第14話 捨て駒忠左衛門

 ここは土佐とさの国、岡豊城おこうじょうの一角、重臣らが次々と足早に評定ひょうじょうへと歩みを進める。

 その中に忠左こと老臣片品忠左衛門かたしなちゅうざえもんの姿もあった。忠左衛門は古傷のためだろうか、左足をやや引きずるように歩くくせがある。

 若い家臣達は、皆彼を追い抜くように評定場へ入ると、ひれ伏すように着座する。

 忠左衛門も家臣団の中では一番上座にあたる席に胡座あぐらをかいた。


 間もなく、この城の城主長宗我部元親ちょうそかべもとちかが一段高くなった主座に腰を下ろした。元親は長宗我部家数えて二十一代目の当主にあたる。

 加えてこの時、元親はまさに四国統一に向け動き始めたころでもあった。

 彼は重臣福留儀重ふくとめよししげ目配めくばせすると、甲高かんだかい声で評定の要点だけを話し始めた。

 家臣らの前には、すでに儀重によって四国全図が描かれた絵図が敷かれている。

 

 「阿波あわ三好康長みよしやすながが一万五千の兵で、山田城に迫っておるそうじゃ。こたびこれを迎え撃つ!」

 そう言いながら、元親が扇で指す方向に儀重が駒を置いていく。


 「元綱もとつな、こたびの軍を率いよ。そちに二万五千の兵を預ける。政重まさしげも連れてまいれ」

 元綱とは家臣久武ひさたけ元綱のことであり、元親は知略ちりゃくに長けた彼の戦ぶりを大変好んだ。

 久武元綱は家来けらいの吉田政重と共に、うなるような声をあげ深々と頭を下げる。

 さらに儀重は、それが元親とあらかじめ示し合わせていたかのように、絵図の中に二つの駒を置いた。


 駒のひとつは山田城の東、物部ものべ川沿いの林で、川伝いに攻めてくる三好勢とは川を挟んで対峙たいじする場所にあたる。

 「安宅阿波守康俊あたぎあわのかみやすとし、その方兵五百を率いて川を渡る三好の脇腹を攻めよ!」


 「しかし殿、五百の兵ではいささか不安が・・・」

 康俊は頭を畳に擦り付けたまま答える。


 元々康俊は元親の家臣ではない。父国親くにちか死去しきょに伴い家臣に加わったという。もとは伊予いよの国西園寺さいおんじ氏か河野こうの氏に使えていたと言うことだがはっきりしたことを知る者はいない。

 そんな康俊ではあったが、元親はよく側に置いた。


 「山田城には元綱が控えておる故、心配は無用じゃ。ただし、無理はするでない。三好が動いたら後方へ退くのじゃ」

 「ははーっ」

 安宅康俊は安堵あんどの表情を浮かべると、はげた頭を更に畳に押しつけた。


 「殿、してもう一つの駒はいかに? 見るところ駒は烏ヶ森からすがもり辺りかと思われますが」

 家臣の江村勝永えむらかつながが身を乗り出すように尋ねる。

 勝永の武勇は家中でも知られている。もちろん元親もそんな彼を最も信用できる武将の一人として考えている。


 しかし、これには元親ではなく儀重が緩やかな口調で答えた。

 「左様さよう、いかにも烏ヶ森でござる。烏ヶ森は山田城とは物部川を挟んでちょうど反対側にある小高い山でございます。当然攻めてくる三好勢から真正面、丸見えの位置にあたりまする」


 「儀重殿、それでは三好の思うつぼ。物部川の対岸では見方の助勢じょせいもかないませぬ」

 武勇に長けた勝永でなくとも当然気付くことだろう。

 儀重は更に丁寧な口調で言葉を重ねた。

 「おそらく三好勢は、川の対岸の安宅殿ではなく攻めやすいこちらを先に攻めるはず。さすれば三好勢は物部川沿いに細長く展開することになりましょう」


 「なるほど!」

 さすがに勝永である。飲み込みが早いはかりではなく、おそらく彼にはこの後の勝敗までもが手に取るように分かるのであろう。

 「ですが儀重殿、それでは烏ヶ森の我が軍は?・・・」


 この時、ここまで沈黙を守っていた元親が答えた。

 「忠左ちゅうざ殿、この役引き受けてもらえんだろうか?」


 元親は、この忠左こと片品忠左衛門だけは「忠左殿」と呼ぶ。彼が父国親の代からの家臣と言うこともあり、元親は父無き後も、この老臣を重用ちょうようしている。

 「殿っ、それでは片品殿があまりにもおかわいそう。まるで、捨てっ」

 勝永はそこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 隣に座る忠左衛門が左手でさえぎったからである。忠左衛門は胡座をかいたままその華奢きゃしゃな身体を元親の方へ向けると、低い声で言葉を返した。


 「この忠左衛門、大殿の代より常に戦場では先陣せんじんたまわって参った。こたびもこの忠左衛門にお任せあれ」

 「よくぞ申した。忠左殿には兵二百を預ける」

 「殿っ、兵二百ではあまりにも・・・」

 勝永は最後までこの老臣をかばったが、評定はこれにて終了した。



 城内では、たちまちこの噂で持ちきりとなった。

 「殿は片品殿をお見捨てになさるおつもりなのか・・・」

 「兵二百では、片品殿もみすみす死にに行くようなものではないか・・・」

 「今や殿に意見できるのも忠左右衛門殿しかおらぬゆえ、大殿の代から使えし忠左衛門殿がうとましく思えてきたのでないか・・・」

 「これでは、まるで将棋の捨て駒じゃのう・・・」


 そしてここにも一人、元親の言葉を不審に思う家臣がいた。安宅康俊あたぎやすとし怪訝けげんそうな面持おももちで重臣の福留儀重に尋ねる。


 「儀重殿はどう思われまするか、殿のご本心を・・・」

 儀重はその大きな頭をそっと近づけると、小声で答えた。

 「康俊殿、絶対に他言無用たごんむようですぞ。殿は片品殿をお切りになるおつもりじゃ」

 「そ、それは、真事まことですか?」

 康俊は大きく耳を傾けた。


 儀重はひとつ大きく頷くと、

 「真事じゃ。殿は高禄こうろくをはみながら何も働きのない片品殿を、これ以上家臣に加えることを良しとは思っておられぬ。いっそ、この機に・・・」

 「しかし、それでは片品殿はただの犬死に・・・」

 「そう、捨て駒でござるよ」

 そう、力強く言い捨てる儀重の言葉に、康俊はしばらくの間返す言葉を失っていた。



 それから数日後、長宗我部軍は久武元綱を総大将に山田城へと入った。

 先の評定通りに、物部川沿いには安宅康俊率いる兵五百が、烏ヶ森の山頂付近には老臣片品忠左衛門が率いる兵二百がそれぞれ布陣ふじんしている。

 そしてその日の午後には、三好康長率いる阿波の三好勢一万五千も物部川の東岸に到着した。


 三好勢からは川を挟んで安宅勢が間近に見える。そして、はるか前方の低い山の上にも黄色い旗指物はたさしものが見えている。片品忠左衛門の陣である。

 三好勢は急ぎ戦を仕掛けるわけでもなく、しばらくは両軍ジリジリとしたにらみ合いが続いた。


 それから二日後、意に反して先に仕掛けたのは長宗我部軍の方であった。

 安宅康俊の兵五百が闇夜やみよに紛れて物部川を渡ったのだ。ときの声が二度三度あがり、鉄砲の銃声が聞こえたが、安宅勢は間もなく退却をした。

 三好軍はこれを深追いすることはせず、また両軍の間には夜の静寂が長く続いた。


 両軍が物部川を挟んで対峙たいじしてから、すでにひと月が経ったであろうか。

 二、三の小競り合いはあったものの、相変わらず三好勢はぴくりとも動こうとはしない。


 それから二日後、何の前触れもなく三好軍一万五千は静かに陣を引いた。

 久武元綱率いる長宗我部軍も追撃することはせず、幾らかの兵を残し、岡豊城へと帰還した。



 評定場では、先程から上機嫌な当主元親の姿がある。


 「元綱、こたびの采配さいはいまことに天晴あっぱれ。大儀たいぎであった」

 元親は甲高い声をよりいっそう高くして、元綱を心からねぎらう。さらに、元綱に従った政重には、なんと自分の脇差しまで与えた。

 吉田政重は六尺二寸のその大きな身体を丸めると、頭の上で合わせたこれまた大きな両の手でその脇差しを頂いた。


 元親は、三好勢と小競り合いを演じて見せた安宅康俊にも褒美ほうびを忘れなかった。康俊には砂金の入った袋包みを自ら手渡した。

 「この御恩ごおん終生しゅうせい忘れませぬ」

 康俊はまたいつものように、その小さな額を畳に擦り付けるよう頭を深く垂れる。


 ここで家臣一同の目は、元親とあの老臣片品忠左衛門の一点に絞られた。


 元親はゆっくりと忠左衛門の方を向くと、凍るような低く細い声でこう言った。

 「忠左殿、またお会いできましたのう。こたびは大儀でしたな」


 これには場内がどよめいた。

 すかさず江村勝永が具申ぐしんしようと片膝をあげたが、忠左衛門は刀の尻で床をドンっとひとつ叩くと、からから笑いながら元親に応える。

 「おほめめにあずか恐悦至極きょうえつしごく。殿、この次もこの老臣に先陣を賜りますように」

 「・・・・・」

 元親は答える代わりに、扇子をひとつパチンと鳴らした。



 季節は移り変わり、土佐の国も収穫の秋を迎えた。

 このころ、にわかに先の三好康長を大将とした三好勢が、またも山田城を目指して出陣したとの知らせが入った。

 今回は讃岐さぬき十河存保そごうまさやす参陣さんじんしているという。


 さっそく、岡豊城では評定が開かれた。

 評定の結果、今回は福留儀重を総大将に前回と同様の布陣をすることとなった。むろん、物部川沿いには安宅康俊が兵五百を、烏ヶ森にも片品忠左衛門が兵二百を率いて参陣している。

 今回も三好勢からは、その正面に片品勢のその黄色い旗指物が二百ばかり風にはためいているのが見えている。


 しかして戦の結果は、またしても両軍とも一月の睨み合いをした後、大きな戦いをすることもなく互いに兵を引いて終わることとなる。


 戦後の評定では、元親よりそれぞれの家臣達に労いの言葉が掛けられ、忠左衛門には前にも増して厳しい言葉の仕打ちが待っていた。

 このことに、江村勝永をはじめ何人かの重臣が元親に進言したが、元親は聞く耳を持とうとはしない。


 その後、何とこの物見川を挟んだ山田城の攻防は前後で四回にも及んだが、しかし、その都度雌雄しゆうを決するような大きな戦にはならなかったのである。

 若い吉田政重や戦好きの江村勝永などは何度もこちらから仕掛けることを進言しんげんしたが、元親はそれを何としても許さなかったのだ。


 そんな戦の中、更に不思議なことには、一万五千もの三好勢がただの一度たりとも彼らの真正面に位置する、このわずか兵二百ばかりの忠左衛門の陣に攻めてくることがなかったことである。

 いくら陣が間延びするとはいえ、たった二百余りの軍勢など二千もの兵で囲めば一時も持ちこたえることなど出来ないことは火を見るより明らかなこと。しかし、あえて三好軍はそうすることはしなかった。


 それはまるで、何かに導かれているようでもあり、大きな運命が歯車が正確に時を刻んでいるようでもあった。

 いずれにしても、両軍とも大きな力を温存したまま、そして、捨て駒忠左衛門の命の炎も消えずにその年の瀬を迎えようとしていた。



 時は移り変わり、三度目の春を迎えた。雪解けと共に、ここ土佐にもようやく若芽の息吹がみなぎり始める。

 そんな中、先程から岡豊城の元親の自室じしつでは、二人の男が何やら真剣な面持ちで将棋を指している。

 当然一人はこの城の当主長宗我部元親であり、対面に座るもう一人はあの老臣片品忠左衛門であった。

 元親からうとまれているはずの忠左衛門が、今は二人だけでひざを交えるほどの距離にいる。


 元親は時折扇子をパチンと鳴らしては、この老臣の指す一手一手を眉間みけんにしわをよせながら眺めている。

 一方、片品忠左衛門は肘掛ひじかけを自分の前に置くと、その上に両腕を組むように寄りかかった姿勢でゆっくりとその一手を指している。

 端から見ていると、まるでどちらが殿様なのか見間違いてしまいそうなくらいである。


 「忠左殿、何やらまた阿波のねずみがちょろちょろ動き出したそうな」


 「御意ぎょい、こたびは三好康長殿の他、長治ながはる殿、十河存保殿も出陣とのこと。兵も二万五千をゆうに超えているとか」

 「して、こたび忠左殿はどのような手を打ちますかな?」


 元親は音も立てずに香車きょうしゃを忠左衛門の鼻先に張る。

 忠左衛門は、その香車には目もくれず元親の陣そばに銀をひとつ打った。


 「殿、角取りにございます。こたびは阿波の鼠をただで帰すわけにはいきますまい」


 元親は将棋盤の一点をじっと睨むように凝視ぎょうししつつも、頭だけはすでに戦場を駆けめぐっているのであろう。

 「はて? 忠左殿、その銀、何も効いておらぬが・・・、次なる一手の複線かのう?」

 元親は盤上を食い入るように見つめる。


 「殿、この銀はただの捨て駒でございまする。何の意味もござりませぬよ」


 忠左衛門は将棋盤から目を離すと、ふすま越しに見える桜の花のはらはらと散る姿を目で追う。

 「その言葉が気に掛かるが、ここはひとつ忠左殿の誘いに乗ってみようかのう」

 元親は角を下げ、その銀を取った。


 忠左衛門は、再び盤上に目を落としながら静かに、それでいて唸るように呟いた。

 「殿、乾坤一擲けんこんいってきこたびの戦、絶対に勝たねばなりませぬぞ」

 「うむ、分かっておる」

 「その殿のお覚悟をお聞きし、この忠左衛門心より安心いたしました。では、この場はこの飛車ひしゃにて王手角取とうてかくとりにございまする」

 そう言うと、忠左衛門はパチリと音を立て敵陣深くに飛車を打つ。


 「なるほど、その手があったか! 忠左殿、見事な捨て駒じゃ」

 元親は扇子で将棋盤の端をパンっと叩くと、背筋を整え正面の忠左衛門を見据みすえた。すでに、忠左衛門も肘掛けを横にりんと正座をしている。

 元親は低く、それでいて張りのある声でこの老臣に告げた。


 「片品忠左衛門、こたび先鋒を申しつける。江村勝永を伴い兵二千にて本日直ちに烏ヶ森からすがもりへ向け出陣せよ」

 「ははーっ」

 忠左衛門は深々と一礼すると、元親の部屋を後にした。


 半時後はんときのち、大広間では評定が開かれていた。今回の評定では、重臣から侍頭に至るまで、その数はゆうに八十人を越えている。

 しかし、そこには当然あの片品忠左衛門の姿はなく、加えて彼に帯同たいどうした江村勝永の姿もない。


 元親は足早に着座すると、例の甲高い声でこう言い放った。

 「こたび、三好康長軍を討つ! が、その前に・・・」

 元親はすっくとその場に立ち上がると、居並ぶ家臣達をゆっくりと見渡す。


 「安宅阿波守康俊、前えーっ」


 「は、はーっ」

 康俊はその禿頭はげあたまを擦り付けるように一礼すると、元親の前へと歩み寄ろうとする。

 しかし、その前を身の丈六尺二寸の吉田政重がさえぎる。刹那せつな、政重は刀を上段から振り下ろすと康俊の身体は木偶でくの人形のようにその場に崩れ落ちた。

 左肩から袈裟けさに切られた安宅康俊は、一言も発する間もなく絶命した。


 驚く家臣達を横目に、もう一人の重臣福留儀重が躍り出る。

 「方々かたがた、お静まりあれーっ、万事心配ご無用。実はこれなる安宅康俊なる者、三好勢から送られし間者かんじゃでござる。城内にいた仲間共もすでに捕らえておりますゆえご心配めさるるな」

 儀重は努めて冷静に、それでいて威厳いげんのある声でこの場をしずめた。


 事実、安宅康俊は三好康長に内通ないつうしていた。

 戦の陣形はもちろん、出陣する武将とその兵の数や位置までも城内にいる仲間を通じて知らせていたのである。

 先の戦の時などは闇夜に紛れて伝えにいったこともある。それだけではない、元親が老臣忠左衛門を疎ましく思い、捨て駒として使っていると言うことまでもくまなく伝えていたのだ。


 三好勢にしてみれば、兵の数が二百ということもあろうが、当主に見捨てられた捨て駒の老将など歯牙しがにも掛けなかったというのが本音である。

 しかし、それを承知で元親も安宅康俊を側に置いていた。



 おかげで長宗我部軍はこの二年間、兵や兵糧ひょうろうを消耗することもなく、きたる戦に備えることができたのである。まさに、敵方に情報が流れることを計算しつつ、逆に安宅康俊を利用した元親の計略であった。

 もちろん、その影には老臣片品忠左衛門の入れ知恵があったことは言うまでもない。彼は先代国親死去の混乱に伴いこの長宗我部家の家臣となった康俊を、ずっと以前から監視してきたのである。


 元親は更に続ける。

 「すでに忠左殿は兵二千を伴い、城を出立いたした。久武元綱、その方吉田政重と共に物部川沿いに布陣せよ。鉄砲隊を含め兵三千を与える」

 「御意!」

 「本軍は儂が率いる。福留儀重、そちは騎馬隊を指揮せい!」

 「ははーっ」

 「こたびの戦、四国統一のため必ずや勝たねばならぬ。皆の者よいか!」

 元親が初めて見せる地鳴りような声とその意気込みに、家臣達は皆声を合わせ身震いをした。



 この頃、ひと足早く烏ヶ森に到着した忠左衛門は、馬上でその華奢きゃしゃな身体の背筋をぴんと伸ばすと、手短にその意を兵達に伝えた。


 「二百の旗指物はたさしものを木にくくりつけい! なるべく、三好方よりよく見える位置にじゃぞ。他の者はみな旗指物をたたみ、目立たぬようにするのじゃ」

 戦術にけた勝永には、すでにこの意味が良く分かっている。彼は異を唱えることもなく、忠左衛門が出す指示を的確に部下へと伝える。


 さらに忠左衛門は各隊の指揮官を集めると、驚くべきことを口にした。

 「これより我が隊は全軍山を下り、敵の背後へと駒を進める」

 すかさず勝永が合いの手を入れた。


 「いよいよ捨て駒が動くのでございますな」


 忠左衛門はニタリとその皺ばんだ顔を崩すと、馬のきびすをかえす。

 一方、三好康長率いる阿波三好軍二万五千余も、物部川の東側に陣を構えた。


 「長宗我部勢も山田城に入った様子、殿、この後いかがなさいまするか? まずはこちらから仕掛けてみては・・・」

 今回初めて長宗我部軍との戦に参陣した三好長治は、いくぶんはやっていた。

 康長はそんな長治をなだめながらも、目の前を流れる物部川とその対岸に布陣する長宗我部勢に目をやっている。


 「いつにも増して、対岸に見える旗指物の数が多いようだが・・・」

 康長は目を細めてなおも見つめる。


 「殿、ご心配ござらぬ。あれに陣取るは我が方のお味方、安宅康俊殿が軍勢にございましょう。きっと安宅殿も先の戦で信頼を得、今回は兵を加増かぞうされたのでございましょう」


 十河存保そごうまさやすは旗印を確かめることもせずに、さらに続けた。

 「今宵こよい、川を渡り安宅殿の軍と合流いたしまする。安宅殿の軍勢が多ければなお幸い。その後、朝までには山田城を取り囲みまする」

 存保は戦上手で豪傑ごうけつな武将だが、多少思慮しりょ深さに欠けるところがある。


 康長は目を前方の小高い山へ移すと、蓄えたひげを触りながら、手にした采配さいはいで目に日除けをつくった。

 「どれどれ、此度も烏ヶ森の殿は来ておるかのお」

 むろん康長達の目にも、山の頂上付近にはためく二百ばかりの黄色い旗指物が見てとれる。


 長治はこの小山を攻めさせてくれるよう懇願こんがんしたが、康長は今回も許さなかった。あくまでも、この捨て駒を無視し続けたのである。

 代わりに康長は、兵達に日が暮れるまでの間、じゅうぶん休息をとり食事を済ませておくようにと命じた。

 兵達は槍刀そうとうを鍋にと持ち替え、しばしの時を戦とは無縁のことに費やすこととなった。


 他方、山田城内では福留儀重をはじめ騎馬武者達は最後の準備に余念よねんがなかった。

 「よいか、馬には矢弾やだまを防ぐ帷子かたびらを着けるのじゃ。かちの者は草鞋わらじを布で巻いておくのじゃ。河沿いはごろた石ゆえ、裸足では走れんぞ!」


 元親は儀重に、前戦で采配をするための軍配を手渡しながら呟く。

 「儀重、手筈てはずは整っておるか」

 「はっ、三好勢の陣に少しでも異変が起きれば、すぐさま川沿いの久武殿と呼応こおうし三好の陣に攻め入る所存しょぞんにございます」


 「こたびの戦、是が非でも勝たねばならぬ。おのれの身上を犠牲にしてまで、長きに渡り準備してきたあの御老体のためにもな」


 「片品殿のことにございますか?」

 「左様、あの御仁は自らが捨て駒になることで、今日のこの日を作り上げて来たのだ・・・ 儀重、この勝負、もらったぞ!」

 「御意!」



 その頃、忠左衛門の軍勢も三好方の背後に駒を進めていた。

 「見てくだされ忠左衛門殿、敵はまったく油断をしている様子。これならばいつでも仕掛けられますぞ!」

 江村勝永は刀のつかに掛けた拳に力をみなぎらせながら、そう言い放った。


 忠左衛門は右手を肩の位置で止めると、一度行軍を止め、全軍に旗指物を着けさせる。旗の家紋かもん糸輪いとわに下がり藤、その黄色い旗が幾重にも力強くはためいている。


 忠左衛門は眼下に見える敵の陣を見渡しながら、こう呟いた。

 「捨て駒は取られるが定めの駒。なれど、もしこれを軽んずれば、敵陣深くにて金にも成れる駒・・・」


 忠左衛門は全軍に総掛そうがかりの合図を送った。彼の馬と居並いならぶように勝永が槍を小脇きに抱えて併走する。


 「殿、捨て駒忠左衛門、お先に行きもうす!」


 彼は心の中でそう呟くと、疾風しっぷうの如く敵陣の中へと馬を走らせた・・・

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る