間者とおぼしき者が殺されていたのである。
場所は奥座敷へと通じる裏庭の
ただ不思議なことに、それを見つけた若侍の話では、雪の中にはその者の足跡しか残っていなかったというのだ。
毛受勝照が首をひねる。
「雪の中、とても逃げ切れぬと思ったのであろうか?・・・」
「しかし、忍びの者が自ら命を絶つとは何とも
浅見道西もまた、首を傾げる。
「もしや別の忍びが、未だ城中に居るということか?・・・」
山中長俊が口に出すが、そのどれにも
その夜、勝家はひとり部屋に
彼はそこの一点を食い入るようにと見つめる。
「やはり、賤ヶ岳辺りか・・・」
とその時、
「誰か?・・・」
襖の向こう側に向かって静かに言葉を掛ける。
間もなく、襖が音もなく開けられた。
そこには女中着姿の上に打ち掛けを羽織った女の姿がある。
「そこで何をしておる?・・・」
黙って
女は別に
「そなたは、市殿の付け女中。確か名は?・・・」
「辰乃でございまする」
「そうであったな。して、ここには何用か?・・・」
勝家は絵地図を横へと外しながらも、視線だけは彼女から片時も離そうとはしない。
「実は、昨日より奥方様が
「嘘を申すではない」
なおも勝家の声は、灯明の火のごとく静かである。言葉のない沈黙が、かえって次の一言の意味を重くする。
見つめ合う二人。はじめに勝家が口を開く。
「秀吉の手の者か?・・・」
「・・・・・」
女の
「何故、儂がそう思ったのかという顔つきじゃな」
「・・・・・」
振り返り、女に対しておもむろに背中を見せる勝家。桐箱の中より小さな白い塊を取り出す。
「おおっ、これよこれ」
振り向く勝家に、女は少し身構える。
「案ずるな、その気があるならばとっくに切り捨てておる。それより、これを・・・」
勝家は
「
そう言う勝家の目には、自然と暖かな液体が込み上げてくる。つまり勝家とは、紛れもなくそう言う男なのである。
「申し訳ございませぬ・・・」
急に女が頭を畳に擦り付ける。
「・・・・・」
今度は勝家が黙る番となる。
「私に名などはございませぬ。ここへは柴田様の動向を探りに来た
『草』とはつまり、忍びの術を使う敵方のスパイのような者である。
勝家は手にした金平糖を茶請けの小さな皿へと器用に移すと、それを女の前へと進める。
「先日のそれは、そなたの
当然先日のそれとは、城中に忍んだ間者が竹藪で殺されていたことを意味している。女は答える代わりに、静かに頭を上げた。
再び沈黙の中、互いが互いの心の底を推し量ろうと見つめ合う。
またしても、勝家が先に口火を切る。
「何故、儂を殺しには来なんだ?・・・ そなたほどの腕ならば、幾らでもその機会はあったはずじゃが・・・」
先程も勝家は、その女に背中を見せたことを併せて問うている。しかし、彼が言い終わらぬうち、女は少しだけ膝を近づけた。
「柴田様、お教え下され。なにゆえ私が羽柴殿の間者であると?・・・」
勝家は幾分目を細めながら、懐かしそうにと思い出す。
「市殿がこの越前へと入り、あの木ノ芽峠へと差し掛かったときのことじゃ。その何とも美しい姿に目が
それは勝家と初めて言葉を交わした時のことであり、女の記憶にも鮮明に残っている。
勝家は少しだけ首を
「汚れていなかったのじゃよ、そなたの足だけがな」
「汚れていない?・・・」
「
そう言うと、勝家はもう一度女のそれに目を向けた。
「しかし、そなただけは一人違っておった。そうそう
この時、女は確かにくすりと笑った。
「では何故、今まで私を生かしておかれたのでございまするか?・・・」
「殺す理由が無かろう。それに・・・」
「それに?・・・」
再び女は暗い顔をする。
「それに、そなたは市殿の付け女中ゆえ、もうこれ以上市殿の悲しい顔は見とうはないからのう」
(やはり、このお方は優しすぎる・・・)
その言葉に女は大きく目を見開くと、心の中の想いに唇を動かす。
「柴田様、何とぞ羽柴殿と和睦の道を・・・」
今度は勝家が寂しそうにと微笑んだ。
「やはり儂では秀吉には勝てぬか?・・・」
「・・・・・」
返事をするまでもなく、見つめる女の瞳がその答えを伝えている。
「何故、そう思うのかを申してみよ・・・」
相変わらず、勝家は優しい目で女を見つめる。
と、その時。不意に女は
しかし、少しも慌てることはなかった。勝家は座ったままその白い腕を掴むと、女の身体を反転させそのまま自分の胸の中へと抱き寄せる。
抱え込まれた女はもう抵抗することはなかった。ただ、女は刀の刃先を握ると、素早くその
「なっ!・・・」
勝家は再び女の身体を抱き寄せる。
「はじめから、死ぬ気であったか!」
既に女の掌からは赤い血がその白い腕へと伝わって流れている。
彼は自分で
「何故死なねばならん?・・・」
「・・・ませぬ・・・」
勝家の問いかけに、女は彼の
「何じゃ?・・・」
女は最後の力を振り絞って必死に
「柴田様は羽柴殿には勝てませぬ」
「何故じゃ?・・・」
女の口から、生暖かい鮮血が込み上げる。毒が全身にと回ったのであろう。
「しっかりせい! 何故、儂は秀吉に勝てぬのか?・・・」
「や、優しすぎるからでございます・・・」
「優しすぎる?・・・」
「し、柴田様は
そう言い残すと、女は勝家の胸の中で
冬の越前にと降る雪は、とても冷たくそして
勝家が見上げる
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