マイキャット・マイアンセスター①

 そぼ降る雨に濡れながら、俺は家路を駆けていた。学び舎からの帰路の最中、俺は不覚にも傘を忘れたのだ。恨み言を呟きながら、必死に走る。辺りに人はなく、どんよりとした雲からひたすらに雨が滴り落ちる。バシャバシャと弾む、俺の足音だけが妙に響いていた。


「ん?」

 暫く走った後、不意に俺は足を止めた。視界の端、電柱の陰に、ダンボールがあった。何気なく近寄ると、そこには一匹の三毛猫が居た。まだ子猫だというのに、小さい体を必死に震わせている。冷たい雨に健気に耐えていた。視線をずらせばたどたどしい字で『ひろってください』とある。つまりは、そういうことなのだろう。


「……。来るか?」

 哀れに思ったのだろうか。あるいは何らかの縁でも感じたのだろうか。暫く見つめた後、気が付けば俺は。その身を屈めて猫に聞いていた。すると。

「にゃあ」

 小さな子猫の、小さな鳴き声。しかし、俺の耳には確かに。返事に聞こえた。


「そうか。じゃあ、これに包まれ。な?」

 制服の上着を脱ぎ、子猫を包み、抱き上げる。猫と目を合わせて笑いかけ、そのまま再び家路を急いだ。冷たい雨に俺は酷く濡らされたが、そんなことは最早どうでも良かった。



「……。夢かよ」

 時計を見れば朝の六時半だった。今時珍しい、畳に敷くタイプの布団。身体を起こした俺は、押し入れの中にそれらを片付けながら夢を反芻していた。あれはもう何ヶ月前だったか……。


「にゃー」

 思考を遮ったのは間延びした鳴き声だった。とてとてと寄って来て、足元をてしてしと叩くさまは、見る者を和ませる。無論苦労は相応だが、微笑ましい姿を見られるのなら悔いはない。今やかの子猫は俺の愛猫であり、背格好も夢の中とは変わってしまった。だがその愛らしさは今も変わっていない。


「どうしたミケ、飯か?」

 俺は猫の前足から手を差し込み、持ち上げて目線を合わせた。すると再び鳴き声。

「そうかそうか。爺ちゃんから今貰って来てやるからな」

 俺の表情筋が崩れるのを知覚する。あの日もそうだったが、このミケという猫、どうも会話が成立する感がある。もしかしたら……。おっと危ない。あのドクターに見つかったら間違いなく何らかの改造っぽいことをされてしまう。戦うのは俺だけで十分なんだ。


 そう思いつつミケを下ろし、俺は台所へと向かう。自慢でも何でもないし、今となってはだだっ広いだけだが、俺の家は日本家屋としてはかなりいい部類だ。江戸の頃には『川瀬屋敷』とかとも呼ばれたらしい。もっとも、今の住人は二人と一匹だけだが。


 長い廊下を進むと、昔懐かしかまどの姿。米の匂いが漂い、上に乗った釜から湯気が立ち昇っている。そしてその奥。ガスコンロの方には。

「秀治、遅いぞ。運んでくれ」

 しわがれた、しかしそれで壮健さを感じさせる声。

 小さく、細身なれども芯のしっかりした背中。

 齢八十を過ぎてなお角刈りの白髪を三角巾で覆って。

 俺の祖父、川瀬秀兼かわのせひでかねがそこにいた。



「いただきます」

 茶の間とちゃぶ台。難しい字の書かれた掛け軸。俺にとってはもう見慣れた風景。そんな中で声を合わせて食前の挨拶を済ませ、箸をつける。外を見ればミケが、祖父の用意した、ねこまんまにむしゃぶりついていた。

 小松菜の味噌汁に玄米混じりの米飯、ふっくらと焼かれた卵焼きにきゅうりと人参の漬物。毎日の食事を用意してくれる祖父には、全く頭が上がらない。そして、なんとしてでも支えていこう。そう思わされる。と、そこへ。


「その、最近はどうなのだ?」

 角刈りに鋭い目。眼光未だ衰えず。そんな昭和感のある祖父が、俺にそんな曖昧な問いを投げかけて来た。

「どう、と言われても。どの辺の話さ」

 だから俺は、率直に続きを促す。ハッキリしない会話は、あんまり好きじゃない。

「ああ、うむ。その、な」

 だが返って来たのは煮え切らない返事。しかし、俺にはそれで察しがついた。付いてしまった。

「守秘義務とかあるから明確には答えられないんだよ。一応五体満足、ってことで許してくれないかな?」

 故に真実をもって答え、祖父の二の句を封じる。俺に出来ることはそれだけだった。外でミケが、一声鳴いた。


「なー、ミケー。どう思う?」

「にゃー」

 食事を終えた後の僅かな一時。思えば、こうして平和なのはいつぶりなのか。少なくともここ暫くは。マトモな時間に家に帰った記憶も、祖父と話しながら食事をした記憶もなかった。縁側に座り、猫を抱えながらしょうもない愚痴やら何やらをつぶやく。があってから初めての穏やかな一時と言えた。

「しかし……妙に暑いな?」

 ふと太陽を見上げた。妙に近い。そして、異様な光景に気付いた。。気付けば屋敷に火がついていた。あっという間に火勢は勢いを増し、俺の身さえも包んでいく。肉が焼かれ、ミケが焼かれ。全てが焼かれ、失われていく。遠くで祖父の絶叫が聞こえた。ああ、俺は。なにもできずに――。



「……あぢぃ! って、ここは確か……。そうか、気絶して。夢かよ」

 全身を焼かれたかと思ったら夢でした。だが、状況は似たようなものである。炎と瓦礫にまみれた街の中。なんのことはない。俺は熱さで目を覚ましたのだ。


「あー……。畜生」

 悪態と共に、記憶が蘇った。

 普段放し飼いにしているミケを、街で見かけて。

 思い出す。

 その視線の先に、指名手配の放火犯を見つけた。尾行した。ミケもついて来た。だがこの時、俺は気づけなかった。

 暫く追い続け、路地裏、人気のないところまで来た時。ついに奴が振り返った。全身が炎に覆われていた。ニュータントだったのだ。

「兄ちゃん、探偵かなにかかい? 度胸あんな。だが丸焼きだ」

 不敵な笑いが垣間見えた。俺は装甲スーツのスイッチに手を伸ばした。が、次の瞬間。

「にゃ゛っ゛!」

「んー? 猫連れかー? いけないなあ。いけないよ、油断しちゃあ」

 一瞬の内に移動したのか? 炎の男の両腕が、猫を確保していた。その姿は。

「ミケ!?」

 後は早かった。装甲が俺を覆うか否か。そのタイミングで奴の腕をかち上げた。ミケが空中に放り投げられ、地面に落ちた。だが俺の激昂はとどまるところを知らなかった。声にならない叫びを上げ、炎の体を容赦なく打ち据える。この時点で、何もかも失念していた。

 怒りのままの攻勢は――。

「その般若の形相。黒の装甲。所々に入った金色のライン。そうかい。兄ちゃんが。今噂の、ゴールデンオーガか」

 炎の奥の、冷静な瞳に絡め取られて――。

「金星、取った!」

 そして、大きく爆ぜた。



 そこから先の記憶はない。だが、装甲は解け、そこかしこに火傷の痕があった。つまり、気絶していた。

「チッ……。痛むな」

 身を起こそうとするが、身体が軋んだ。どこかを痛めたに違いない。これはまずい。


「目は覚めたかい? ご主人」

 そんな思考を巡らせていると、声がした。俺は慌てて周囲を見る。すると、そこには。

「休んでる暇はないよ。説明は後」

 先程倒れたはずのミケが、人の言葉を語ってそこに居た。

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