第8話 プリンセスの挑戦
「パパ、ここしばって」
皿を洗っていたら下から声がして見ると、風花が僕に背を向けて立っている。
白いひらひらしたものが腰のところで揺れていた。
「……エプロン?」
手を拭いてしゃがむ。
祥子が使っていたエプロンを、引っ張り出してきたらしい。
お手伝いでもしたくなったのだろうか。
普通に身に着けたのではまったく丈が合わないから、いろいろなところで少しずつ輪ゴムでとめてどうにかエプロンらしく整えてやると、うれしそうに裾をつまんでクルクルと回り出した。
「風花?」
「プリンセスだよ!」
プリンセス?
うん。
祥子はシンプルなものが好きだ。だからエプロンもこざっぱりしたブルーのデニムのものを使っていた。
去年の母の日。
ママにプレゼントしたいと言い出した風花と一緒にこっそり買い物に行ったとき、母の日フェアの特設売り場の一角で風花が目を輝かせた。
「これ!」
真っ白いひらひらのレースが至る所についたエプロン。
思わず、これはママの好みじゃないよと言いそうになって飲み込んだ。
「どうしてこれがいいと思うんだ? 他にもいろいろあるよ?」
「あのね、ママ、おひめさまだよ」
「おひめさま?」
頭の中で、このエプロンを着けた祥子を思い浮かべてみる。
なるほど。お姫様、か。
「パパ、これ」
「そうだね。これにしようか」
思い浮かべた祥子に惚れ直してしまったなんて、墓まで持っていく僕の秘密だ。
そのエプロンをいま、風花が着込んでいる。
小さな小さな、ちょっぴり祥子に似てきた、プリンセス。
「パパ、ふーちゃん、プリンセスみたい?」
「ああ、ベルみたいだね」
ふふんとうれしそうな音を立てて、向こうに行ってしまった。
幼稚園ではいろいろな遊びがあるけれど、いまの女の子たちの流行はどうやらプリンセスごっこらしい。
園には簡単に着られるドレスやスカートが何着かあって、それを着て遊ぶ。
風花もすっかりプリンセスに魅了された一人だ。
たまに借りるDVDも、幼児向けのものから一変してプリンセス一色。おかげで一緒に観ている僕も、大抵のものならごっこ遊びに付き合えるようになった。
風花の一番のお気に入りは「美女と野獣」のベルなのだけれど、王子役をさせられる僕からするとなかなかハードルが高い。なにしろほぼ野獣なのだから。最初はガオーなんて吠えてみていたけれど、すぐに風花からクレームが来た。
「パパ、かいじゅうじゃなくて、やじゅうなの。ほんとうは王子さまなの。もっとカッコよくして」
でもね風花。僕には野獣と怪獣を演じ分ける演技力はないし、しかもそこに本当は愛を知らない王子なんていう要素を加えるなんてとても無理だよ。
「パパはカッコいいんだから、できるよ!」
よくわからない励ましを受けながら、とりあえずダンスのシーンは合格をもらった。
僕は無類の花音痴で、他のひとから見るとありえない失敗をたくさんしている。バラとカーネーションを間違えて祥子にプレゼントしたこともあるし、群生していたミヤコワスレを庭の草取りで全部抜いたこともある。その中で一番の失敗が、生花と造花を間違えたことだ。
ひとに話しても信じてもらえないことが多いが、本当の話なのが辛い。
結婚記念日に花を買おうと思い立ち、花屋に向かう途中、屋台のようなところで花を売っていた。どれもとてもきれいで、しかもびっくりするほど安い。これなら大きな花束ができると喜んで買って帰ると、渡された祥子はちょっと首を傾げてから言った。
「ありがとう。そうね。こういうのもたまにはいいわね。お手入れもいらないし。大事に飾るわ」
うれしそうな笑顔なのだけれど、何かが違う。と、思っていると。
「最近の造花は、とってもよくできているのね」
言われて初めて僕はこの花たちが造花だったと知った。
祥子はお腹をかかえて笑った後、仕事で疲れているのに花を買って帰ろうと思ってくれる気持ちが最高にうれしいと抱きついてきてくれたけれど、僕はさすがにショックだった。
造花は今でもリビングに飾られていて、その中の一輪のバラは風花のプリンセスごっこに一役買っている。野獣の魔法のバラだ。棘もなく枯れることもない造花のバラは、安心して風花の好きにさせられるから重宝している。
あのときの、ショックを受けていた僕に言ってあげたい。数年後にこの花は大活躍するから元気を出せって。
目が赤いばかりか、よほど擦ったのか目の周りから頬にかけても真っ赤にして、風花が幼稚園の玄関から出てきた。
「今日はドレスもスカートも使えなかったんです」
小声で先生が言う。
……なるほど。
「枚数が限られているので女の子たちの間で取り合いになってしまって。譲り合うように声をかけてはいますが、年少さんはできるようになるまで少し時間がかかるかもしれません」
「わかりました。大丈夫です。ありがとうございました」
風花は黙って僕のところに来て、そのまま帰宅するまで一言も話さなかった。
リビングに並ぶネコたちの前で膝を抱えたまま、しょげている小さな背中が痛ましい。
明日はまた幼稚園に行きたくないと言うだろうか。
せっかく見つけた楽しみなのに、それが悲しみになるなんて残酷だ。
心は傷つきながら強くなる。
そうかもしれないが、実際にこうしてその心を目の前にすると、大人の理論など飛んで行ってしまいそうになる。
なんと声をかけたらいいのか、わからなかった。
誰も悪くないのだと思う。ドレスを取った側も、もちろん取られた側も。
善悪のない壁にぶつかったとき、僕はいったいどうしていただろう。
「風花、おやつはホットケーキにしようか」
好物の一つを言ってみるが返事はない。
そうだな……。にゃぶちゃんを出してみるか。
「にゃぶ!」
僕は右手でにゃぶちゃんを作って、風花の後ろから背中をつんつんと突いた。
「にゃぶ」
今度は袖を引っ張る。
ねえ、ねえ、風花ちゃん。
元気がないよ。どうしたの?
「にゃぶ」
今度は髪をちょいちょいと引っ張った。
「……どうしたの? にゃぶちゃん」
やっと風花が顔を上げる。
「にゃぶ、にゃぶ」
「おなかすいたの?」
ううん。
「遊びたいの?」
ううん。
「にゃぶちゃん」
風花の手のひらが、そっとにゃぶちゃんを撫でる。
「あのね、ふーちゃん、いっつもドレスきれないの」
「にゃぶ?」
「ふーちゃんばっかり、ぜんぜんプリンセスになれないの」
ぜんぜん?
今日だけじゃ、なかったのか。
今日は……いっぱいになったものが、とうとうあふれてしまって泣いたのか。
どうしてだろう。
どうして風花だけがいつもドレスを着られないんだろう。
いわゆる強い子が、全部取っていってしまうんだろうか。
風花にも、そういう強さを教えるべきなんだろうか。
自分勝手になれとは言えないけれど、取られてばかりじゃ……。
でも……。
あれこれ逡巡していると、ふっと、小さな手がにゃぶちゃんを離れた。
まだ少し赤い目が、にゃぶちゃんを見る。
「ふーちゃんがドレスとるとね、とれないひとがなくの。ふーちゃん、おともだちがなくのいやなの」
はっとした。
「……風花」
思わず、にゃぶちゃんが消えた。
誰かを悲しませたくないから、我慢していたというのか。
こんなに小さな子どもが?
三才を過ぎたばかりの子どもが、何よりも好きなものを、ずっとずっと譲っていたのか……。
すごいなぁ。
風花、きみはすごいなぁ。
「パパ、いたいよ」
思わずぎゅっと抱きしめてしまった。
ごめんごめんと言って離そうとしたけれど、今度は風花がしがみついてきた。
「ふーちゃんのばん!」
そっと頭を撫でる。
しばらく、そうして撫でていた。
風花は離れない。
「偉いな、風花。自分さえよければいいって思わないで、そうやって他の人のことを思えるなんて、本当に偉い。パパはうれしいよ」
丸い顔が僕を向く。
「でもね、風花。思い切って、自分の気持ちを言うのも大事だと思うよ」
澄んだ目が、じっと僕を見つめながら黙って聞いている。
「自分さえよければいいというのもいけないことだと思うけれど、自分さえ我慢すればいいというのも、パパはいけないと思うんだ。だってね、風花は今日、とっても悲しくなっただろう? 風花が悲しいとパパも悲しい」
「……どうやって、いったら、いいの?」
とつとつと小さい声がした。
「そうだな。じゃあ、パパと作戦をたてようか」
「さくせん?」
「そう、ドレスを着よう大作戦だ」
「うん!」
やっと少し目に輝きが戻ってきた。
それから長いこと、夕飯もそっちのけで僕らは作戦を立てた。
こんなに頭を使うのは久しぶりだった。
翌日、お迎えのときに先生が興奮気味に礼を言ってきた。
余計なことではなかったか少し心配だったのたけれど、先生はそんなことはありませんときっぱり言ってくれた。
幼稚園から出てきた風花は、まるで戦いを終えた勇者のように堂々と、そして凛として見えた。
作戦は大成功だったらしい。
『みんなでドレスをきようだいさくせん』
幼稚園では一人ずつ、名前代わりの模様がついたシールを持っている。
早いもの順に、ドレスの種類ごとの一覧表にそのシールを付けてもらう。
幼稚園にある大きな砂時計は五分で落ちるから、それが全部落ちたら交代。
どのドレスやスカートを、何度選んでもいいけれど、順番と時間だけは守る。
パソコンで表を作ったのは僕だけれど、風花のアイディアも満載だ。
本当は先生への説明は僕がしようかと思っていた。けれど、風花は自分ですると言い出した。
「ひとりで大丈夫か?」
そうたずねた僕に、
「うん」
と、ひとこと、キラキラした目で答えた。
その目が、一瞬祥子と重なった。
強い光を瞳に宿した女の子は、僕には本当のプリンセスに見えた。
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