インビジブル・アンド・ビジブル
既に無人となって久しいその場所に明かりなど灯るはずはなく、折からの梅雨も相まって所々から雫が落ち、不協和音を奏でていた。
天津市郊外。とある三階建ての廃ビル。既に十年は前に無人となったその場所は、今やネズミと汚水、ホコリとカビに占拠されていた。
そしてその場所に新たなる不協和音が轟き、ホコリは激しく舞い上がる。
「ちいっ! 案外やる……!」
俺が幾度目かになろうかという悪態をついたその瞬間、金属の触れ合う嫌な音がビル内に木霊した。ビシビシと振動が起こり、ビルが揺れる。
「せめて攻撃の瞬間だけでも見えれば……」
俺は呟き、思考する。想定外の大苦戦。それもそのはずだ。
まずロケーションが最悪だった。精霊達の守備範囲に対して、屋内というのは全く噛み合わない。活動しているビルならまだしも、廃ビルとなれば援助の手は全く期待できなかった。
その上、俺自身の判断が最悪だった。『肝試しにやって来た人間に対し、消えたり現れたりして恐怖を誘う』。一見さして強力でもないニュータントが仕掛けたと思われる現象。俺はこれを甘く見てしまったのだ。
結果。
「ぐあがあっ!」
一切合切の主導権を、未だに姿はおろか声さえも出さないヴィランに奪われ、一撃一撃は弱くとも、確実に嬲られていくゴールデンオーガ、という状況を生み出されてしまったのだ。
「ぐぬぬ……!」
一歩、また一歩。攻撃を受ける度に、ジリジリと足は下がっていく。いつしか下がる場所は無くなり、今度は壁伝いに移動する。そして、腕が窓枠に触れる感触を味わった瞬間。
「落ちろっ!」
その下に身を屈めていたヴィランが初めて言動を示す。それは、地の底から突き上げて来る、昇り龍が如きアッパー。
「うおおおおおっ!?」
俺は仰け反って回避を試みるが、予想以上の一撃にバランスを崩す。そして。
「うあああああああっ!?」
ガラスの割れる音が耳に響き、俺の身体が宙に投げ出される。崩れていた体勢は空中で平衡を取り戻せるはずもなく、そのまま地上へ向けて――。
〈どっせい!〉
俺の脳内に声が響いた。その次の瞬間、体が大地と衝突する。しかしその衝撃は想定していたよりも少ない。スーツの装甲を差し引いても、分厚いマットに落ちた程度の衝撃しかなかった。
〈鉄筋や
〈大地の旦那!〉
〈やっほー。僕もいるよ!〉
〈風の! 助かった!〉
カラクリは簡単な話だった。風の精霊が気流を和らげて落下速度を緩め、地の精霊が僅かに地面を弛ませる。俺一人ではここまで気が回らなかった。
〈そのまま寝てろ。ちぃとばかり油断ならない相手のようだな〉
大地の精霊が俺の身体に脈を通しながら問い掛けて来た。俺は身を委ねながら言葉を選ぶ。
〈どっちかってーと厭らしい相手だ。ねちっこく、粘り強く。俺の前に姿を見せないことで優位を確保してじわじわと削って来やがる〉
〈うーわ、面倒な相手だね。あ、まだまだ。気流が教えてくれてる。相手、窓から顔出しして様子を見てる〉
〈ありがとよ。なんとか三階まで一気に行きたいが……。偽装が厳しいな。よぉし〉
俺は呼吸を深くした。なるべく回復し、力を溜め、脚力を一気に。見えない敵をイメージで睨め付け、機会を伺う。そして。
「っしゃぁ!」
きっかり三分後。雄叫びを上げ身体を跳ね上げ、着地した踵近くまで尻を下げて反動を付ける。そのまま一気に飛び上がり、スーツの力と、風の精霊の力を使い、壁を二蹴りで駆け上がる。
〈アイツ、中へ引っ込んだ! ガラスを割って押し入ろう!〉
〈おうよ!〉
三蹴り目の脚を窓ガラスにぶち込み、受け身を取って。俺は最上階へと舞い戻る。ガシャンとガラスが音を立てた次の瞬間、それまでにない突風が屋内に吹き込んだ。
〈あそこ! 居るよ! バッチリ見える!〉
〈よくやった!〉
風の精霊が、彼の操る気流が、指し示す場所。俺の目には見えないが、そこに居るというのなら。簡単な話だ。そこへ飛び込み。
「っだらぁっ!」
後は拳を叩き込む。それだけだった。
「カハッ!」
血を吹き出し、後方へとたたらを踏む敵。風は止んだが、血の方向で行き先は見えた。
「オラァ!」
「ごほっ……!」
もう一発。今度は腹の辺りを目掛けて。脱力したのか、その姿が見えてきた。全裸の、青年と思しき人間体だ。俺よりは年上だろうか。
「こ、降参だ、なんでもしゃべ」
「知るか!」
腹を押さえ待ったをかけるヴィラン。しかし俺はそれを無視し、右ストレートを顔に叩き込み、無力化する。なぜなら。
「お前の言葉に乗っかるより、こっちで探った方が手っ取り早いんだ。許せ」
俺はスーツを解除し、おぞましき全裸の青年――ところどころにペイントをしているのは迷彩だろうか――を担ぎ上げる。そして携帯を手に取り、共犯者兼ボスと連絡を取り始めた。
「いやはや。驚いたね。ついに出たわよ。川瀬」
「出ましたか!」
先程の顛末からさっくり一時間後。珍しく我らがボス、黄金崎霧香の顔は綻んでいた。そして、俺の顔も。
「ああ。迷彩の下に隠していたが、あの日君が見たものと同じ刻印が肌に刻まれて居るのを確認したわ。お礼はドクターにお願い」
「分かりました。後で俺からということで例のアイスを一ダースほど渡してやって下さい。給金天引きで構いませんので」
「つれないわねえ。まあ、彼に構っている時間も惜しいよね、君としては」
「その通りです」
俺の返事は簡潔だった。何故なら。
「君の目的。君の敵。その姿がようやくおぼろげながら見えてきたから。仕方ないことよね」
「そういうことです。申し訳ありません」
「構わない。『MIDUCHI』はこちらの情報網でも今ひとつ実態がはっきりしていないから。こうして一人ずつ片付けていかなくちゃ。頼むわよ、ゴールデンオーガ」
「承知!」
ボスへの返事は平静を装っていても、どうしても声に喜色が篭もるそれであった。それほどまでに俺はこの機会を待っていたのだと、改めて実感したのだった。
「……郊外の廃ビルを根城に好き放題やっていたインビジブルが、【ゴールデンアース】に捕縛されたらしい」
何処とも知れぬ暗がりの中に、幾つかの影があった。いずれも禍々しいシルエットを象っており、闇の中にあって更に闇を思わせる威容であった。
「ハン! あの程度の奴が捕まった如きで俺達が揺らぐかよ! 大体からして強がりでもなんでもなくアイツは俺達の中で一番の小物だっただろ!」
「その通り。何も恐れることはない。これまでのように密やかに振る舞い、表向きへの浸透に徹すれば我々は労せずして勝ちを得ることが出来る」
暗がりの大勢は楽観論であった。それもそのはずだ。彼等の表の顔は、既に
惑わされることなく、迷うことなく。王道を征くだけで彼等は勝利を得られるだけの力を既に保持していた。だが。暗がりの最奥に佇む一人だけは、異論を提示する。その声色は、他とは違い、高く。しかし毅然としたそれであった。
「確かに早急の対応は無用よ。ただ、【ゴールデンアース】を軽く見てはいけない。かの勢力の背後には……。いや、言わないわ。何れにせよ我等が覇道を征く限り、その『背後』とも巡り合う。その時、叩き潰す」
最奥のシルエットが、立ち上がる。それを合図に他の者も立ち、三々五々に消えて行く。
「鬼が来ようが狸が出ようが。最後に勝つのは私達【MIDUCHI】よ。全てを喰らうのは、蛟。水に棲まう蛇。全てを絡め取り、飲み干すの」
最後に一人残った女の呟きが、誰も居ない暗がりに残された。
インビジブル・アンド・ビジブル 終
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