第12話 笑顔のお皿
風花が野菜を食べない。
正確に言うと、食べなくなった。
これまでも食べられない野菜はそれなりにあったけれど、野菜という野菜を口にしようとしないなんてことはなかった。
「年少さんだと、まだむら食いが見られるお子さんもいるんですよ」
「むら食い、ですか?」
「はい。食べる日と食べない日に差が出るんです。自我が芽生えて意志を持つようになると出てくるので、だいたい一歳を過ぎるとむら食いが出てくることが多いですね」
「そうなんですか……」
「風花ちゃんのように、野菜を急に食べなくなったという子もいますよ。成長とともにまた食べられるようになりますから大丈夫です」
迎えのときに最近お家ではどうですかと聞かれ、登園しぶりはだんだん少なくなってきた代わりに、今度は野菜を食べなくなってしまって……と話すと、先生はにこやかな表情を崩すことなくさらりと言った。
ありがとうございますと答えながらも、不安は晴れない。
風花との毎日の食事。
祥子と離れて暮らすと決まったとき。僕が一番不安なところはそこだった。
あまり身構えないで。大丈夫だから。
祥子はそう言ってくれて、それはきっとちゃんと確信があってのことなのだろうけれど、いざこうして冗談かと思うほど食べなくなってしまった風花を目の前にすると、頭を抱えたい気持ちでいっぱいになる。
食は命を支えるものじゃないか。
それがしっかり取れなければ、どんどん成長していくこの時期、弊害がないなんてどうして言い切れるだろう。
ひとつ越えれば、また新たに考えなくてはならないことが現れる。
つくづく育児というのは「わかった」ということがない。
どうですか、たまにはランチでも。
まるでママ同士がしているように近藤さんから連絡が来て、このあいだ親睦会のあったカフェぽぷらで待ち合わせることになった。
昼飯行くぞ、が、ランチどうですか、になってみると、同じ行為なのにまるで違ったものに感じる。そんなことを意識したことすらなかったけれど面白いものだ。
どうも、と向こうから来る近藤さんの姿を見たとき、ふと、そういえば彼はコックだったと思い出す。プロならもしかしたら、なにか幼児食についてアドバイスがもらえるかもしれない。
「むら食い、ですか? 風花ちゃんが?」
オーダーがすんで、さっそく話してみると、近藤さんは言いながら不思議そうな顔をした。
「急にさっぱり野菜を食べなくなってしまって」
「へぇ、そんなふうに見えなかったけどなぁ」
近藤さんはミントの葉の浮いたレモン水をひとくち飲むと、ふうっと息をついた。
「子どもって、食べ方見てると日頃の食事がどんなふうか、なんとなくわかるんですけど、風花ちゃんは全然野菜を食べないような感じには見えないですよ。一過性のものじゃないのかなぁ」
「幼稚園の先生は、成長とともに食べられるようになるって言われてましたけど、やっぱり心配で」
なるほど。と、近藤さんは何か考えはじめたようだった。
最近思うことがある。
家事がうまくできることと、子どもがちゃんと育つことは別のことなのだ。
そんなの当たり前じゃないかと言われそうだけれど、僕は実際に主夫になってみるまで、家事をしっかりやっていれば子どももそれに付随するように育っていくものだという感覚があった。
生活のなかでの躾も、ちゃんと食事を作り、ちゃんとお風呂に入れ、掃除をして洗濯をして環境を清潔に保つ……そういうものの過程で、自然にできるのではないかと思っていた。
けれど、現実は全然違う。
知らないということは恥ずかしいことだ。
もっともっと祥子に労りの言葉をかけていればよかったと、いまになって思う。
万事、そんなにうまくいかないのだ。
ただでさえ
主婦というのは、母親というのは、この世で最強の奉仕者じゃないだろうか。
やってもやっても終わりのない仕事を、毎日毎日やり続けることができるなんて、その精神力はもはや驚異だ。
そしてその努力さえも、大半は感謝されることもなく当たり前で済まされる。
いま、風花が野菜を食べられなくなってしまって、僕は食事のたびに憂鬱でしかたがない。正直言うともう作るのが辛くなってきている。
風花が離乳食のころを、僕はよく覚えていない。
ただ祥子が、今日は人参を食べられただの、ジャガイモを食べられただのと喜んで話していたのを、ぼんやりと覚えているだけだ。いまの僕なら、一緒に小躍りしたかもしれない。ミルクしか口にできなかった風花が、初めて食べ物を口にすることの大きさを、僕はいまになってようやくわかってきた。そしてそのための懸命な努力も。
オーダーした料理がテーブルに運ばれてきたころ、近藤さんが言った。
「風花ちゃんって、もやし、食べれます?」
「もやし?」
「はい。量は関係ないんです。食べれます?」
「……ほんの少しだったら、前に食べたことがあります」
「なら、大丈夫ですよ」
「……?」
「野菜が全然食べられなくても、もやし食べられるっていう子はわりといるんですよ。もやし自体は味がないでしょ。焼きそばなんかでたまたま食べられちゃって、それからOKになったり」
「はい……」
「もやしが大丈夫な子は、そのうち他の野菜も食べられるようになるんですよ。野菜がダメな子ってたぶん食感がダメって子が多いんじゃないかな。もやしって調理の仕方で食感がいろいろ変わるでしょ。いろんな食感をもやしで体験していくと、たいていの野菜の食感は体験できるわけで、そのへんから他の野菜も大丈夫になるんじゃないかって思うんです」
まぁ、これは俺の数少ない経験に基づく持論なんで、一般的に言えるかどうかはわかりませんけどね。
「なるほど……」
「明日香は風花ちゃんよりすごかったですよ」
「え?」
「ああ見えて、食わず嫌いの女王だったんですよ」
「本当ですか? 意外ですね」
「でしょ? うちのなんかキレちゃって、そんなに嫌なら食べなくていいって片づけちゃって。明日香はお腹空いたって泣くし。ちょっとした修羅場でしたよ」
近藤さんは苦笑しながら、器用にパスタを巻き取った。
「食べられるようになったきっかけは、もやしだったんですか?」
「そう。それがですね」
くすっと笑いがこぼれた。
「明日香はものすごい麵好きで、ちゅるちゅるって言って麺ばっかり食べたがって。あるとき、うちのがもやしを「ちゅるちゅるだよ~」ってあげたんですよ。俺はオイオイって思って見てたんですけど、明日香はちゅるちゅるだぁってそのまま食べちゃって。結局、それからもやしは食べられるようになったんです。もうマジかよって大声上げそうになりましたよ」
「それはすごいな」
「でね、味を占めたうちのやつが、野菜を切るときは全部細長く切って「ちゅるちゅるだよ」って食べさせるようになって。それがまた食べるんですよ。明日香は。子どもってすげぇなって思いました。いろんな意味で」
我慢しきれなくなったように、近藤さんはぶふっと笑った。
「案外、風花ちゃんもそんなものかもしれませんよ」
「……はい」
ほら、眉間にシワ寄ってますよ。
近藤さんが笑顔のまま言った。
「一番大事なのは、食べられるかどうかよりも、食べたいと思うかどうかだって、そのときうちのやつが言ったんですよね。明日香の場合は「ちゅるちゅる」の力だったわけですけど」
風花ちゃんは、小暮さんが笑顔で美味そうに食べてれば、きっとなんでも食べてみたくなりますよ。
「笑顔……ですか」
「そ、笑顔です」
たしかにそうかもしれない。
僕の気持ちは風花にそのまま伝わってしまうだろう。
風花のことを思うなら僕はもっと悠々と構えて、笑って一緒にご飯を食べてあげるべきだった。
風花が食べようと食べまいと、食べることは楽しいと感じてくれるように。
僕も、いつか風花が食べられることを待ちながら、楽しんで料理すればいい。
あのころの祥子みたいに。
「あれ? いま、人参ひとつ食べたか? 風花」
夕食のとき。
豚汁に入れた人参を風花が一切れ口に入れたのに気付いて、僕は思わず声を上げてしまった。
「うん。いっこだけだよ」
「すごいなぁ、風花!」
胸の奥からぶわっとこみ上げてくるものがある。たった一切れの人参が風花の体に入っただけで、こんなにうれしいものなのか。
「いつも、いっこだけ、食べてるもん」
「え?」
風花はぷぅっと頬を膨らませて唇を尖らせる。
「パパ、わかんなかったの?」
ちっとも気付かなかった。
食事のときは、残った野菜ばかりが目に入って、一切れ口に入った人参になんてちっとも気付かなかった。
「……そうか。頑張ってたんだな」
「パパはもっとニコニコしてほめて」
重い一言だった。
風花の言うとおりだ。
どうして僕はあんなに焦っていたんだろう。
風花はちゃんと成長しているのに。風花なりの努力をしているのに。
その小さな一歩を見つけて喜ぶのが、育児じゃないか。
「そうだな。ごめん。風花は本当に偉いな」
じっと僕を見ていた風花は満足そうな笑みを浮かべて、再び箸と格闘しはじめる。頬についた米粒が可愛らしくて、思わず微笑んだ。
きっとうまくいくから楽しいのではない。
うまくいかないことを乗り越えるなかに楽しみがあるのだと思う。
地味できつくて報酬のない主夫という仕事。
けれどもその仕事の中に、無上の喜びを感じられること自体が幸福だ。
だから祥子はいつも笑っていたのだろうか。
僕も、笑おう。
一日一日の風花の歩みを見逃さずに、それを思い切り喜んで。
親の笑顔は、子どもには最高の栄養になるのだから。
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