第7話 出会い

 幼稚園の迎えの時間、いつものようにママたちの列の最後尾にならんでいたら、トントンと肩をたたかれた。

 こんなことは初めてでびっくりして振り返ると、僕より少し若そうな男が立っている。愛嬌のある顔に笑みを湛えて、いかにも人好きのするタイプに見えた。

「こんにちは。小暮さんですよね。俺、近藤と言います。近藤明日香の父です」

 風花からはほとんど友達の名前が出てこないため、いまだに同じクラスの子どもでもよくわからない。親となればなおさらだ。彼は僕を知っているようだけれど、僕は彼をまったく知らない。失礼かなと思ったけれど正直に言った。

「こんにちは。すみません、まだ皆さんのお顔とお名前が合わなくて。お子さんたちのことも、よくわからないんです」

 いいんですよ、とさらに笑みを深くする。

 相手から先に挨拶をされたのも初めてなら、こんなにも好意的な顔で見られたのも初めてだ。それなのに、早く僕も馴染まなくてはと思っていたくせに、いざこうしてチャンスがきてみるとなかなか難しい。だいたい、何を話せばいいのかさっぱりわからない。井戸端会議の経験もない。社交性の乏しい男の典型だ。

 などと思っていると、彼は僕にはお構いなしに続けた。

「やっと会えました。ずっとお話したかったんですよ。あの、突然ですが、よかったらこれからうちに遊びに来ませんか? 風花ちゃんと一緒に」

「え……いや、ご迷惑ではないですか?」

 向こうから誘ってきたのだから迷惑も何もないはずだが、初めて尽くしのとどめにいい年をしてすっかり慌ててしまった。ずっと話したかった? いったい何をだろうか。同じ父親同士ということだろうか。

「今日はうちのが仕事で、俺が休みの日なんですよ。どうせまた明日香に遊びたい遊びたい言われるんで、風花ちゃんが来てくれたら助かります」

 言葉の意味がいまひとつわからなかったけれど、風花のことを考えたらいいお誘いなんじゃないだろうか。いや、でもそもそも風花は明日香ちゃんと仲がいいのだろうか。すぐに返事ができないでいると、向こうから女の子の大きな声がした。

「パパ~!」

 玄関のガラス戸の内側で手を振っている子がいる。ツインテールの見るからに元気そうな子で、その子に手を繋がれているのはなんと風花だった。

「明日香!」

 隣で彼が手を振り返している。

 あの子が明日香ちゃんか。風花の様子を見てみると、まんざらでもない顔をしてこちらを向いている。そのうち、明日香ちゃんに何かを言われて、風花が僕に向かって恥ずかしそうに小さく手を振った。

 僕は苦笑しながら、手を振り返す。

「仲良しになったみたいですね。ほら、この間ネコ作ったでしょう? そのときに風花ちゃんがすごく上手に作ってたって明日香が興奮していて。じゃあ、お友達になって作り方を教えてもらえって言ったんですよ」

 明るい声が楽しそうに話す。

 すごいなぁと思った。

 そうか、よその家ではこんなふうに子どもと話しているのか。

「そうですか。ありがとうございます。風花はなかなか園に馴染めなかったので、明日香ちゃんが声をかけてくれてうれしかったと思います」

 いえいえと、彼は照れた顔をした。

 感情がそのまま顔に出るのが見ていて楽しくなる。

「で、どうですか? 今日、ご予定あります?」

「いえ、大丈夫です。お世話になります」

 やったと、子どもみたいに喜んでくれた。こんな人もいるのだなぁ。

 風花が楽しめるのならば、僕だってママ友ならぬパパ友ができるチャンスなのだ。お邪魔しない手はない。

 近藤さんのお宅は幼稚園から歩いて数分のところにあるとわかった。うちの車に徒歩で登園している近藤さん親子に乗ってもらって向かうことにする。

 明日香ちゃんはとにかく活発で、おしゃべり好きな子だった。風花にずっと話しかけている。風花はとつりとつりと返事をしていたがそれが途中で遮られることも多く、大丈夫かなと少し心配したけれど本人は気にしていない様子で安心した。

 近藤さんのお宅もやはり一戸建てで建てた時期も同じころだとわかり、話はそのあたりから始まった。

 建築業者がどうだのモデルハウスはどこのを見ただのと話しながら、近藤さんは対面式のキッチンに入った。

「小暮さんのお宅はあの桜並木の近くだそうですね」

「ええ。風花が話していましたか?」

「明日香はあの通りのおしゃべり好きで。うちのも俺もけっこうしゃべるから似たんですね。風花ちゃんにあれこれ聞いては話してくれるもんで」

「そうですか」

 どうぞと出されたのはコーヒーだった。

 いい香りが緊張気味の気分を和らげてくれる。

「あの、それで、専業主夫ってどんな感じですか」

「……は?」

 質問は唐突だった。

 思わず向かいにいる彼の顔をまじまじと見てしまったけれど、ふざけて言っているようには見えない。

「いや、明日香から、小暮さんの家はママが仕事で遠くに行っていて、その間はパパがママの代わりだって聞いて……」

 ごくっとひとくちコーヒーを飲んでから、彼は居住まいを正す。

「実は俺、専業主夫になりたいんです」

 はぁ?!と言いそうになったのを、僕もコーヒーを飲んで押し戻した。

 そうか。

 そういうことか。僕と話したかったのは。

「ええと……。ご存じの通りうちの場合は期間限定ですし、仕事も休職させてもらっているだけです。今は確かに専業主夫という立場ですが、とても誰かにアドバイスできるようなものじゃありません」

「すみません。こうして話すのは初めてなのに、ずうずうしかったですね」

「いえ、そんなことは。……なにか、事情でもおありなんですか?」

 それでも、思い切って話してくれただろうことを、突っぱねて終わるような形になるのもかわいそうな気がしてたずねた。

「俺の方が、絶対向いてるんで」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、とっさに何も言えない。

「あいつは育児には向かないんですよ。だいたいこだわりが強すぎるんです。ティッシュひとつとってもデザインが気に入らないから買いなおすとか言うんですから」

 僕は初めて、ちらりとあたりを見まわした。

 スタイリッシュ、というのだろうか。たしかに、まるで生活感が感じられないほどに整えられた部屋。うちとは雲泥だ。

 その向こうの和室スペースで、明日香ちゃんが風花と遊んでいる。散乱したおもちゃが、ひどくちぐはぐに見えた。

「明日香を怒るのもそういう理由ばっかりですよ。子どもなんて、うんと遊ばせてやればいいのに。汚すなとか散らかすなとか。かわいそうですよ」

 ぶちぶちと言いながらコーヒーをすする。

 まるでアルコールでも飲んでいるようだ。

 僕には、初対面の人間にこんなふうに身内や自分のことを話すなんてとてもできない。これはきっと彼の美点だろう。言っていることは愚痴だけれど、嫌な気分にはならなかった。むしろ、胸襟を開いてくれているとすら感じる。

 けれど、奥さんのことを悪く言っていることに同意するわけにはいかないだろう。

「……部屋がきれいなのはいいと思いますよ。きっと明日香ちゃんも片づけが上手になる。僕は家事は嫌いではないですが、片づけはあまり得意じゃないんです」

 苦笑を浮かべながら言ってみる。

「そうですかね」

 ちっともそう思わないというふうに呟いて、彼はふうっと息をついた。

「俺はこの家を買ったとき、おしゃれな生活よりも温かい生活がしたいと思ったんですよ。なのに……」

 ずっと僕と話したかったと言っていた。

 こういう話を聞いてほしかったのだろう。

 ため込んでいたものを一気に吐き出すように話す彼の姿は、なぜだか僕には水中でもがいているように見えた。

 もう一度、今度はちゃんとぐるりと首を巡らせた。

「保つのは、大変ですよ。……かなり」

「は?」

「埃はすぐに溜まるんです。ひと晩たてばもう綿ゴミが出てくる。毎日毎日欠かさず掃除しなければ、こんなふうにきれいな家を保てない。よほど奥さんは頑張って掃除をされているんでしょうね。家事というのは、一日でも休めば大変なことになってしまいます。その上に仕事をされているのでしょう? 家族への愛情がなければ、とてもできないと思いますよ」

 他人の家庭をとやかく言うつもりはなかったが、専業主夫になりたいなどという男に出会ってしまっては黙っているのも違う気がした。

 この家庭がどういう道を選ぶかなんて、僕のかかわるところではない。

 けれど、もがいている彼をほうっておくことはできなかった。

「……専業主夫には、なりたくてなったわけじゃないんです。僕は仕事がとても好きでした。だから辞めるなんて考えられなかった。社長のご厚意で休職扱いにしていただけましたが」

 口がからからに乾いてきて、カップに口をつける。

 やっぱり、自分のことを話すのは苦手だ。

 近藤さんは僕の話の続きを待っている。

「妻も、仕事を大切にしていました。僕らはお互いに、そういうところでの繋がりから始まったんです。だから、付き合いだしてからも仕事を優先させ合うことになんの抵抗もなかった。結婚して、風花が生まれて。妻はずっと仕事から離れていたんですが、復帰の話が出て、最初の仕事が遠方での仕事だったんです。迷いましたけれど、今度は僕が妻の助けになる番じゃないかと思って。それで僕はやむなく専業主夫になりました」

 明日香ちゃんの声が途切れなく聞こえてくる。

 風花の声はまるで合いの手のように、隙間にちょこっと入る。

 ふたりの笑い声があがる。

「いえ、やむなくでしたけれど、いまは、良かったかもしれないと思っています。目の前にあっても見えていなかったことに気付けましたし、子どもからはたくさんのことを教えてもらっています。ただそれは、僕にとっては、期間限定の人生の研修期間みたいな……そんな感覚があるからこそだと思うんです。これをずっと続けるのだとしたら、いまの僕には無理だ」

 僕には、無理だ。

 今まで一度も口にしたことはなかった言葉を、ここで言っているのが不思議な気がした。

「なんで、無理だと思うんですか? その……俺には、小暮さんはすごく向いている気がします。風花ちゃんといるところをよく見ていましたけど、本当に子どもといい付き合いをしてるなって感じたし」

 真面目な顔だ。

 静かな口調が、彼の真剣な気持ちをあらわしているようだった。

「近藤さん、僕は家族はどんな形をしていてもいいと思うようになりました。でも、それは家族が幸せになるためのものでなくてはならないと思っています」

「……幸せ、ですか」

「そうです。そのためには、妥協点を探さなくてはならないこともあるでしょう。近藤さんの幸せと、奥さんの幸せと、明日香ちゃんの幸せを、一度ゆっくり話し合ったらいかがですか?」

 余計なお世話かもしれないなと思ったが、僕も胸襟というやつを開いてみたかったのだ。思ったことをありのままに口にすることが、彼が僕に寄せてくれているらしい近しい気持ちへのお返しのような気がした。

 彼は黙って、空になった二人分のカップを手にしてキッチンへ向かう。

 僕も黙って、そっと彼を見ていた。

 今度は甘い香りが漂ってくる。

「もうちょっとしたら、おやつ出しますね。あ、風花ちゃんはジュース大丈夫ですか?」

「はい。ありがとうございます」

「よかった。たまにいるんですよね。うちは水とお茶以外は飲ませませんっていうひと」

 どうぞ、ああ、小暮さん甘いの大丈夫ですか? ココアですけど。

 言いながらカップを置く。たしかに近藤さんは主夫に向いているだろう。

 可笑しいが、僕はこの数週間で向き不向きがわかるようになってきた。

 小さなことではあるのだけれど、周囲になんとなく意識を置き続けられる人というのは、主夫に向いている。たとえば、誰かと話をしていても離れて遊んでいる子どもが転びそうになったのをすぐわかったり、テーブルから何かが落ちそうなときにさっと手を出せたり。そういう人は主夫には向いている。たぶん近藤さんはそういうことのできるタイプのひとだ。

 向いている人が向いているものに心惹かれるのは、当然といえば当然なのかもしれない。

「……正直、俺、小暮さんにこんなこと言われるとは思わなかった」

 すみません、余計なお世話でしたね。そう言おうと口を開きかけたとき。

「うれしかったです」

 彼は穏やかな顔をしていた。

「まぁ、一緒に主夫しようぜなんて言われるとは思ってなかったけど、主夫はいいですよくらいのこと言って、お茶濁されると思ってたから」

 普段は甘いものはあまり飲んだり食べたりしないけれど、出されたココアはとても美味しかった。

「なんかいろいろ溜まってて。俺、ぶちまけたかったのかもなぁ。小暮さん優しそうだから、つい聞いてほしくなったのかも。こんなに一生懸命に聞いてくれるなんて思わなかったから、うれしいですよ。ほんとに」

 兄貴がいたらこんな感じかなぁなんて呟きながら、甘いココアを飲む。

「……主夫のこと、本気なんですか?」

 気が付いたら言っていて、つい口をついて出てしまったという感じだった。

 でも、うやむやにして適当に話を終わらせるのは申し訳なかった。彼は僕が話を終わらせようとすれば、そのままそれに乗るだろう。そうしてもう二度と、主夫うんぬんの話を僕にしてくることはないような気がした。

 うぅん、とひとつうなって、彼は少しばかり情けない顔になった。

「本気っちゃ本気ですけどね。うちのに言っても鼻で笑われますよ。それに、俺が仕事を辞めるなんて言ったら鬼みたいに怒ります。むちゃくちゃ怖いですよ。昔は可愛かったんだけどなぁ」

 近藤さんは笑いをもらしたが、僕は笑わなかった。

「ご家族にとって、一番良い形になるといいですね」

 なぜだかぽかんとした顔になってそのまま僕を見つめていた彼は、手で包んでいたカップに目を落として小さく言った。

「ほんとに……小暮さんって、サイコーだな」




 帰り道。

 風花はご機嫌だった。

「もらった」

 そう言って見せてくれたのは、よくわからない形にたたまれた紙だった。

「はなだよ」

 ピンクの色の折り紙が、そう見えなくもない。

「よかったな」

「うん!また、遊ぼうって言った」

「そうか」

「パパも、よかったね」

 おともだちができたね。

 ……お友達、か。

「そうだな。風花が連れてきてくれた友達かもな」

 風花は大事そうに、手の中の折り紙を見ている。

 フロントガラスを直撃する西日に目を細めながら、明日もいい天気になりそうだと思った。

 

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