第3話 朝にすむ魔物

 朝の時間と言うのは、どうしてこんなに短いのだろう。

 同じ30分でも、夕方の30分なら、これほど忙しなくも短くもないような気がする。

 どんなに早起きしても、ゆとりなんてものはちっとも生まれない。

「風花、朝だよ。起きなさい」

 しなさい、という言葉は嫌いだ。

 僕が嫌いだから、風花にも言いたくない。

 言いたくなかったはずなのに、朝の登園までのわずかな時間に、いったいどれだけの「しなさい」を連ねるだろう。

 ほとほと嫌になる。嫌になるのに効果もない。しなさいと言って風花がそうできたためしはないのだから。

「起きなさい」

 無理矢理に体を起こして、まだ瞑ったままの目にやれやれと思う。

 見やった時計は、準備するのにぎりぎりの時間しか残っていないと告げている。

「風花、こら、風花」

 言いながらどうにか着替えをさせて、ダイニングテーブルの席に着かせる。

 固く絞ったタオルで顔を拭き、トレイに乗せた食事を出す。

 これだと一度に下げられるから時短になるし、ウサギの形のトレイを見ると、風花のテンションがわずかに上がって一石二鳥だ。

 と言っても、おにぎりに味噌汁が精いっぱいの朝ご飯だけれど。

「ウサギさん、いただきます」

 風花が言って、フォークを手に取った。

 ふうっと僕は息を吐く。どうにか間に合いそうだ。

 朝には魔物でもすんでいるのではないだろうか。そんな馬鹿なことを考えてしまう。

 仕事をしていたときは、自分の支度だけをすればよかった。

 いつだって、気付いたら風花は支度を終えていて、祥子も支度を終えている。

 そうして食事もできていた。

 今思うと、すごいことだ。いったい祥子はどんなマジックを使っていたのだろう。

 こんなことなら、祥子にそのマジックを教えてもらっておけばよかった。

 いや、祥子は教えてくれていたのかもしれなかったけれど、僕はきっと適当に聞いていた。まさか自分が全部することになるなんて思わなかったし、いざすることになったときには教わらなくても自分でできるような気になっていた。

 そういえば、ウサギのトレイを買ってきたのは祥子だった。

 祥子もまた朝の魔物と戦っていたのだろうか。




 ごちそうさまの声を聞きながら、僕もコーヒーを飲み終える。

 たんぽぽ組の黄色い名札を付けてあげて、持ち物が揃っているか確認をする。

 風花の通う幼稚園は市立幼稚園だ。

 私立の幼稚園に比べると格段に保育費が安いことと、小学校と同じメニューの給食が出ることもあって、なかなか人気があるらしい。けれど預かり時間はとても短い。特に入園したばかりのときは給食もなく、送っていったと思ったらもう迎えに行かなくてはならない。

 共働きの核家族には、とても利用は無理だ。

 祥子はぎりぎりまで保育園を探していたけれど、やっぱり空きはなく、仕方なくここに決めたようだった。

 今となってはこれでよかったのかもしれない。

 支払いは安いに越したことはない。

「パパ……おなか痛い」

 そうだった。そろそろ始まる時間だ。

「朝のトイレは行ったのか?」

「うん、いった」

「行ったのに、痛いの?」

「うん」

 だからきょうは、幼稚園おやすみする。

 すっかり支度ができたまま、ソファに腰かけてお腹を押さえている。

 毎朝の光景だ。

 入園からしばらくは元気に通っていたのだけれど、ゴールデンウィークを過ぎて給食が始まってから、とたんに行くのを嫌がるようになった。

 これが世に言う五月病かなどと、のんきなことを考えている暇はない。

 とにかくどうにかして今日も幼稚園に行かせなければ。

「パパがいつものおまじないしようかな」

「やだ、いい」

「どうして?」

「いいの」

 小さな丸い白い顔が下を向く。

 風花が大きな怪我や病気以外でどこかが痛くなったとき、たいてい僕のおまじないで治る。にゃぶちゃんと並んで、風花のお気に入りのひとつだ。

 チチンプイプイ……というよく聞くやつだけれど、ひとつ違うのは、その痛みの飛ばし先が空にすむ鬼だというところ。最初はただ飛んでいけと言っていたのだけれど、ある日、風花が飛んで行ったところに誰かいたらどうしようと言い出した。そのひとが痛くなっちゃうと。

 子どもは面白いことを考える。

 僕は聞き流してしまうのが惜しくなって、一生懸命考えた。そうして、我ながらいいことを思いついた。

「チチンプイプイ、痛いの痛いの、お空の鬼さんに飛んでいけ!」

「鬼さん?」

「そう。ほら、聞いててごらん」

 僕は自分の出せる精一杯の低い声で続けた。

「おや、なにか飛んできたぞ。これはうまそうだ。もぐもぐもぐ」

 あ、食べた!

 風花の顔が輝いた。

 こうしてうちでは痛いのは全部、鬼が食べてくれるようになったのだった。

 が、今日はその鬼も出番がなさそうだ。

 僕は自分の子ども時代を全部覚えているわけではないけれど、幼稚園も学校も、行きたくないと駄々をこねたりズル休みしたことはないと思う。両親はそういうことには特に厳しくて、熱が出ていても37度台なら登校させられたこともある。

 今となっては、ひどい話だと思うけれど。

 だからだと思う。病気でないのに幼稚園を休むという選択肢は、僕の中ではまるでなかった。気持ちがどうであろうとも、行って当たり前だと思っていたのだ。

 そんな僕にとって風花の毎朝は、理解をするのはとても難しい。

 何が嫌なのだろう。

 先生? 友達? それとも嫌いな食べ物が出るから?

 何を聞いても風花は何も言わない。

 ただ、休みたいという。

「とりあえず、ちょっとだけ外に出てみよう。いいお天気だよ」

「やだ!」

 声が強くなった。

 前に同じように外に誘い出して、サッと幼稚園に連れて行ってしまったのを覚えているんだろう。

「風花、ズル休みなんてするもんじゃない」

「ズルじゃないもん」

「でも、毎朝お腹が痛くなるわけないだろう」

「だってほんとに、痛いんだもん」

 魔物は風花のお腹にもすんでいるようだ。

「じゃあ病院に行かないとな」

「やだ!」

「あれもこれも、全部やだって何だ」

 あ、と思ったときには、もう自分が思っているよりきつい声が出てしまった後だった。

 案の定、風花は泣き出した。

 またやってしまった。

 最近、こうやって朝に泣かせることが多い気がする。

「風花……」

 ため息をかみ殺して、そっと小さな身体の隣に腰かけ背中を撫でた。

 小さな小さな背中。

 あたたかくて、頼りない。

 祥子がいたならどうしただろう。

 祥子はなんと声をかけるのだろう。

 なにも思い浮かばなかった。

 母親ならば、風花を泣かせるようなことをしないで幼稚園に行かせられるんだろうか。

 僕は間違っているのだろうか。

 そうだとしたら、なにが正解なんだろう。

 それでもその日、途中からどうにか登園させた。

 休ませたら負け癖をつけるんじゃないかと思えて、どうしても行かなくていいとは言えなかったのだ。

 迎えの時間に幼稚園の玄関に出てきた風花は、とくに変わった様子もないように見えた。

「おかえり」

「ただいま」

 僕のところに駆け寄って言うと、さっそく手を繋いで車のある場所まで歩こうとする。

「風花、途中からで大丈夫だったか?」

 風花は何も言わなかった。

 それには答えずにスタスタと歩く。

 手を引かれるまま、僕も、もう何も聞かなかった。

 

 

 

 僕の一人暮らしは大学の四年間だけだ。

 けれど、ずっと自炊をしていたし、自分で言うのもなんだけれど家事は好きだった。

 掃除も洗濯も苦ではない。

 だから専業主夫も向かないわけではないだろうと思っていた。

 でも、違うのだ。

 自分ひとりの面倒を見ればいいだけの大学生の家事と、小さな子どもの面倒を見ながらのそれは。

 何から何まで、思うように行くことなどひとつもない。

 風花とのこともそうだ。

 風花の心が、まるで見えてこない。

 育児を安易に考えていたわけではない。それでも我が子なのだから、すっと難なく届き合うものがあるだろうと思っていた。

 こんなに小さな子どもでも、心は複雑怪奇だ。

『風花ちゃんは、今日はとても疲れている様子でした。お家でなにかありましたでしょうか。明日は、四月と五月生まれの子どもたちのお誕生会を予定しています。風花ちゃん、元気に来られますように。待っています』

 園からのお便りに挟まって、先生の書いた手紙が入っていた。

 先生に相談してみようか……。

 考えながら手紙を弄んでいると、風花が来た。

「きょうのごはん、なに?」

 焼き魚のつもりだった。でも、なんだかそれじゃなぁ。

「風花は何食べたい?」

「うーんとね、ハンバーグ」

「そうか、じゃあ、ハンバーグにしよう」

 やったーと飛び跳ねて、ハンバーグ~ハンバーグ~と変な節で歌っている。

 胸の中の暗いもやもやを、僕はひとまず置いておくことにした。

「タマネギのないのがいい!」

「そうだなぁ。野菜の味噌汁を全部食べるんだったら、タマネギ無しにしてやってもいい」

「みそしる、食べる!」

 みじん切りにしかけていたタマネギを急きょ鍋の方に入れる。

 えーっと批難の声が上がったけれど、そこは無視だ。

 風花はタマネギがあまり好きじゃない。

「大きなハンバーグにしような」

 ひき肉は、普通のと粗挽きとを使う。肉の種類は豚だけ。

 食品用ビニール袋の中で、卵やパン粉や牛乳を加えて混ぜる。

 よくこねた後、タネを手に乗せてビニール袋をひっくり返す。そのままフライパンの中にどんと落とすと、ずっとそばで見ていた風花が「わぁ!」と声を上げた。

 巨大ハンバーグは実に美味しそうに焼き上がり、風花はすっかり元気になってご機嫌だけれど、僕は職人だったころには考えられなかったことを思っている。

 明日の朝が、ずっと来なければいいのに。なんて。

 

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