第11話 公園の少年
園から帰る途中に公園がある。
かなりの大きさで、駐車場もついている立派な公園。遊具も多いし、広い
親睦会をきっかけに会話するようになった数人のママたちに誘われて、その公園に寄り道したのがきっかけだった。
これまでは一度家に帰ってから近所の公園に遊びに行っていたのだけれど、その日を境に、風花は帰宅途中に公園に寄るのを楽しみにするようになったのだ。
風花の遊びにはルーティンみたいなものがあって、近所の公園の場合はそれが終われば満足して家に帰るのだけれど、ここの公園ではルーティンが発動しない。面積が広すぎるせいかもしれない。
いつも家に着くのは五時ごろ。
たんぽぽ組の降園時間が一時半。かれこれ三時間ほど遊んでから帰る毎日。
これが意外に体力を使う。
「風花ちゃんパパ、すごいですね」
毎日なんて絶対に無理と話すひとたちに、僕だってそうですよと苦笑する。
最初に誘ってくれたママたちは子どもとルールを作っていて、週に二回だけ遊んでいいことにしているらしい。
「風花ちゃんパパ優しすぎますよ。子どもなんて際限ないんですから」
そろそろ日差しも強い。
夏へのカウントダウンはとうに始まっていて、風花について歩くだけでも汗がにじむ。時間的に日陰にならないベンチをうらめしく眺めながら、たまに木陰に立って見守りながら休憩。
風花の遊びは面白い。
遊具を使うよりも、地面に絵を描いたり、石を拾っては集めたり、草を摘んで飾ってみたり。ようやく満足して帰るころには、公園の片隅にちょっとしたオブジェが出来上がる。それは遊びというよりも芸術家の創作活動を見ているようだ。
翌日に来るときにはもう壊されていて跡形もないけれど、風花自身は作り終えられればいいらしく、壊れていてもなくなっていても気にしない。
ただ、滅多にないが、どこからともなく来た子どもに、一生懸命作っている最中の「作品」を壊されてしまうことがある。
さすがに風花は泣き出すし、居合わせた他の親などは怒り出したりするのだけれど、僕は我慢するようにしている。
「風花。嫌なら、ただ泣いていないでやめてって言うんだよ」
それだけ言ってあとは目だけは離さないで、よほど危険な場合でなければ口も手も出さない。
ママたちにはよく驚かれたり呆れられたりしているけれど、僕は他の子に比べて少しばかり繊細な風花に、他人に自分の気持ちを伝えることを学んでほしいと思っていた。
これからだんだんと、親がそばにいられない時間が増えていく。
自分のことを伝えられなければ大変な思いをするのは風花だ。
そんなことを考えている僕自身も、幼いころは自分の気持ちを伝えるのがとても苦手だった。嫌なことをされてやめろと言うのはもちろん、大勢の意見の中でひとり違う意見を言うなど到底できなかった。そうして自分のやりたいことがいつもできなくて俯く子どもだった。
そんな僕が変わるきっかけをくれたひとがいる。
そして、そのひとはいまでも僕の心に居続けている。苦い思い出とともに。
僕が子どものころ住んでいた田舎には近所にこんなに整備された公園はなく、ゴンゲンサマと呼ばれている神社の境内が遊び場だった。
だだっ広いだけの、遊具らしい遊具もないところで、土埃で真っ黒になりながら日が暮れるまで遊ぶ。
その中に、
僕が祐輔、彼が隆介。遠くから呼ばれるとどっちだか聞き分けられないときがあり、よくふたり一緒に返事をしているうちにいつの間にか一番仲の良い友達になった。子ども同士の友情は、どこで深まるかわからないものだ。
彼の家はとても裕福だった。
ご両親がどんな仕事をしていたのかはわからなかったが、まだ金銭感覚があまりついていない年代だった僕らでも、彼の家がよその家とはまるでちがうことはわかった。
「祐輔、今日うちに花、見に来いよ」
「わかった」
僕らの合言葉。
隆介が僕だけを誘いたいときに言う。逆に僕が誘いたいときは、花を見に行っていいかと聞くのだ。
狭い田舎の街の中、誰かだけ特別は難しい。すぐにズルいと言われてしまう。
そこで頭のいい隆介が考えた合言葉だった。
田舎の子どもで、そこらじゅうに当たり前に咲いている花にわざわざ興味を持つものなどいない。いるとすれば本の虫の僕くらいだろうと隆介は考えたらしく、実際、合言葉を怪しむものは誰もいなかった。
もちろん僕らも花などそっちのけだったけれど、あのとき本当に花を教えてもらっていたら、いまの花音痴は少しはマシになっていたかもしれない。隆介の家には大きな庭があって、職人が手入れをし、いつでも花が咲き誇っていたのだから。
ある日。
隆介が学校を休んだ。
先生は理由を言っていなかったけれど、僕はどうしてだか良くないことが起こったに違いないと思った。
僕は超常現象を鼻で笑ってしまうような人間だけれども、あのときの感覚だけはテレパシーなんかの特殊な力だったのではないかといまでも思っている。
同じように気にしていた友達数人と、放課後に隆介の家に行った。
玄関には鍵が掛かっていて、家の脇にまわって覗き込んだ窓からは、カーテンの隙間からいつもと変わらない様子が見えたけれど、僕は漠然と、隆介たちはいなくなったのだと思った。
「留守だなぁ。医者でも行ったんかなぁ」
友達たちは言って、僕らはその場で解散した。
けれども、僕はわかった。
きっと二度と隆介たちは戻って来ない。良くないことが起こったせいで。
翌日も、その次も。隆介は学校に来なかった。
急な引っ越しをしたと、担任の先生から聞いたのはそれからすぐのことだ。
「ヨニゲってやつらしいぜ」
しばらくして、誰かが言い出した。
「ヨニゲ」が「夜逃げ」で、それがどういうことなのかわかっている友達はいなかったから、たぶんどこかの大人が言っているのを聞いて面白そうだとネタにしたのだろう。僕は黙って聞いていた。やっぱり良くないことは起こったのだ。
「トーサンしたんだってさ」
「父さん?」
「バカ、倒産だよ」
「父さんが、倒産した!」
ぎゃははと笑い声があがる。
僕はぎりっと奥歯を噛んでその場を去った。
詳しく理解していたわけじゃなかったけれど、さよならも言わずに消えるように引っ越しするなんて、ただごとじゃないのはわかる。
大事な友達に起こった不幸を笑うなんて、すごく腹が立った。
腹が立ったけれど、僕にはその子たちに抗議するような勇気はなかった。
もんもんとしたまま夏休みが来て、僕はゴンゲンサマでひとりで過ごすことが多くなっていた。友達はみんな学校のプールに通っていたけれど、僕はその輪の中に入ることができなかった。隆介を忘れて笑えないと思っていた。
ゴンゲンサマには木が多く、日差しを遮る葉がこんもりと茂っている。
ときおり通り抜ける風も、それにつれてざわざわと身をゆする木々の音も、すべてが心地いい。
そんなものに身を預けていると、ほんの少しだけ気が紛れた。
「祐輔」
声がしたのは幻聴だと思った。
「祐輔、俺……」
あお向けに寝そべっていたベンチから飛び起きると、そこにいたのは紛れもなく隆介だった。
「お前……どうしたんだよ」
「うん」
「引っ越しって、どこ行ったんだ?」
「……うん」
何を聞いても、隆介はうんとしか言わない。
言えなかったのかもしれない。
「……ちゃんとサヨナラしてなかっただろ。祐輔だけには、言っときたかったからさ」
「なんだよ。手紙とか、書くから……。そしたらまた会えるだろ」
隆介はじっと僕を見ていたけれど、やがて首を横に振った。
「できないんだ。……ごめん。祐輔、サヨナ……」
「やだよ!」
気付いたら言っていた。さよならなんて、言わせたくなかったし言いたくない。
「なんでか教えろよ。なんでもう会えないんだよ」
言えないようなことなのだろうと僕にもわかっていた。それでも言わずにいられないほど、僕には隆介が特別な友達だったのだ。
「あれ、隆介だ」
ゴンゲンサマの入り口で声がしたのはそのときだった。
「隆介がいるぞ!」
「おまえ、ヨニゲなんだろ。こんなとこにいていいのかよ」
「父さんがトーサンなんだろ」
またそれ言うのかよ、なんて言い合いながら、みんなが笑う。
目の前の隆介の顔がみるみる色を失って、強張っていく。
僕は言葉を喉に詰まらせたまま動くこともできずに、ただ隆介を見ていた。
視線は合わない。
「……サヨナラ」
小さな小さな声だった。
たぶん聞こえたのは僕だけだ。
がやがやと隆介をからかう声に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
隆介はなにも悪くない。
そう、言いたかったのに。それなのに何も言えなかった。
すっと目の前の白いTシャツが翻った。
そのまま隆介は走り出す。
背中は、一度も振り返らなかった。
「パパー!」
呼び声で我に返った。
遠い遠い記憶の中へ意識が飛んでいたようだ。
風花を完全に放っておいてしまったことに慌てる。
声の方を見ると風花の隣に男の子がひとりいた。風花よりもずいぶんと大きい。小学生だろうか。
「どうした?」
そちらへ歩き出しながら様子を見る。
風花の前にはいつもよりも豪勢な「作品」がある。
「こんにちは」
男の子に声をかけると、コンニチハとぎこちない挨拶が返ってきた。
真っ黒に日焼けした元気そうな男の子。胸で裏返っている名札はビニール製の縦長のもので、どうやら近くの小学校のもののようだ。
「パパ、いっしょにつくった」
「一緒に?」
男の子を向くと、彼が気まずげに言う。
「オレ、壊したんで……いっしょに直したんです。……ごめんなさい」
真顔で頭を下げる姿は、本当に申し訳ないと思っているのがよくわかった。
「風花には謝ったの?」
「はい」
「じゃあもういいよ。僕に謝ることなんかない。よく一緒に直してくれたね」
いや、その。
もごもごと口ごもっていたけれど。
「オレが壊したら、やめろって泣きながら向かってきて。だから……」
思わず笑ってしまったが、彼は難しい顔のまま突っ立っていた。
「そうか。びっくりした?」
こくりと、風呂上がりのように汗をかいた頭が頷く。
風花の顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていた。
内心、本当に驚いた。
まさかあの風花が、僕が言ったことを実行するなんて。
まだまだ時間がかかるだろうと思っていたのに。
突然逞しくなった我が娘に、胸がじんと熱くなる。
「パパ、ここがふーちゃんで、ここがおにーちゃんがつくった」
作品の説明を複雑な表情で聞く少年。
ぐしゃぐしゃの顔のまま、風花は目をきらきらさせている。
「風花、よかったな」
「うん!」
「きみも、ありがとう」
まさか礼を言われるなんて思わなかったんだろう。彼は一瞬とても驚いた顔をしたけれど、すぐに恥ずかしそうに微笑んだ。
「そうだ、お茶でも飲もう」
「ふーちゃん、のむ! おにーちゃんも!」
近くのベンチへ風花が少年を引っ張った。
「はい、どうぞ」
ありがとうございますと、彼は水筒の蓋に入れた麦茶に手を伸ばす。
と、そのときになってやっと、僕は彼の腕に無数のひっかかき傷のようなものがあるのに気付いた。よく見ると顔にもいくつか傷がある。新しい傷のようだ。汗がしみたのか、麦茶を飲みながらイテッと小さく呟いた。
「傷だらけだね。勇ましいな。喧嘩でもした?」
風花の顔を拭いてやり、麦茶を渡しながら、軽い口調で聞いてみる。
小学生の男の子だ。活発な子なら少しくらいの傷はおかしくはないと思うけれど、これはちょっと多すぎる気がした。
「……オレ……あの……」
俯き加減の顔は完全には僕から見えない。
強張った頬。ぐっとへの字に曲がった口。短く刈った頭から汗が幾筋も流れる。
はっとした。
僕の体の真ん中が、貫かれたように。
彼は、ゴンゲンサマの大事な友達に、重なって見えた。
ずっとずっと心の中に居続けた彼に。
「オレんち、親がリコンして……」
『……ちゃんとサヨナラしてなかっただろ』
「そしたら、友達がクソみたいなことばっか言いやがって……だから……」
『……祐輔だけには、言っときたかったからさ』
「この子が作ったのも、むしゃくしゃして壊して……ごめんなさい」
『ごめんな』
言葉が喉に詰まる。
あのときみたいだ。
少年はじっと動かない。
言わなくては。
僕はお前のおかげで、変わろうって思えたんだ。そうして、少しづつだけれど、きちんと自分の気持ちや考えを口にできる人間になってこられたんだ。
だから……今度は。
「きみは、何も悪くないよ」
白いTシャツが揺れる。
「きみはなにも悪くない。親がどうでも、きみはきみだろ。友達だって、言いたいやつには言わせておけ。いまはわからなくても、きみのことを心から思う友達が絶対にいるから。きみは胸を張っていいんだよ」
顔を上げた少年が微笑んだ。
その顔は、隆介だった。
「ありがとう。おじさん」
……ありがとう。
風花とふたり、走り去る白いTシャツを見送りながら、僕は不思議な光景を幻に見ていた。
自分の心の中で絡まり続けていた古びた糸が、色鮮やかな真新しい糸と結び合い、解放され、初夏の風に乗ってずっとずっと向こうまでするすると流れていく。
僕は、たしかに風花の成長のために手を伸ばすのだけれど、その伸ばした手は僕自身を引き上げるための手になっていることがよくある。
風花に向き合うことは、僕自身に向き合うことだと感じることがある。
そうして向き合っていくうちに、それまで解くことができずにいたものを、するりとほどくことができたりする。
親になるということは、なんて人生を深めてくれるのだろう。
子どもというのは、親を育てるために生まれてくれるのではないだろうか。
「風花、どうもありがとう」
小さな頭を撫でる。
きょとんとした顔で僕を見上げてきた風花だったけれど、すぐにうれしそうに笑った。
遠く、公園の出口で、少年が振り向くのが見えた。
気付いて手を振る風花に、少年も手を振り返す。
あの日。振り返らなかった白いTシャツは、今日、元気に手を振っている。
僕は思い切り大きく手を振った。
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