空色エプロンたまご焼き

新樫 樹

第1話 ぼくらのはじまり

 油と摩擦で熱せられた鉄くずが手に飛んだ。

 また小さな火傷ができそうだ。

 拭っても拭っても汗が流れてくる。

 モノづくりに興味があるんです、なんて言って入社してきた若いヤツはとことん使えないヤツで、しわ寄せは一番下っ端の僕にぜんぶ来た。

 利口か馬鹿かは学歴じゃないんだよ。

 いつだったか、先輩の誰かに言われた言葉を思い出す。

 入社したてのころは何かにつけて学歴のことを言われ、僕は躍起になってやれる努力はなんでもやった。絶対に認めさせてやる。そう思った。

 ここでは能書きは通用しない。ただ良い製品を作る、それだけがすべてだ。

 紙の上での計算がどんなにできても、実際にモノができなければそこにはなんの意味もない。

 そのシンプルな世界が、僕にはたまらなく居心地がいい。

 一流大学を出たのに、なんでまた町工場の職人なんて……。そう言う人間が山ほどいてうんざりしたけれど、両親は就職を心から喜んでくれた。

「大学ごときで人間としての器まで決まると思うな。広い社会に出れば頭に殻のついたヒヨッコだ。いい気になるんじゃないぞ。死ぬほど勉強して、少しでも自分だけの武器を身につけろ」

 快挙と言ってもいいほどの有名大学を合格した息子に、最初に言った親父の言葉がそれだった。

 長年、生き馬の目を抜くようなビジネスの世界で生きてきた親父には、大学合格に浮かれている息子が心配だったのだろう。

 実際、そのときの僕は懸命に目指したものを果たした途端、次にどこを目指せばいいのかわからなくなっていた。とりあえず、ちょっと遊ぼうか。そんな甘えた考えを見透かされたのだと思う。

 たまたま帰省したときにやっていたイベントで、地元の工場の職人たちがデモンストレーションをやっているのを見た。

 何の気なしに眺めて、僕はいきなり殴られたような衝撃を受けた。

 汗まみれ油まみれになりながら、彼らは小さな部品を作って見せている。鉄を削る音、叩く音、火花……。黒ずんだ逞しい手の中で姿を変えていく鉄の塊。

 世界を支えてるのは、パソコンのキーボードをたたいている人間じゃない。

 そのパソコンを作っている人間のほうじゃないのか。

 たとえやすやすと宇宙へ行ける時代が来たとしても、ネジ一本欠けたってロケットは飛ばないのだ。

 白くひょろりとした自分の手のひらを広げた。

 こんな僕の手からも、あんなふうにモノを生み出すことができるのだろうか。

 開けたことのない扉を開けたような気持ちだった。それでいて懐かしいようなやっと見つけたぴたりとはまるピースのような。

 帰り際に土産代わりに配られた小さなネジ。それは見たことのない形をしていて、思わず配っていた人にたずねると、客と相談しながらオーダーメイドでネジを作っているからこんな変わり種もあるんだよ、と微笑んだ。

 その瞬間に、僕は自分の中で何かがすとんと落ちたのがわかった。

 卒業後すぐに地元に戻り、あのイベントでネジを作っていた会社をたずねた。

 倉島製作所。

 小さいが良い会社だと、親父は言った。

 親父が何と言おうと関係ないと思いながらも、社会人として尊敬している人からの言葉は背中を押してくれるのに十分だった。

「変なのが乗り込んできたなぁと思ったけど、追い返そうとは思わなかったよ。小暮くんみたいな一生懸命な若い子は、すごくおもしろい」

 求人もしていない会社に、履歴書とネジを握ってやってきて、僕もこういうものを作りたいんです雇ってくださいなんて、子供みたいなことを必死に訴える若者を思い出して、社長はたまに飲み会で僕に言っては笑う。

 僕が変わり種の職人として業界紙に小さく載ったあと、何人か大卒入社をしてきた人がいたけれど、申し合わせたように半分は数か月で辞めていった。

 今残っている人も、工場ではなく事務や営業の担当をしている。

 この年入ってきた人はやけに工場での作業に熱心だったから期待したのだけれど、頭でっかちなきらいがあって、なかなか戦力にならなかった。

 汗染みのついた作業着のまま、総務やら経理やらの入っている事務室に連れ出されたのは、いつものように回ってきた尻拭いを必死にしている最中だった。

 朝から休憩も取らずにネジを切り続けていたのに、そんな状況を知っているはずの先輩がのんきな様子で僕の肩を叩いてきてカッとする。

「山崎さん、なんなんですか。納品間に合わないですよ」

 先輩は刺のある僕の声など気にも留めず、灼熱地獄のような工場からの束の間の解放を味わうようにのんびりと、文明の利器はすげぇなぁなんてエアコンの冷気に顔を緩ませている。突然、ちょっと来いと言ったきり、内容も告げられないままの僕はイライラをつのらせていた。

 僕にはふわふわしすぎるソファーに座らされて、入社以来はじめて、事務所できちんと茶卓に乗った高そうな茶を出されても、納品数の半分にも満たないネジのことで頭はいっぱいだ。

「お忙しいところ申し訳ありません」

 そのときだった。

 場にそぐわぬ涼やかな声が耳に飛び込んできて、僕は思わず顔を上げた。

 姿は見えなかったけれど、その若い女性の声は、耳にするだけで背筋の伸びるような凛とした響きと、もっと聞きたくなるような明るい楽しげな声色を持っていた。

「じゃ、頑張れよ。残りは俺が切っとくから、心配すんな」

 ばんっと僕の背中をひとつ叩き、酒が入ったときに見せる意味ありげな笑みをニヤッと浮かべ、山崎さんはパーテーションの向こうに消えた。

 まぁ狭いですがゆっくりしていってください。って、俺がそれを言っちゃぁ社長に怒られるかな。ははは。危なくないとこなら、どこでも小暮に案内させてかまいませんので。

 すぐに、すりガラスの向こうで先輩の声がした。僕のと同じ色の作業着の前に立つ紺色のすらりとしたシルエットが身体を傾ける。

「ありがとうございます」

 なんだろう。

 不思議な感覚だった。

 昔、倉島製作所のネジ切りのデモンストレーションを見たときの、ぴたりとはまるピースの感覚。それとよく似たものが、この女性の声からやってくる。

 心地よく満たされる。

 くるりと踵を返し、僕のいるパーテーションの中へと進んでくる紺色のシルエット。

 イライラはすっかり消え去っていた。

 状況はまったくわからなかったけれど、あの声の持ち主に会えるのだと思ったら、わけのわからない幸福感が広がった。

「はじめまして。山本祥子と申します」

 彼女は、地元では知らない者のいない地方紙の名を告げ、そこの社会部の記者だと名乗りながら名刺をくれた。

 とても優しそうなひとだというのが第一印象だったけれど、瞳に強く澄んだ光があるのを見たとき、僕はまた漠然と、ああ、この人だと思った。




「声を先に好きになられたって……複雑な気分よね」

 初めて出会ったときのことに話が及ぶと、祥子は唇を尖らせた。

 よくわからないけれど、一目惚れ、という方がいいらしい。

「声も、だろ。姿を見る前に声が聞こえたんだからしかたない」

 声だけで惚れさせるなんて、その方がずっとすごいと思うのだけれど。

「わたしはあなたに会うのに、スーツ新調したのに」

「汚い作業着の男でガッカリされなくてよかったよ」

「あら、噂通りのカッコイイ職人さんだったわよ」

「きみだって、素敵な記者さんだった」

 ふふっと笑って、祥子はマグカップに口を付ける。

「有名な大学を出て、ネジ切りの職人になった人がいるって聞いたときは、ただ面白そうって思っただけだったの。なにかいい記事になるんじゃないかっていう予感はあったけれど、取材対象を異性として意識したことなんか一度もなかったのに」

 会う前の下調べしているうちにどんどん好きになっちゃった……こんなこときっと最初で最後よ。

「そんなの、何度もあってたまるか」

 僕も笑って、濃いコーヒーを飲み干す。

 休日の昼下がり。

 結婚して五年。

 授かった女の子は今年三歳になる。

 風花という。

 この子が生まれたとき、病室から見えた桜が美しかった。

 風と楽しそうに戯れるその姿がとても幸せそうで、僕らはこの子に風花と名付けた。

 祥子と付き合い始めたとき。結婚したとき。そして風花が生まれた瞬間。

 ひとつひとつだんだんと人生に大切なものが増え、それが自分自身よりも大事だと思っている自分に気付いて、僕はやっと一人前になれたような気がした。

 初めてひとりでネジを切ったときのような誇らしさと、ずっしりした責任を感じた。

 赤ん坊も生まれてしまえば、ひとりのひとだ。

 祥子も夫婦と言う括りに収まってはいても、ひとりのひとだ。

 見知らぬ者同士が目に見えない強い縁で結ばれて、お互いの人生を左右し合うなんて不思議だ。そうして、家族はきっと最初から家族ではなくて、少しずつ家族になっていくんだろう。そういう山坂を、これからたくさん越えていくことになるんだろう。

 小さな小さな命と、それを抱く愛する人。

 大部屋の病室の狭く仕切られたカーテンの中、僕には壮大な冒険の旅へ出ようとしているチームのように思えた。

 話があるの。ある日彼女が言った。

「本格的に仕事に復帰しないかって言われているの」

「……え?」

「どう、思う?」

 どうもこうも、それは不可能だろう。

 言おうとして言葉を飲み込んだ。

 真っ先に浮かんだのは、もうすぐ幼稚園に入る風花のこと。

 次に経済的なこと。

 僕らの街ではマンションやアパートで暮らすよりも、一戸建てでの生活の方が暮らしやすい。ふたりの努力が実って、二年前、ようやく今の家を手に入れることができた。ローンはボーナス払いは入れずに、月々の返済だけで組んだ。だから生活は楽ではないが、今のところは不安なくやってこれた。

 リビングからは桜並木が見える。

 ここに家を建てた理由のひとつでもある。

 今年はずいぶんと早く満開を迎えた桜たちを、絵画のように窓がうつしていた。

 薄桃色の花びらが、夢のように舞い踊る。風の形に。今日の風は強い。

 鳥を自由だという人がいる。

 けれど、鳥もまた気流に縛られ本能に縛られて生きている。

 花びらも風の形にしか踊れない。

 ひとが不自由だと言ったのは誰だろう。

 僕らを縛るものは、なんだろう。

「本格的にってことは、風花が生まれる前みたいなスタイルってこと?」

「そう。でも……最初の仕事は、ちょっと違うの」

「違う?」

「……あのね。限界集落って知ってる?」

「ああ」

「それを、一年かけて取材しないかっていう話が出ているの」

「一年? つまり、一年間、限界集落にいて取材をするってこと?」

「そう」

「……そうか」

 僕は黙った。

 まずは黙らないと、余計なことを言ってしまいそうだった。言わなくてもいいことを。

 少し考えさせてくれとやっと言い、僕ら家族の山坂というやつが、早くも訪れているのを感じていた。




 風花が生まれて、祥子は育児休暇を取った。

 一年で職場に復帰する予定だったけれど、風花が保育園に入ることができず、休職という形でもう一年。

 僕の両親はまだ現役で忙しく働いているし、彼女の実家は県外だ。育児の手伝いは期待できない。もっとも祥子は手伝ってもらう気は最初からなかったようだったが。

 待機児童がどうのという議論に、僕は加わるつもりはなかったけれど、能力のある女性が働けないのはもったいないなぁと、風花の世話と家事に追われる祥子を見て思っていた。

 男女は平等に社会で活躍できるように法律上はなっているけれど、現実の問題はなにも解決していないような気がする。女性というのは、男には絶対にできない人生の仕事をいくつも抱えているのだから、そもそも男と同じ労働条件では不平等だろう。

 祥子は悔しくないのだろうか。

 などと思っているこの僕も、どれほど家事や育児に協力的かといえば、苦笑いして後ろ頭を掻くしかない。

 気持ちはあっても、できないことが多いのもまた事実だ。

 なんだか矛盾だらけだな。

 小さくてぷわぷわした風花を背中に括り付け、キッチンに立つ祥子はとても素敵だけれど、初めて出会ったときのあの輝きとは違う。

 いいとか悪いとかじゃなく、いまの祥子は祥子らしく生きているのだろうかとぼんやり思う。

 こういうのも、男の身勝手な考えなんだろうな。

 キッチンに立つ祥子を見ながら、僕はのんきに新聞なんか読んでいたのだから。

 当たり前な顔をして。

 ふと目を落とした手のひらには、どうしても落ちない油が黒く残っている。

 僕はそもそもは文系で、こんな仕事は向いていない。

 頭の構造が文系だから、図面から数字を読むのは苦手だ。

 痛いのも苦手だから、熱い鉄くずが飛ぶのが怖くてしかたなかった。

 情けなくて誰にも言えなかったけれど。

 けれどそれでも、ネジを切る仕事に魅せられた。

 そうして、いつの間にか節くれだってきた手にはいくつもの小さな火傷が残り、

消えない油の黒ずみができた。

 もうあの、白いひょろりとした手はどこにもない。

 仕事が人生を変えることもある。

 それは僕が一番知っている。

「いまさらなのかもしれないな」

 ぽつりと知らぬ間につぶやきが落ちていた。

 一年間の、冒険に出てみるのも悪くないかもしれない。 



 

「行っておいでよ。限界集落」

「……え?」

 開口一番、僕が言った言葉に祥子が目を見開いた。

「思い切って社長に話してみた」

「……」

「風花のためにも半端なことはするなって言われた。僕もそう思った。社長は待っていてくれると言ってくれたよ。あの山崎先輩も、一年くらいどうにかしてやるって。金銭的なことも計算してみたけれど、そっちもなんとかなる。僕が休職する」

「本当に……いいの?」

 祥子が本気で聞いているのはわかっている。

 もしも僕が、やっぱり駄目だと言ったなら、彼女はきっと別の方法を模索し始めるに違いない。これまでも散々やってきたことだろうに。

 あの夏の日。

 祥子が地方紙の記者として僕を取材に来た日。

 倉島製作所の応接スペースで向かい合ったあの日に、祥子は僕のこの仕事への情熱を共有してくれる同志になってくれて、恋人になってくれたのはそのあとだった。

 彼女は最初から知っている。

 僕が心底、鉄くずや油にまみれながら小さなネジを切ることが好きなことを。

 仕事に対して感じてきた、誇り高い喜びを。

 そして、僕もまた、祥子の仕事への真摯な熱い思いを知っている。

 そういう意味でも僕らは完全な同志なのだ。

 いま、彼女は僕の助けを必要としている。

 幸運なことに、僕にはそれを実行できる環境がある。

 鳥も花もひとも。

 縛られるもののない生き物などいない。

 結婚もまた、ふたりの人間の人生を縛り合うものだ。

 ならばせめて、その責任と覚悟は同等でいたい。

 妻や母という立場でもって、彼女だけが僕や風花に縛られることがあるならば、僕にとって自分のこれまでの人生を否定するような気がした。

 僕はすでに最初の、ひとりでの冒険は終えている。

 今度は家族で冒険をするだけのことだ。

「……ありがとう」

 祥子は泣いてなどいなかったけれど、こちらの胸にしみこんでくるような声が泣いているように聞こえた。


 もうすぐ彼女は、風花の入園が無事終わったら、一年間、限界集落の取材に行く。

 そして僕は一年間、専業主夫になる。

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