第10話 迷子のサラダ

 近藤さんの一言で、場の空気が変わった。

 ツンツンした短い髪がウンウンと頷きながらパスタを咀嚼している。

 ふっと笑いがこみ上げた。

 ちらっと僕を見た近藤さんの目も笑う。

「ほんと、美味しいですよねぇ。わたしも評判聞いていたから、ずっと来たかったんです」

 他のひとも口を開く。

「辻川さんが予約してくれたんですよ」

 取り巻きの一人が言った。

「そうなんですか。僕もこの店は気になっていて。辻川さんのおかげですね」

 言葉はするりと出てきた。

 微笑みを向けると彼女はさっと視線を伏せたが、僕は自分の中にわだかまりがないのを確認してほっとしていた。

 それはそれ、これはこれ、ごちゃまぜにしちゃいけないよ。

 僕の口癖のひとつらしい。

 この間、風花が突然、僕の真似をしながら言い出すまではちっとも気付かなかったのだけれど。

 人差し指を一本立てて、ひょこんひょこんと動かしながら言う。

 いつもそんなふうにしているのかと、なぜか恥ずかしくなった。

 僕はシンプルな思考が好きだ。

 日本の行儀作法が二つの動作を同時に行うことを嫌うように、物事はひとつずつ立て分けて考える方がしっくりくる。

 辻川さんが僕のことをどう思っていようとも、それと彼女の人格とは別物だと思うのも、僕にとっては自然なことだ。

「奥さんって新聞記者さんなんですよね。うちの子が風花ちゃんから聞いたって言ってました」

 近くのひとが言い出して、周囲のひとたちが一斉にこちらを向いた。

「はい、そうです」

「新聞記者も単身赴任とかあるんですね」

「そうみたいですね。僕も今回で初めて知りました。妻は取材で限界集落に行っているんです」

「もしかしてアレじゃないですか?『風に浚われた村』」

「あ、それわたしも読んでますよ。いいですよね。写真もきれいだし」

「そうそう。文章もなんていうか、あったかいっていうか。他の記事とはカラーが違って読みやすいですよね」

「ありがとうございます。そう言っていただくと妻も喜びます」

 祥子の取材が始まってしばらくしてから連載がスタートした「風に浚われた村」は、集落の日常を綴った地味と言えば地味なコーナーだったけれど、祥子の独特の視点がとても活きていて、穏やかな中にも現代の社会問題への意識を様々な角度から喚起していると好評なようだった。

 こうして実際に好んで読んでくれているひとたちを前にすると、感慨深いものがある。それに、まさかこういう場で話題に上るとは思ってもいなかった。

「もし、わたしがそういう仕事をしていたとして、単身赴任しなきゃいけなくなったら、旦那は仕事があるから義母や義父に任せなきゃいけないけど、とっても無理だなぁ」

「わかる。うちは考えただけでゾッとする。一年後にはとんでもない息子になっていそうな気がするもん」

「甘いよねぇ」

「そうそう。甘い! なんでも買おうとするんだから」

 話題は少しずつずれて、義父や義母との教育方針の違いで盛り上がっている。

 ときどきあははと笑いながら語られるとんでもない話はぐちぐちとした暗さはなく、むしろ面白いエピソードに聞こえて、母たちの逞しさを感じた。

「小暮さんって、どんなお仕事されていたんですか?」

 向こうから声がした。

 辻川さんの取り巻きのひとりだ。

「倉島製作所でネジを切っていましたよ」

「ああ、倉島製作所!」

「職人さんだったんだぁ」

「え、どうして職人になろうと思ったんですか?」

 向かいからたずねられる。

「大学生のとき、倉島製作所のデモンストレーションを見たんです。それに感動して、押しかけてしまいました」

「押しかけちゃったんですか?」

「はい。求人もしていなかったのに、雇ってくださいって」

 すごいですねぇと、周囲がざわつく。

「大学は、どちらだったんです?」

 辻川さんの声だった。

 答えたときの反応がなんとなくわかって、口ごもる。

 自分の努力は誇りに思っているけれど、就職して以来、大学のことでは少しばかりうんざりさせられている。

「……T大です」

 案の定、えぇ~っと声が上がり、さっき以上のざわつきが生まれた。

 たずねた張本人の辻川さんの顔は髪に隠れて見えない。

「俺は調理師専門学校卒業ですよ」

 近藤さんの明るい声が、ざわつきを割った。

「キャラ弁とか得意なんで、今度の遠足の弁当に困ったら、いつでも聞いてください」

 えぇ~っと、再び声が上がる。

 僕も近藤さんの意外な才能に驚いた。

 これでも、レストランでコックしてるんですよ。シェフじゃないですけどね。

 僕にだけ聞こえるように言いながら、にっと笑う。

 そういえば、近藤さんと仕事の話をしたことがなかったことに気付いた。

 男は初対面の人間に出会ったとき、仕事を聞くところから入ることが多いような気がする。僕もきっとこれまではそうだったのだろうけれど、主夫になってからはまったく違うところからひととかかわり始めるようになったのが、とても不思議で面白い。ひとは立場によって、相手への関心の持ち方も変わってくるということだろうか。

「あ、わたし、実はピアノの先生で~す」

「わたしは習字、教えてま~す」

 これまで園内でも有名だった、金に近い茶髪とずいぶんにぎやかな服装をしているふたり組に、マジで!? と即座に誰かがツッコミのように言うものだから、わっと楽し気な笑い声が一瞬にしてあふれた。




「お先にどうぞ」

 サラダがお代わり自由だというので、それぞれテーブルから離れてサラダバーにいる。

 ミニトマトを取ろうとしたところで辻川さんと鉢合わせた。

「どうも」

 彼女は言って二つ皿に乗せると、トングの柄を僕の方に向けて置いた。

 心遣いのできるひとだなと思う。

「あの……」

 トングを手にしたとき、まだそこにいた辻川さんが僕を呼んだ。

「はい?」

「主夫してて……楽しいですか?」

「え?」

 予想もしていなかったことを聞かれて、思わず問い返してしまう。

「わたしはちっとも楽しくないです」

 ころりとトングからトマトが転がった。

 なんと答えていいのかわからない。

「うちの幼稚園は時間帯がああだから、ほとんどが専業主婦のひとだけれど、田代さんや松山さんたちみたいに、自営で仕事をしている人もいます」

「……はい」

「わたしは独身時代、インテリアコーディネーターをしていました。主人と結婚するときに、義母たちに仕事を辞めろと言われて……」

 きゅっと結んだ唇が、続く言葉を飲んだように見えた。

 苦いものを口にした後のように、かすかに顔が歪む。

 あらためて見た現実に嫌気がさしているのか、それとも僕などに言うつもりのなかったことを言ってしまって後悔しているのか。

 ちらっと辻川さんの視線が動いた。

 そちらを見ると、ほぼ皆がテーブルに戻っている。

 数人が心配そうにこちらを向いていた。

 雰囲気の悪かったふたりがいつまでもこうして話しているのを、喧嘩になっているのではないかと思ったようだ。

 辻川さんというひとは、もしかしたらとても繊細なひとなのではないだろうか。

 他人の動向や思惑に敏感で、そのひとと語り合う前にひとりで傷ついてしまうような。だから自分を守るために他人に過剰な攻撃をする。

 すっと目の前から歩き出したところへ声をかけた。

「インテリアコーディネーターなら、フリーでも働けますね。……これからですね」

 僕に背を向けたままの体が何度か息をついたのがわかった。

「そんなに、甘くないですよ」

 やがて、小さな声が返ってきた。

 けれどもそれは、少しだけ笑みを含んで聞こえて。

 僕は取り損ねたミニトマトをもう一度トングに挟みながら、迷子になるのは子どもだけじゃないななんて思った。

 

 

 

 

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