第9話 攻防のパスタ

 出席を決めたのは僕にとって大きな挑戦だった。

 クラスの親睦会。

 子どもが幼稚園に行っている昼の間に、ランチをしながら親同士が交流をする。

 来るのは母親ばかりだろうし、彼女たちの普段の様子を見ていれば僕は歓迎されないだろうなと思った。理由は、なんとなくわかるような、わからないような。はっきりと何か言われたわけではないし噂も耳には入らない。けれどもそのなんとなくというのが一番怖い。

 でも、いつまでもこのままじゃあ勿体ないなんて思うようにもなってきていた。

 それはひとえに風花のおかげだ。

 毎朝あれほど嫌がっていた登園を、ずいぶんとスムーズにできるようになった。明日香ちゃんといういい友人をつくることができた。ドレスの一件にも勇敢に立ち向かった。

 風花の成長を目にしながら、僕自身がいつまでも変わらないわけにはいかないじゃないか。せっかく祥子からもらった貴重な一年だ。逃げるようなことはしたくない。

「パパ、がんばってね」

 僕の緊張が伝わってしまったのか、当日の朝、幼稚園に向かう車の中で風花が言った。子どもに心配されるとは、我ながら情けない。

「ありがとう。頑張ってくるよ」

 情けないと思うと同時に、風花に励まされる日が来るとはなぁと、胸がほんのり温かくなった。




 会場の、カフェ「ぽぷら」は家から歩いて十五分ほどのところにある。

 まだ行ったことはなかったが、パスタが美味しいと聞いたことがあった。

 お便りでは十一時に集合とあったから、風花を幼稚園に送り届けてからざっくり家事をすませて支度をはじめる。

 服装に気を使うなどどれくらいぶりだろう。もしかすると、祥子とのデート以来かもしれない。僕はオシャレには無頓着で本さえ読めればいいような若者だったから、衣類はほとんど結婚してから祥子が揃えてくれたようなものだ。

「祐輔は細身だし背も高いから、あんまり縦を強調しないほうがいいと思うのよね」

 なんて言ってどこかのスタイリストのように服を選んでくれたのを思い出しながら、当時一番好評だった服を着てみる。

 近藤さんと親しくなってから、近藤さんの奥さんを通して幼稚園の様々な情報が聞けるようになった。近藤さんが僕のことをどういうふうに奥さんに話したのかはわからないが、おしゃべり好きだと聞いていた奥さんは、お宅にお邪魔した翌日から、とても好意的に僕に話しかけてくれるようになった。

 近藤さんご夫婦は共働きだけれど、上手い具合に帰宅時間がずれているので交互に幼稚園に迎えに来る。

 ふたりとも雰囲気がとても似ていて、僕はいつも、おしどり夫婦だなぁなんて思っている。問題があっても、このふたりならきっと解決できるだろう。

「よかったですよ。小暮さんみたいな人がダンナの友達になってくれて。今までは、なぁんかチャラいひとばっかりだったから。あんなんですけど、よろしくお願いします」

 そんなことを言いながら、いつも明るくハキハキした口調で話をする。

「親睦会ありますよね。小暮さん、参加します?」

「はい、ちょっと挑戦してみようかと思いまして」

「すっご~い。小暮さんてけっこうやりますね。わたし絶対にパス。ま、その日は仕事なんですけどね。ダンナは休みだけど、迷ってるみたい」

 声をひそめて口早に言う。

「やっぱり、いろいろありますか?」

「いろいろどころか、ドロドロ」

 嫌なものを思い出したような顔をしながら、ちょいちょいと僕を突いて、周囲にわからないようにどこかを指さす。

「あれ、要注意人物」

 指の先をたどると、そこには亜麻色の長い髪をくるりと胸のあたりで巻いて、どこかで見たことのあるようなブランドのマークの付いたTシャツを着た女性が、数人のひとに囲まれて笑っていた。

「辻川さん。あの人に睨まれると大変だから、気を付けて」

 辻川佐和子という名は、保護者会からのお便りの発行人としてよく知っていたけれど、顔を見るのは初めてだった。保護者会会長を務める彼女は一番下の子が年少組で真ん中の子が年長組。一番上の子は一昨年小学校にあがったらしい。この幼稚園では一番の古株だと聞いていた。

 ひとは見た目だけではわからないけれど、たしかに、僕や祥子とは違った場所で生きているひとのような気がする。

「う~ん、やっぱりダンナ、出させます。小暮さんだけじゃ心配」

「いや、ご主人にもご都合があるでしょうし……」

「ないない。どうせ時間持て余してるんだから。あのひと、変なとこで真面目っていうか。どっか遊びにでも行けばいいのに」

 ねぇ、と僕に語尾を振って来るので、思わず苦笑した。

「あとで連絡させますから」

 奥さんはそう言ってくれ、夜に近藤さんから電話が来た。

 そうして、僕は、初めての親睦会に向かっている。

 早く行くのも張り切ってるみたいだからジャストにしましょう、という近藤さんの言葉に従って十一時ちょうどに店の前で待ち合わせることになっていた。

「わ、カッコイイじゃないですか。へぇ、いつもと感じ違いますね」

 僕の緊張を和らげようとしてくれているのか、近藤さんはそう言って笑った。

 そして。

「さ、行きますか。いざオンナどもの戦場へ」

 冗談ですよと言いながらドアを開けるが、ちっとも冗談に聞こえない。




「では、皆さん揃いましたので始めましょうか」

 辻川さんが口を開いた。

 幹事はたしか別にいたはずだけれどと見渡すと、一番入り口に近いところに、さっきまで会費を集めていた女性がふたり小さくなって座っている。

 なんというか。

 もっと和気あいあいというか、ざわざわとおしゃべりや笑い声がする集まりだと思っていたのだけれど、どうやら少し違うようだ。

 真ん中の席に座っている辻川さんに、参加者の意識が集中しているのがよくわかる。

 まるで社長を中心に会議でもしているみたいだ。

 近藤さんは僕の隣に座ってくれた。

 事前に人数分の「今日のおススメ」で頼んであると連絡が来ていたとおり、さっとサラダとスープが運ばれ、パスタが出される。

 自由にオーダーするんじゃないんだなと妙な気分でパスタを見ていたら、不意に

名前を呼ばれた。

「小暮さんからです」

 自己紹介だそうですよ。

 近藤さんが教えてくれる。

 どうやら会は進行していたらしい。

 それにしても、何を言えばいいんだろう。

 ちらりと見まわすけれど、誰とも目は合わなかった。

 仕方なく子どもと自分の名を名乗ることにする。

「……小暮風花の父の、小暮祐輔です。よろしくお願いいたします」

 僕に倣ったのか僕の回答で正解だったのか、他のひとたちも順番に子どもの名前と自分の名前を名乗ってゆき、自己紹介タイムは終わった。

「こころちゃん、絵が上手ですよね」

 ぽつりぽつりと声が聞こえる中、食事が始まると同時に誰かの声がした。途端にぽつりぽつりが止んで、本当にとかずっと思ってたんですよとか皆が言い出す。

「そんなことないですよ。教室の先生には全然褒められないですもの」

「すごい、教室行ってるんですか? 英会話もされてましたよね」

「ええ、まぁ」

「ピアノも弾けるんでしょう? ほんとすごいわぁ」

 そんな会話が一部で繰り広げられ、なるほど辻川こころちゃんというのが子どもの名前なのかと思ったが、あいにくさっぱり顔が浮かばない。

 こころちゃんを褒めると言うよりも辻川さんを持ち上げている集団は、全体の半数くらいで、僕らを含めた残りの半数は黙って食事を続けている。

 つまらないランチだ。

「小暮さん、これ、うまいですね」

 ついそんな気持ちが顔に出ていたのかもしれない。

 近藤さんが小さく話しかけてくれた。

 見るとフォークにパスタが巻き付いている。

「……そうですね。パスタが有名なだけありますね」

 にこりと笑んで僕もフォークを回す。

 せっかく来たのだから、食事だけでも楽しまなくては。

 そのときだった。

「小さな子供を残して、よく母親が単身赴任なんかできますよねぇ。わたしだったら心配でとてもできないわ」

 顔を上げると、明らかに僕を意識して辻川さんのフループが話をしていた。

 視線を感じて隣を見れば、近藤さんの表情から気にしないでと声がする。

 大丈夫ですよという気持ちを込めて頷くと。

「本当にお子さんがかわいそう」

 カチン、ときたわけでもなかったが、その一言が僕の中の蓋を開けたのはたしかだった。

 黙って流すのが嫌になる。

 沈黙はいつだって肯定だ。

「そのお母さんは、よほどご主人を信頼しているんでしょうね。僕のところも妻が単身赴任中ですが、僕のことを信じて任せてくれたのだと思っています。そうでなければ、とても小さな子供を残して行けませんから。その信頼にこたえなくてはと思いますよ。まだまだ家事は下手ですけれどね」

 穏やかな口調で言いながら、微笑んでみる。

 一瞬、しんと静まり返った。

 辻川さんは少しだけこちらを見た。きつい目をしている。

 このひとは、いったい僕の何が気に入らないのだろう。

 今日までまったく接点がなかったというのに。

「親には役割というものがあるじゃないですか。母親には母親にしかできない役割があるでしょう? どうしたって子どもは寂しい思いをするわ。わたしはそういうことを言いたいんです」

 関係のない他人の家のことを話題にすること自体、僕には理解できないけれど、こういう場ではよくあることなのかもしれない。異を唱える者もいなければ止めようとする者すらいない。ただ隣から近藤さんがハラハラと僕を見ているのを感じて、言葉に詰まる。

 言い合いになってしまえば親睦会は台無しだ。

 もうすでに、最初から雰囲気はよくないけれど。

「だから、あんな表なんか作ってくるんだわ」

 辻川さんは続ける。

 ……あんな、表?

「うちの子は好きなドレスが着られなくなって、泣いていたんですよ」

 ドレス……。ああ、あれか。

 風花と一緒にやった「ドレスを着よう大作戦」だ。

「だいたい幼稚園のことに親が出しゃばるなんて、どうかと思います」

 うちの事情と、幼稚園での問題にかかわったこと。

 全然違う事柄がすっかりひとつになっている。

 ひとつひとつ、話せばわかり合えそうなことだ。

 けれどもそのひとつひとつが、絡み合うことで藁がわれるように手ごわい行き違いになる。そして、すでにそういうものになっていそうな気がした。

 心が、ひどく悲しくいだ。

 ざっと見まわす。

 たった三年の付き合いだ。

 卒園すれば、こうして一緒に食事をすることなどおそらくないだろう。

 いや、僕自身でいえば今年限りの付き合いか。

 倉島製作所のデモンストレーションに出会っていなければ今の僕はない。祥子に出会っていなければ今の家族はない。

 ひとは偶然のような出会いで人生をつくっていく。

 ならば、この三年間の出会いは、遠い先に新たななにかを生み出す、大切な土台となることだってあるのではないか。

 このまま終わりたくない。そう思った。

「……それは、すみませんでした。でも、ドレスは全員が順番に着られると思います。先生もそう言われていましたし、そのように風花と一緒に作りました」

 言いながら、たぶん、そういうことじゃないのだろうと思った。

 彼女は何にこだわっているんだろう。

「え? 風花ちゃんと作ったんですか?」

 向かいにいたひとが口を開いた。

「はい。もともと風花がドレスを着られないと泣いたのがきっかけで。自分が取ると他の子が取れなくて悲しむのが嫌だというので、ドレスを着よう大作戦って名前を付けて、一緒に考えたんですよ」

 自分でも驚くほど静かな声が出た。

「風花ちゃんは優しいなぁ。きっと小暮さんに似たんですよ」

 さらりと隣で近藤さんが言った。

 ぱくっとパスタを巻いたフォークを口に入れて、ん、んまい!と呟く。

 張りつめていた空気がばらりと散った。

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