神様スイッチボックス
私たちは喫茶店から20分ほど歩いたところで、なんとも言えない感覚に陥った。
一瞬だけ。そう、一瞬だけ目の前が暗闇に包まれ、自ら踏み出した歩に躓きそうになったのだ。
瞬きをしたのではないか? そうかもしれないし、しかしそうかと言われれば少し違う気もする。例えるとするなら意識を切り取られたような感覚だ。よく分からないか? ならばこう言うとしっくりくるのではないか......
時間が、止まっていたのだ。
「あれ? 今、なんだかおかしな感覚になりませんでした?」
隣で前のめりになりそうになった桑方歴木を、私は同感の意を灯した目で見ている。
「はい。妙な違和感がありましたね......。片足に思いっきり体重がかかる、みたいな」
私がそう言うと、桑方歴木は足の怪我を危惧する言葉をかけてくる。冗談だろうが、私はプロレスラーではないので足の心配はいらないとだけ言っておいた。
上には顔をこちらに向けた背の高い外灯が、その光に集る蛾を鬱陶しそうにしながら私たちを覗いていた。すると一匹の勇敢な蛾が熱を持った光に突撃し、あっけなく墜落していった。そんなことは日常茶飯事で誰も気に止めやしないが、私はつい、外灯と蛾の殺し合いが毎夜行われていることに世の中物騒だなとか考えてしまう。
「そうだ『恩人』。この近くに美味い牛乳を飲ませるところがあるんですよ。行きましょう」
おちょこをクイッと傾けるような仕草をする桑方歴木は、なんだか大人のふりをした少年のように見えておかしく思えた。せっかくなので、無邪気な少年のお誘いに1つ乗ってみることにしよう。
ここからさほど離れていない場所にそれはあった。商品のラインナップはすべて瓶詰め牛乳だけであり、なかなか良い値段である。そしてデフォルメされた牛のパッケージ。どこかで見覚えのあるそれは、私に罪の記憶を蘇らせた。許してくれ。いったい、誰に言うつもりだろう。
運転手か? 金品を押収したサラリーマンか? それとも老婦人か? もしくはあの少年か、その母親か......
私なき今バスはどうなっているのだろう。覚えているのは強い揺れのあと額に衝撃を感じたかと思えば駅のホーム下にあぐらをかいていたことだけだ。心配ではあるが、確認は現地に戻るか、新聞を読めば良いだろう。必ずあとで現地へ行こう、そう思った。
「ちなみに、僕の家は目の前にあるアパートの3階なんです」
桑方歴木が正面にある3階建てのアパートを指差した。さあ、遠慮なく入ってくださいと言われたが、遠慮しがちにエントランスに侵入する。あまり新しいとは言えない階段を昇っていくと黒いシックな扉が待ち構えていた。木製の表札には『桑方』とあり、『桑方歴木』本人の住処であることをまざまざと見せつけてくる。
そのすぐ下にある簡素なインターフォンを桑方歴木が鳴らす。軽快な音が響き、巣穴に立て篭もる住人を呼び出す。しかし出てくる気配がないためもう一度インターフォンを鳴らす。
すると、髪は乱れ、四谷怪談に出てくるお岩さんのような気色をした顔の女性が現れた。
「おい、どうしたんだよ稲架美! どうした! 何があったんだ?」
妻であると予想される人物へ必死に呼びかける桑方歴木。彼女は死人に会ったような顔で、瞬きを異常に繰り返して言う。
「どうして......電車に轢かれたんじゃ......どうして? どうして生きてるの? ねぇ? 本当に歴木? 歴木なの?」
完全に取り乱している彼女は、現実に起きていることと脳にインプットされた情報の食い違いに混乱している様子だった。私は理解する。そうか桑方歴木は本当は死んでいたのか。
混乱している彼女を落ち着かせようと、桑方歴木は耳障りの良い様々な言葉を与えていた。
すると、携帯電話の着信音が聞こえてきた。発信源は部屋の奥の方からだ。
「おい、電話が鳴ってるぞ。とりあえず中に入ろう。命の恩人を連れてきたんだ、どうしても稲架美に会わせたくてね」
私は丁寧にお辞儀をすると、彼女は訝しげな目でこちらを見ながら2、3度頭を下げてきた。
「稲架美、僕が出てもいいかい?」
彼女は力なく頷く。
桑方歴木は通話ボタンを押すと、ピンクパール色の携帯電話を耳に当てる。
「もしもし? 兜か? どうした?」
起き上がり小法師が元に戻るような勢いで彼女は顔を上げた。『兜』。おそらくあの少年であり、彼女の息子だ。
「もしもし、お父さん? あのね、なんかバス、動かなくなっちゃた。でね、どうすればいいのかわからないんだ」
「そうか......。今、どこにいるんだ?」
「あのね、わかんない」
「わかった。そっちへ迎えに行くからいい子で待っているんだぞ」
「うん! わかった!」
通話を終了し、桑方歴木はGPS機能で兜の現在地を確認する。
「すいません、『恩人』。息子がトラブルに巻き込まれたみたいで。あの、もしよろしければここで待っていてくれませんか?すぐに戻ってくるので、お礼はそのときに」
「ええ、はい。わかりました」
私は笑顔で返事をする。
「早く助けに行きましょう」と言い、彼女は慌てて支度をする。桑方歴木は何度も謝ると、彼女を連れて勢いよく夜の中へ飛び出していった。
しばらくして私はドアのぶに手をかけると、トタン板のように軽いドアをそっと押すように回し、開けた。
玄関から外へ出ると、冬の厳しさを知らしめるように冷気が身体中を駆け巡る。空を見上げるとチラチラと星が瞬き、月の光に負けまいと一所懸命に輝いている。
サングラスから滴る熱い雫が星の光に煌めいた。
(了)
神様スイッチボックス 葦元狐雪 @ashimotokoyuki
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