第5話 宗右衛門の誤算
「
「はいはい、では行きましょう。さてと、猿との初対面じゃな。果てさて何が飛び出すやら・・・」
ここは堺でも指折りの商人、
寺田屋は代々武具や馬具を大名に
主人の名は宗右衛門。
寺田屋では代々この名を
外見は、とてもそれが堺の大商人の主人という
そんな男のところへ、今朝は早くから一人の武将が訪ねてきていた。
「えろうお待たせしましたな。主人の寺田屋宗右衛門で御座います」
「いや~、朝早くからすまんの。
訪ねてきた武将とは、いまや
宗右衛門は眉一つ動かすことなく、
しかし、それだけではなかった。正直言って宗右衛門には、この足軽上がりの秀吉が、はたしてどのくらいの
宗右衛門は茶を点てると、静かに秀吉の前にとその茶碗を置いた。
「かたじけないの」
秀吉は片手で茶碗をつかむや、音を立てて一気にその茶をすすった。
「うまいのお、京より夜通し馬を飛ばしてきたものでの、本当にのどが渇いておったわ」
この誰にでも屈託のない接し方こそが、秀吉の人として好かれるところでもあり、また人を
ところが、そんな秀吉の振る舞いを、宗右衛門は少しも快く思わなかった。と言うよりも、むしろ不快にさへ感じていた。
(作法も知らん猿が・・・)
しかし、それでも宗右衛門は商人の端くれ。まったく意に返さずといった
「ところで、その羽柴
「あ~、筑前でよい、筑前で」
秀吉にとっては、茶を一杯飲んだだけでも、すでに
時としてそれは、人をたらし込む手段として使うのだが、この場合、元来持って生まれた人懐っこい性格といえるであろう。
「それでは筑前殿。このたびは、どのような趣きで、遠路はるばる堺まで」
秀吉はぐっと身を乗り出すと、宗右衛門の耳元で小さな扇子を開き、小声で答える。
「実はの、拙者、
秀吉のその言い方に、宗右衛門は一瞬ぎくりとした。
なぜなら、宗右衛門は以前、毛利氏に数十丁の鉄砲を納めたことがあったからである。いくら以前の事とはいえ、いま織田と毛利とは敵同士、おおやけになればただで済むはずがない。
秀吉は、すべてを見透かしているかのような眼差しをすると、更に続けた。
「金はない。だが、必ず後で払う。このわしを助けると思うて力を貸してくれんか」
「恐れながら、織田様には、堺に
宗右衛門の中では、すでにそろばんの駒が、けたたましく音を立て始めている。
秀吉は立膝のまま後退りすると、両手をついて宗右衛門にこう言い放った。
「信長様では御座らぬ。この羽柴秀吉にと申しておるのだ」
宗右衛門は思った。
(直接織田殿との商いでなくとも、決して悪い話しではないな。ましてやこの猿、いや秀吉と言う男、案外使えるかも知れんな・・・)
宗右衛門は少し背筋を張ると、さらに
「筑前殿のお心はわかりました。ただ、こちらも商人。利のない商売は致しません」
「ごもっとも」
「どうでっしゃろ。鉄砲などの
そう言うと、宗右衛門は秀吉のそばに転がっている先ほどの茶碗を拾い上げた。
「この茶碗を一つ買うてはもらえませぬか」
「この茶碗を?」
「そう、この宗右衛門の茶碗に、筑前殿はいくら払うてもらえますかな?」
なるほど、一つの謎かけである。当然、どう見てもただの湯のみ茶碗にしか見えない。
こんな茶碗一つに、秀吉はいったいどれだけの価値を付けるというのか、宗右衛門は秀吉の自分に対する信頼の深さを、この謎かけで確かめようとしたのである。
彼は頭を抱えて悩む秀吉の姿を想像した。が、意に反して、秀吉はすっと人差し指を一本上げると、にやりと笑った。
「城、ひとつ」
「城ひとつ?」
「左様、城一つでも惜しくない。ただ今はあいにく金がない。手持ちの
秀吉は懐から銭を鷲づかみに取り出すと、宗右衛門の前に差し出した。
「はっはっはっ、なんと言うお人だ。まったく筑前殿には負けましたな。この宗右衛門、今後は羽柴筑前上秀吉様のため尽力いたしましょう」
いつの間にか、宗右衛門もこの秀吉の人柄の虜になってしまったらしい。
それでも、それに見合うだけの商いが出来そうだということも、自然と彼の顔に笑みを作ってしまったのである。
帰り際、宗右衛門は庭に咲く一輪の
「羽柴様、もっともっとご活躍くださいませ。あなた様はきっと天下を取る方かと存じます」
「これ、めったなことを言うではない。天下様は信長様であろうが」
秀吉は宗右衛門の言葉をたしなめたが、表情は心なしか笑っているようにも見えた。
帰りの道中、秀吉は
「殿を試すとはなんと無礼な、これから戻って宗右衛門を切り捨てる」
足軽頭の
その後も、秀吉は宗右衛門の言葉通りよく働き、そして手柄を立てた。当然その影に、寺田屋宗右衛門の働きがあったことは言うまでもない。
ところが、ちょうど秀吉が
織田信長が
ことを知った宗右衛門は、すぐさま秀吉に手紙を送った。
秀吉は宗右衛門からの手紙を見るや否や、すぐさま行動に出た。この後のことは細かく書くまでもないが、中国大返しを成功させた秀吉は、山崎の地、
さらに、信長の跡目相続を決める清洲会議では、幼い
そんな秀吉もほんの束の間、彼の居城である長浜城に戻っていた。
大広間には、先程から一人の男が、身動き一つせず座っている。
秀吉はつかつかと歩み寄ると、この男に一声かけながら上座へとついた。男はなおも恐縮した面持ちで、カメムシのように頭を深く垂れている。
「宗右衛門殿、良くぞ参られた。さあさ、
「・・・」
宗右衛門は、まだひれ伏したままでいる。はいそうですかと頭を上げられるものではない。
宗右衛門にも、始めて出会った時の秀吉と、いま目の前にいるそれとが、自分にとって同じ立場の人物でないことぐらいはすぐにも計算できる。
秀吉は、親しみを込めた口調で続ける。
「毛利攻めでは世話になったの。この秀吉礼を申すぞ」
「もったいないお言葉でございまする」
宗右衛門は、目を伏せたまま答えた。
「宗右衛門殿、わしと貴殿の仲じゃ、かまわぬから面を上げられよ」
こうまで言われても上げぬは、かえって失礼。宗右衛門はゆっくりと頭を上げた。
そこにはいつぞや出会った時とは違う雰囲気の秀吉がいる。
「実はの、これは付け
秀吉はそう言うと、鼻の下にたくわえた髭を取って見せる。その下からは、あの時と同じような人懐っこそうな顔が出て来た。
思わず宗右衛門は、皮肉の一つでも言いたい気持ちになったが、もちろんその言葉は腹の奥に飲み込んだ。
「まったく、いつの間にか周りが騒がしゅうなったもんじゃて」
秀吉は大ぶりの扇子を扇ぎながら、宗右衛門に近づいた。宗右衛門が慌てて中腰になり、立ち上がろうとするのを制すと、秀吉は彼の耳元でこうつぶやく。
「今度は北国の大鬼がうるさくての、また春には戦じゃて」
「ははあ」
「鉄砲も千、いやニ千は必要かの」
もちろん北国の大鬼とは、織田家の重臣
「この寺田屋宗右衛門、羽柴秀吉様のお役に立てることでしたれば、如何様なことでも」
当然宗右衛門にも、今度の戦が何を意味することなのかは、十分過ぎるほどわかっている。目の前にいる秀吉が天下を取れば、すなわちそれは、宗右衛門自身、天下一の商人ということにもなるのだ。
宗右衛門は立膝のまま後退りすると、両手を深々と突いて秀吉にこう言った。
「たとえ国中の武具馬具、鉄砲・弾薬をと申されましても、この寺田屋宗右衛門、必ずや取り揃えてご覧に入れましょう」
「これは心強い言葉。これで秀吉、勝ったも同然じゃて」
「
「ただのお、宗右衛門殿。近頃この秀吉との商いをと願う者が多くての、ほとほと困っておるところじゃ。ここはひとつ、宗右衛門殿の
「ごもっともで御座います。して、手前は何を・・・」
秀吉はニタリとその黄ばんだ歯を見せると、やおら
彼はそれを、宗右衛門の肩に掛かるように放ると、凍るような声で囁いた。
「宗右衛門殿。この秀吉の褌ひとつで、いったい何丁の鉄砲が買えるかのう?・・・」
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