第6話 にゃぶちゃん回転寿司
僕ら家族の大好きな場所。
近所の桜並木の小径。二丁目のせせらぎ公園。科学館のプラネタリウム……。
そして、回転寿司。
特別な日はいつも回転寿司に行くのが、我が家のおきまり。
風花は流れてくる寿司を取るよりも、パネルをタッチして注文する方が好きだ。シューっと走ってくる新幹線やレーシングカーの形の直通お届けシステムが大好きなのだ。レールの始発点で乗せられていく寿司皿を遠く眺めながら、今か今かと待つのが楽しいらしい。
そして到着したお皿を取ったあと、OKボタンを押すのも。
おとなしい性格の風花は大人を驚かせるような悪さをしたことはなかったけれど、一度だけ、その回転寿司でひどい悪戯をして祥子に叱られたことがある。
「ふうちゃん、お寿司が悲しいね」
「かなしい?」
「そうよ。ふうちゃんがイタズラしなかったら、誰かにちゃんと食べてもらえて、美味しいって喜んでもらえたのよ」
風花はよくわからなかったようだったけれど、祥子のとても悲しそうな顔と珍しく厳しい口調が心に響いたんだろう。うん、と頷いて、ぐしゃぐしゃになってしまった寿司をじっと見ていた。
本当のことを言うと、僕はこの程度では悪戯がなくなるとは思っていなかった。
子どもの悪戯心は自分で抑えるのは難しい。
好奇心を抑えるにはそれより大きな理性が必要で、子どもの好奇心の大きさを上回る理性を育てるには時間がかかる。
たしかに風花はもう寿司には悪戯しなくなった。が、たまたまじゃないかな。たまたまぴたりとはまっただけで、いつもこうはいかないだろう。
けれども祥子は、きっと大丈夫よと言った。
「すごいな」
「そうよ。信じる力はね、すごいのよ」
「え?」
微妙にズレた返事を聞きながら、ああ、そうなのかと思った。
つまり、子どもを信じる力ということなのだろう。
このあたりのところは僕は祥子とは少しばかり考えが違うのだけれど、そのときは黙って聞いていた。だって、祥子のまったく疑わない様子が、僕にはなんだか神々しく見えたから。
こんなに真っ直ぐに信じられてしまったら、子どもも悪戯できないのだろうか。
絵本の読み聞かせをするのがいいらしい。
祥子はリビングのソファーで、よく絵本を読み聞かせていた。
せっかくのいい習慣は続けなくてはと僕も頑張ってみたが、どうも風花には不評だ。僕としてはかなり工夫しているのだけれど……。
「パパ、おはなしして」
寝る前の布団の中、読み聞かせの途中で風花が言った。
「お話? 絵本は読んでいるよ?」
「ちがうの。パパのおはなしがいいの。ええと、にゃぶちゃんのおはなし!」
「にゃぶちゃんの、お話?」
にゃぶちゃんというのは、僕の右手でつくる風花の友達。
いつだったかあまりに風花が泣き止まなくて困ったとき、偶然思いついて右手をぱくぱくさせながら適当に「にゃぶ」と言ったら、風花の大のお気に入りになってしまった。その、にゃぶちゃんのお話を聞きたいと言う。
困ったな。僕には絵本のような情操教育に良いストーリーなんて作れないし、きれいな言葉を選ぶなんていうのも無理だ。
風花は期待を込めた目をして、僕をじぃっと見ている。
まぁ、風花が楽しければいいか。たぶん、僕がどこにもない話をするのがいいのだろうから。気負うことはない。
「にゃぶちゃんの、どんなお話がいいんだ?」
「うーんとね、にゃぶちゃんと、ふーちゃんがいっしょにおでかけするの」
おでかけか。
おでかけと聞いて浮かぶのは、やっぱり。
「よしわかった。そのかわり、電気消すから、眠くなったら寝るんだぞ」
「うん」
明かりを落とした部屋の中、風花の隣に寝そべって話し始める。
「今日は、風花ちゃんとにゃぶちゃんのお出かけの日です。ふたりは回転寿司に行くことにしました」
きゃっと楽しげに笑う声がした。
「ふたりは、回転寿司が大好きです。とくににゃぶちゃんは寿司なら五十皿くらい簡単に食べてしまうのです」
今度は、すごーいと声が上がるが、かまわず続ける。会話してしまったらますます眠らないのだから。
「店に入ると店員さんが言いました。お客様、本日はお客様感謝デーとなっております。百皿食べた方には特別なプレゼントをご用意してあります。ふたりは挑戦してみることにしました。にゃぶちゃん頑張ってねと、風花ちゃんは言いました。にゃぶ! とにゃぶちゃんは食べる気満々です。特別なプレゼントがいったい何なのか、誰も知りませんでした。なぜなら百皿食べたひとは今までいなかったからです……」
ちょっと言葉が難しかったかなと思ったけれど、それもまたいいだろう。
風花は黙って聞いている。
「テーブルにつくと、にゃぶちゃんは最初に回ってきたイクラを食べました」
「ふーちゃんは?」
「風花ちゃんはパネルでサーモンとタマゴとマグロを注文しました」
どれも風花の好物で、隣から満足そうな気配がする。
「にゃぶちゃんは次に、アナゴを食べました。ハマチ、ウニ、サバ、カッパ巻、次々にお皿を取って食べていきます」
そうやって、どんどん食べていって終わりにしようかなと思っていた。
寿司ネタが尽きたころには、風花も眠るに違いない。
「……カニ、納豆巻、ホタテ、かんぴょう巻……」
部屋の光源はデジタル時計の緑の光だけだ。
暗闇の中、僕の声だけがする。
思いつくままにネタを言いながら、ふと祥子は今ごろどうしているかなと思った。
どんなに田舎でも携帯が使えないなど考えていなかったらしい祥子は、こんなにも家族と連絡が取れなくなるとは思わなかったようだった。
「ごめんなさい。社への連絡は借りられる電話があるんだけれど、私用の連絡をするのが難しいの。べつに咎める人はいないのよ。ただ……」
「無理しないで。いいんだよ」
半月ほど前に、祥子から連絡が来たことがあった。
僕からの連絡が届かなかった理由がわかってほっとしたけれど、いくらなんでも社の配慮が足りないのじゃないかとむっとした。そんなことを言うと祥子がかわいそうだから口にはしなかったけれど。
「もうちょっとしたら、どうにかなりそうだから」
携帯電話が普及しだしたのは僕らが十代のころだった。その少し前はポケベルなんてものも活躍していた。あれよという間にいまはスマホだ。
そういうものが生まれる前、僕らはどうやってひとと繋がっていたんだっけなぁと考えるけれど、ほとんど思い出せない。
向こうの様子はわからないけれど、やっと連絡してきたんだろう。祥子は慌ただしく風花と僕の心配をしながら、電話を切った。
風花は最初はとても寂しがっていたけれど、いまはあまり寂しそうな顔は見せない。一年後にはママが帰ってきてまた三人で暮らせること、パパがパパに戻ること。そういうことを理解したのかもしれない。
「……エビ、イカ、タコ、コハダ……」
でも、平気なはずはない。
僕自身がそうなのだから。
そして祥子も。
ああ、いけないな。僕は思ってる。失敗できないって。
この決断が、僕ら家族にとって最良であったと、絶対に思えるようにしなければって。
いや、周りにそう思ってもらえるように、という気持ちだって。
僕らの親たちは、お前たちの好きにすればいいと言った。
けれどもその周りの、親戚やらなにやらはいい顔をしなかった。
僕らは誰にも許可などもらう必要はないと思っていたから、親にさえただ報告として話しただけなのに、普段はなんのつながりもないような人たちがそれを聞きつけて、子どもに悪影響だの、男が家事など情けないだのと言ってきたのは、まったくの予想外だった。地域性や年代もあるのだろうけれど、根拠のない持論をさも立派な正論のように振り回されるのはうんざりする。
祥子はあっさりしたもので、はいはいそうですねと適当に右耳から入れて左耳から流していたけれど、僕はあの人たちを納得させてやりたいと思っている。いや、ぎゃふんと言わせてやりたいのだ。
「……ネギトロ巻、サラダ軍艦……」
そろそろネタが尽きてきたころ、闇に慣れてきた目で隣を見ると風花は眠っていた。丸い頬に口を尖らせている様子が、祥子の顔とわずかに重なった。
生まれたときは僕にそっくりで、周囲の人たちはなぐさめるように、父親似の娘は幸せになるとよく言っていたものだけれど、近ごろ少しずつ母親似になってきたような気がする。
寝顔は楽しげだ。
本当ににゃぶちゃんと回転寿司に行っている夢でもみているのかもしれない。
「にゃぶちゃんは、とうとう百皿を食べました。おめでとうございます。百皿達成されたお客様に、当店からプレゼントです。店員さんが持ってきたプレゼントは……」
数日後に、祥子から手紙が届いた。
社の封筒と便箋を使って書かれたものだった。
祥子の文字は学校の先生のように堂々としていて読みやすい。きっちり書き順を守っているんだろうなぁと思わせる漢字もきれいだ。久しぶりに見る文字に、胸が弾む。
風花も、それはそれは喜んだ。
僕は手紙を音読してやりながら、ここには文字があるだけだけれど、たしかに祥子がいると感じた。
「ふーちゃんも、てがみかく」
字の書けない風花が、さっそく画用紙に絵を描き始める。
ちょっと覗き込んでみると、妙な肌色の物体と女の子が、たくさんの板のようなものに囲まれていた。
「女の子は、風花?」
「うん。にゃぶちゃんとふーちゃんが、回転寿司行ったところ。ひゃくたべて、プレゼントもらったの」
「昨日のパパのお話だね。プレゼントは、何だった?」
「おすし、ひゃく券だよ」
「寿司を百?」
「そう。みんなで食べるの。ママとパパとふーちゃんと、にゃぶちゃん」
寿司を百皿食べたプレゼントが、寿司百皿か。ふふっと吐息が笑いになった。
「早く、ママが戻ってくるといいなぁ」
つい、何の気なしに言ってしまった。
余計なことを言ってしまったと思ったとき。
「ママは桜がさいたらかえってくるよ」
さらりと風花が言った。
「パパはふーちゃんといっしょに、がんばるんでしょ」
大人びた物言いに胸を突かれた。
「だって、ママはかえってくるんだもん。それまで、パパといっぱい遊べばいいんだもん」
風花は絵を描きながらそう言った。
クレヨンの動きは止まらない。
なんだ。
風花の方が、よほど強いじゃないか。
どうしてだろう。
『信じる力はね、すごいのよ』
祥子が聞いたらまたそんなことを言うだろうか。
そうなのかな。
僕には風花がどう思っているのか本当にわかっているわけではないけれど、いまの風花の様子は、心から母親を信じ父親を信じているように見える。
僕はもっと信じなくちゃならないんだろうか。
風花を。祥子を。自分を。
遠い昔にひとを繋いでいたものは信頼だったなんて言ったら、ロマンチストだと笑われそうだけれど、いつもそばに声を聞くだけが繋がりではない。
いないからこそ相手を想うし、信じてそれを力にする。
失敗とか成功とか、そんなものはもともとないものかもしれない。
悩んだり、迷ったり、辛くなることは、不幸じゃないし失敗じゃない。
それを乗り越えていくことが……乗り越えられることが、幸福の種子なのかもしれない。
幸せは形のないものだ。なら、幸せの形は僕ら家族の形をしていると心に決めていけばいい。それがどんな形であっても、僕らが懸命に挑んでお互いを信じて笑い合えるなら、それがきっと最高の形だ。
「パパ、ひゃくっていっぱいだよね」
風花が言った。
「うん? ああ、いっぱいだね」
「これ、ひゃくあるかな」
絵の中の皿を指さしている。
「そうだなぁ、数えてみようか」
ふたりで指さしながら、風花の描いた絵の中の皿を数える。
十七皿からは、僕ひとりで数えたけれど。
親はこうして子どもに教えられて成長していくものなのかもしれない。
僕の指に小さな指がついてくるのを眺めながら思った。
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