第5話 ねこ屋敷

「ちょっとよろしいでしょうか」

 風花を幼稚園に送り、そのまま帰ろうとして園長先生に呼び止められた。

 なんだろう。

 思ったけれど、とにかく車を停めなくてはならない。返事もそこそこに僕は急いで周りを見回した。

 登園の時間は基本的にドライブスルー方式だ。

 園児の人数が増えたのに伴って駐車場のスペースが足りなくなったことから、先生方が考えた苦肉の策だった。

 車で送ってくる者は定められた入り口から入り定められた出口から出る。その途中にある園への入り口に数人の先生が立ち、車から降りてきた子どもを受け取る。もともとは駐車場だった場所で行われるので、入り口から出口までの距離は直線距離にしてしまうととても短く、毎朝の混雑ぶりは首都高も真っ青だ。

 園長先生から声をかけられたのは、しぶしぶながら風花が車を降りたときだった。こんなときに呼び止めてくるなんて、よほどのことに違いない。

 他の人たちの邪魔にならない場所にどうにか車を停め、園長先生のところに向かう。先生は入り口から少しそれた園庭の方に立っていた。

「お待たせしました」

 こんな時間に申し訳ありません。と園長先生は会釈した。

 定年間近のおばあちゃん先生は、保護者にとても人気があるようだった。僕がこんなふうに一対一で話をするのは初めてだったが、なるほどとすぐ思った。

 一目見ただけで、包容力を感じる。

 長年、子どもに真摯に向かい合ってきた人間の持つ深い懐を感じた。

「風花ちゃん、ご家庭での様子はいかがですか?」

「はい……。なかなか登園したがらなくて。特定の理由があるわけではないようなんですが。園での話もしたがらないので、様子もよくわかりません」

「そうですか」

 風花に関してはありのままを言う。僕が決めたきまり事だった。同時に風花に嘘はつかせない。

 するなら堂々と登園拒否を。担任の先生が聞いたら卒倒しそうだけれど。

 園長先生は穏やかな表情を少しも変えなかった。

 深く頷いて、からりとした口調で続ける。

「園では、お友達とかかわることは少ないようですが、工作をするのはとても好きなようです」

「工作、ですか?」

「おうちでは、何か作っていますか?」

「いえ。まだテープを切るのも一人でできなくてべそをかくので……。幼稚園ではどんなものを作っているんでしょうか」

「そうですね。折り紙を丸めたり、ペンで色を塗ったり。今日はネコをつくる予定なんです」

「ネコですか?」

「ええ。ティッシュボックスにトイレットペーパーの芯の足と、ネコの頭をつけて」

 楽しそうですねと思わず微笑むと、園長先生も微笑んだ。

「園での楽しみが増えれば、風花ちゃんもきっとスムーズに登園できると思います。担任とも相談しながら、お父さんにもお話をうかがって、風花ちゃんの楽しみを増やしていきたいと思っていますので、何かありましたらいつでもご相談ください」

 おや、と思った。

 てっきり幼稚園にとっては、いつまでも馴染めない風花は厄介者なんじゃないかと思っていたからだ。担任はけして悪い先生ではないんだと思うけれど、風花が園を嫌がる様子を見せると不快感を顔に出す。もしかしたらこの人は、登園できないことを子どもの我儘や親の甘やかしだと思うタイプの人なのかもしれないと思ったし、それが園の総意なのかもしれないと思っていた僕は、園長先生の態度に内心、全身の力が抜けるくらいにほっとした。

「ありがとうございます」

 礼だけ言って頭を下げる。

 先生と話をするのも、もっと必要なのかもしれない。

 社会に出れば、環境を選べないことばかりだ。

 会社に勤めれば上司を選べないし、同僚だって選べない。

 人間関係には理不尽がつきものだ。

 生まれて初めて親元を離れた時間を過ごす風花には、幼稚園での頼りは先生だけになるけれど、その先生だっていろいろな人がいる。

 いま風花は社会に出るための準備の一歩を踏み出したのだと、あらためて感じた。

 これまでは風花を先生にすべて委ねることしか考えていなかった。もちろん園内にまで親が出しゃばる必要はないと思うけれど、風花の一歩を助けることは必要かもしれない。僕自身も幼稚園や先生方とのかかわりを考えなくてはならないのかもしれない。

 僕ができることはなんだろう。

 風花が、本当に必要としていることはなんだろう。

 家に着いて朝食の後片付けを始めながら、僕はすぐには結論の出そうにない考えを巡らせていた。




 僕の両親はとにかく忙しい人たちだった。

 仕事を生きがいにしていたし、社会に貢献することを何より重要なことだと考えてるようだった。

 ふたりはそういう点ではしっかり考えが一致していたから、うちにはまるで父親が二人いるようだったのかもしれない。

 ひとりで留守番できるようになったのがいつだったのか正確に覚えてはいないけれど、幼稚園のうちに家の鍵は開けられるようになっていたから、たぶん小学校に入ったころには普通に留守番ができたと思う。

 けれど、寂しいと感じたことはなかったような気がする。

 いつの間にか僕は自分を、小暮家の子どもというよりも小暮家の一員と思うようになっていて、両親も子ども扱いしなかった。

 特に親父は、ニュースを見ていても僕に意見を求めてきたりする。小学生に世界情勢は難しかったけれど、親父に聞かれるのがうれしくて一生懸命に考えた。そういう両親とのやり取りの中で、僕は自分を知ったり世の中を考えたりするようになっていった。

 ただ……それが僕にとっていいことだったのかどうか、二者択一を迫られたら答えに困る。

 甘えやわがままをよく知らずに育った僕は、自分でも気づかないうちに心に歪を抱えることになってしまった。

 それは大人になった今の僕には大切で有益なものに変わってくれたけれど……。

 必要としていることをしてあげる。

 風花には、そうしてあげたい。

「難しいなあ……」

 山村さんが言っていた草花の育て方のことを思い出し、ついひとりごちた。




 お迎えは各年が別々の時間帯のため、ドライブスルー方式ではなくなる。

 駐車場に車や自転車を停めて、玄関まで子どもを迎えに行く。子どもたちは玄関の内側に並んで待っていて、担任の先生がひとりずつ親を確認しながら帰していくのだ。

 車を降りたところで、玄関前にいるお母さんたちが僕をちらちらと向いて何か話しているのが見えた。

 専業主夫になったときにある程度の覚悟はしていたけれど、やはりこういうシチュエーションはとても多い。こんなのは可愛いもので、ひどくあからさまな反応をする人もいる。

 僕自身は主夫であると公言したことはなく、我が家の事情を知る人はほとんどいない。そのせいもあるのか、いまのところ親しく近づいて来るひとはいなかったし、こちらもきっかけがなくてうまく話しかけられずにいる。

「こんにちは」

 それでも、にこりと挨拶をして列の最後尾につく。返事はなかったけれど小さく会釈が返ってきた。

「小暮さん、今日は風花ちゃんとっても頑張ったんですよ」

「……これは」

 僕の順番が来たとき、先生の言葉よりも目の前の風花の様子に度肝を抜かれた。

 白い巨大なビニール袋をパンパンに膨らませて両手に抱え持つ風花は、まるで買い物好きの富豪のようだ。

 いったい何が入っているんだろうと思っていると。

「みんなでネコを作ったんですけれど、風花ちゃんとってもじょうずに作ったんです」

 ちょっとたくさんできちゃいましたけど、と先生が興奮気味に言ってにこにこする。

 つまりこの袋の中には、今日作ったネコがいっぱい入っているんだろう。園長先生が今朝言っていたネコに違いない。

「すごいなぁ、風花」

「うん!」

 自分の胴回りよりも大きな袋を、左右に大事そうに抱える姿に微笑んだ。

 なんにせよ、楽しそうな風花の顔を見るのはとてもうれしい。

「どうもありがとうございます。先生のおかげですね」

 何気なく言ったひとことだった。当たり前すぎるひとことだ。けれど、言いながら見た先生の顔はちょっと驚いていて、それがやがてぱっと明るくなった。

「いえ。風花ちゃんは説明を聞くのも上手でしたので、すぐ作れるようになったんです」

 車まで袋を持ってやろうとしたのを嫌がって風花は自分で運び、持ったまま車に乗り込もうとする。袋を一緒に乗せたら助手席では収まらないので後部座席にチャイルドシートを移動する。どうしてもそばに置きたいらしい。

「ネコちゃんたくさん作れてよかったな」

「うん!風花、おせわする!」

「お世話?」

「そうだよ。ごはんあげたり、お水あげたりするの!」

 いつになくご機嫌な風花をバックミラーに見ながら、ということはあの袋の中の大量のネコとの同居が始まるわけかと、頭の中で置き場所を考える。それほど広くない我が家にずらりと並ぶネコを思い浮かべて、少々まいったなと思う。

 案の定、ぞろぞろと出てきたネコたちは総勢十数匹。

 チーズの空き箱で作られたエサ入れと水入れまで用意してある。

 リビングの一角、こちらに顔を向けて並んだネコの大群は圧巻だ。

「リボンちゃん、まるちゃん、さんかくちゃん、ももちゃん……」

 端から順に風花が名前を教えてくれた。ネコの耳についている飾りがそのまま名前になっていて助かる。とても覚える自信はない。

「すごいなぁ……」

 思わずつぶやくと風花の顔が輝いた。

「うん!あしたも作ってくる!」

「……」

 その日はずっと風花はネコたちの前から動かなかった。

 そうして、一番最初に作ったらしいネコを枕元に置いて一緒に寝た。

 どうやらこれからも増えていくらしいネコを思って、やれやれと息をつきながらもくすぐったいような気分になる。風花が幼稚園を楽しんでこれたことが、僕の胸の中をソーダの泡が弾けるようなソワソワとしたもので満たした。

 ふと、担任の先生の顔を思い出す。

 今日の先生は、風花の喜びを心から共感してくれていた。

 それに、僕がお礼を言ったときの先生の顔。

 あのときの先生の顔は、まるでいつもと違っていた。

 ありがとうという気持ちをひとこと言葉にしただけで、あんなにもストレートに喜びを共有できるものなのか。

 ネコの一匹を持ち上げてみた。

 さんざんくっつけそこなったらしく、ごてごてとテープが絡みついている。今日だけでこれだけの数を作ったのだ。相当なテープを使ったろうし、おそらく先生の言うことそっちのけでネコを作り続けたに違いない。

 けれども、先生は何も言わずに風花をほめてくれていた。

 無意識の思い込み。

 知らない間にしている決めつけ。

 僕にだけは無いなんて、どうして思っていたんだろう。 

 よく、見なくては。

 よく、聞かなくては。

 微妙にずれたネコの両の目が、僕をぽやんと見つめている。

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