第4話 魔法の庭
緑の一群の前で、風花は長いことしゃがみ込んでいる。
楕円にブロックが並べられている内側、クローバーがひょこりひょこりと風に揺れていた。
「すみません」
「うちはちっともかまいませんよ」
もう何度目になるかわからない僕の謝罪に、山村さんは同じように何度目になるかわからない返事を返しながら、にこりと笑った。日焼けした顔に笑いじわが優しく浮かぶ。
うちのお向かいさんである山村さんの家には大きな庭があって、ご夫婦で素晴らしく手入れをされている。
朝早くから庭にいるので、出かけるときにはいつも挨拶を交わしていた。
今日までは、それだけだったのだけれど……。
「小暮さん、そんなに謝ってばかりいないでください。うちは本当にいいんですよ」
「……はぁ」
「風花ちゃんが来てくれると花が喜びます。妻もね」
喧嘩の後でもたちまち機嫌がよくなるから、助かってますよ。
小さく僕に聞こえるだけの声で続けた後、もう一度笑ってみせた。
「ありがとうございます……」
どうやら僕が知らない間に、祥子と風花はたびたび山村さんのお世話になっていたようだった。
突然の訪問にもかかわらず、まったく動じないどころか迷惑がりもせず、やぁおはよう風花ちゃんなんて迎えてくれた山村さんご夫妻。そして勝手知ったる顔で楽しそうに庭で遊ぶ風花。
いつもの登園前の魔の時間、今日の風花はビックリするような行動に出た。
車までおとなしく来たかと思うと、突然お向かいの庭に向かって猛ダッシュしたのだ。捕まえる間もあればこそ、唖然と見送るしかなかった。
いま、風花は真剣な顔でクローバーを見つめている。きっと四つ葉を探しているんだろう。
「よろしかったら、中に入りませんか?」
断ることもできずに、促されるまま庭に入った。
花音痴の僕には名前のわからない花ばかりだけれど、どれもが歌うように咲いていた。
昔、祥子の誕生日プレゼントにバラを贈ろうとして、カーネーションの花束を贈ってしまったことがある。カーネーションをすっかりバラと思い込んでいたのだ。祥子は笑って喜んでくれたけれど、僕は本当に恥ずかしかった。慣れないことはするものじゃないと思ったし、花ひとつ覚えられない自分も情けなかった。
「どうぞ」
「……すみません」
折り畳みの椅子を広げて出された。
素直に頭を下げて、山村さんと並んで腰かける。
いい香りが微風に乗ってくる。
思わず深く息を吸い込むと、体の細胞がふわりと膨らんだ気がした。酸素だけでなく香りだけでなく、まるで何か特別な成分が身体に入り込んできたようだ。
ふと、こんなにちゃんと呼吸をしたのは久しぶりな気がした。
振り仰げば青い空が、笑い声を立てている。
楽しくてしかたがない、わくわくした朝。子どものころ遠足の朝はきまってこんな青空だった。もうずっとずっと、忘れていた。
目を落とせば視界いっぱいに飛び込んでくる様々な色たち。
きれいだ。とてもきれいだ。
ただ山村さんの敷地に入っただけなのに、四角く切り取られた世界があった。
ここは不思議なところだ。ほんとうに、不思議だ。
「お疲れなのではないですか?」
それまで、ただ黙って隣にいた山村さんが口を開いた。控えめな声色が父親のそれと重なって、はっとした。
「……そんなふうに……見えますか?」
「少しだけ」
他人にこんなことを言われたのは初めてだったけれど、嫌な気持ちも取り繕う気持ちも湧いてこなかったのは、その声のせいなのかもしれない。
「祥子さんはよく風花ちゃんと散歩に出ておられたんですが、たまたま今日みたいに風花ちゃんが庭に入ってきたんですよ。まだ小さくてよちよち歩きでしたけどね。妻がすっかり祥子さんと風花ちゃんを気に入ってしまって」
うちは子どもがいないので。
言葉につられて隣を見ると、山村さんは微笑みながら風花を見ていた。
「結婚したとき、妻の願いはなんでも叶えてやりたいと思ったもんですが、一番の願いは叶えてやれなかった。この庭は妻の二番目の願いでしてね。私は草花を育てることにはまるで興味はなかったのに、気付いたら朝から晩まで庭で遊ぶようになってしまって。今じゃ妻に呆れられる始末です」
そんなに口数の多い人ではないと思っていた。
朝の挨拶も、挨拶だけで世間話などしたことがなかった。
親父似の声は静かに隣から聞こえてくる。
僕の返事を待たず、僕に返事を求めず。ただ、ゆっくりと……。
ふと、唐突に、山村さんは励ましてくれているのではないかと思った。
毎朝毎朝、庭にいるご夫妻には僕らの大騒ぎが目に入っていたのだろう。
気恥ずかしい。
「クッキーが焼き上がったわよ。風花ちゃん食べる?」
「うん!」
飛び跳ねるような風花の声に、はっとして腕時計を見ると登園時間はとうに過ぎていた。
風花は奥さんの持っているトレイのお皿から、クッキーを一枚頬張っている。
もぐもぐと幸せそうな顔は、祥子が離れてからは一度も見たことのない顔だ。そういえば、風花はこんなふうに笑う子だった。
見失っているんじゃないか。
僕は何のために風花のそばにいるんだ。
祥子が懸命に自分の人生を切り開いているのと同じように、僕は風花の笑顔を守るために力を尽くすのではなかったか。だからこそ祥子は、わが子と離れる苦しさにも耐えているのではないか。
「すみません、ちょっと電話をしてきます」
車に投げ込んだままだったカバンから携帯を取り出して、園に欠席の電話を入れた。
どうされました?
「今日は……」
電話の向こうの問いかけに、ほんの少し躊躇した。調子が悪いとでも言おうと思ってやめた。嘘をついたら、風花に嘘をつかせることになる気がした。
本当のことを、言ったほうがいい。
「どうしても登園できないようなので、今日は様子をみます」
そうですか、わかりました。
そう答える声は冷ややかな気がしたが、僕は正直に言えてほっとしていた。
幼稚園の担任の先生は、待っていますとは言うけれど、休んでいいですよとは言わない。僕自身も、どんなに嫌でも行かなくちゃならないと思っていたから、泣き喚く風花を抱きかかえて車に乗せた朝もあった。
風花のイヤイヤは理解できなくても、嫌がっている子どもを無理やり引っ張り出すことの辛さは身を切る。
僕は、自分がどんどん嫌な人間になっていくような気がしていた。
「……失礼しました」
「どうですか? 中に入って、一緒にお茶にしませんか?」
庭に戻ると、山村さんが言った。
道路挟んで向こうの車の中だ。電話の声が聞こえているとは思えなかったが、山村さんは僕の顔を見て何も言わなくてもわかったようだった。
風花はリスのように口いっぱいにクッキーを頬張って、今度はジュースをもらっている。
「ありがとうございます」
「小暮さん、遠慮なく過ごしてくださいね。わたし、風花ちゃんが大好きなの」
奥さんの笑顔が底抜けに楽しそうで、僕は一瞬呆気にとられた。まるで風花の笑顔のように屈託がない。とても大人ができるような笑顔じゃない。
祥子と風花が、安心してお世話になっていた訳がわかった気がする。
風花は奥さんの手を引っ張って、家の中に入りたがった。
「風花ちゃんと遊んでもいいかしら?」
「あの……はい、よろしくお願いします」
きらんと風花の目が輝いた。パパ大好きなんて言う。言っておいてこっちを振り向きもせずに、奥さんの手を引いて家の中に消えた。苦笑がこぼれる。
「我々も行きますか?」
山村さんが言ってくれたけれど、僕は。
「ご迷惑でなければ、もう少しここにいてもいいですか?」
もちろん、と柔らかく風に流れた、父の声。
椅子に腰を下ろすと山村さんも腰を下ろした。
「私も、もう少しいてもいいですか?」
今度は僕が、もちろんと答えた。
本当は僕のほうが、この人と一緒にいたかった。
「……草花の手入れをし始めたとき、妻に怒られました。私は自分勝手だって」
「自分勝手?」
「水も肥料も剪定も、したいようにしたらいけないそうです。草花がしてほしいようにしてあげるのが手入れなのだそうですよ」
「草花がしてほしいと言うんですか?」
口に出してから、ずいぶんと子供じみたことを言ってしまったと思ったけれど、山村さんは笑わなかった。
「よく、聞いてやるのだそうです。土に触れ、葉や茎をじっくり見て。そうすると、いま何を欲しがっているのかわかるんですよ。求めていないことをしてやっても、草花はうまく育たない。おもしろいものです」
暗に風花とのことを言っていると感じたのは、気のせいではないと思う。
なのにどうしてだろう。説教に聞こえないのは。
染み入るような声はそのまま僕の心に染み入る。
「まだまだうまくできませんがね」
横顔が笑んだ。
あの日。風花が生まれた日。僕は思った。
家族は最初から家族じゃなくて、だんだんと家族になっていくものじゃないかと。父親もまたそうだったことに、僕はどうしてか気付いていなかった。僕は最初から父親じゃない。だんだんと父親になっていくんだ。
「僕もまだまだ……うまくできません」
山村さんは黙っていたが、それが心地よかった。
開け放された窓から、風花の甲高い笑い声が聞こえた。
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