くわがた虫♀
受話器からは、警察官の男の声が何度も彼女の名前を呼んでいる。
「子供の養育費はどうしよう...世帯主の変更しなきゃ...あ、保険金の手続きと葬祭の申請も必要だし。あとは...」
ぶつぶつと言葉をこぼす彼女は無意識のうちに事務的なことや、1人息子の将来の心配をしていた。
警察官の男が受話器の向こうから必死に呼びかける。
「奥さん! もしもし! 聞こえますか? 気をしっかり持ってください! 今は突然のことで混乱していると思いますがとりあえず本人確認のため、○×△病院まで来てください。念の為自宅の車は使わずにタクシーで来てください。」
話の内容が全く頭に入ってこない。
なんだっけ。
「もしもし! 桑方さん! もしもし!?」
病院がどうとか言ってたけど。
そもそもどこの病院?
「......に来てください! いいですね!?」
もう、何も、耳に入ってこなかった。
「はい......」
稲架美はか細く掠れた声で一言返事をすると、震える手で受話器を置いた。
テレビからは外国のテロやバスジャックや隕石問題についてのニュースを容姿の整った女性が読み上げている。
その後、第1に夫の死を悲しむことができなかった自分にとてつもない不快感を抱いた彼女は、突如猛烈な吐き気に襲われ、トイレへと駆け込んだ。
夫との仲が悪いわけではなかった。むしろ関係は良好で、息子を夫の母の元へ預けて二人きりで旅行へ行くことも何度かあった。家族に心配をかけまいと、いつも明るく自宅にいるときには仕事の愚痴は一切口にせず、息子とよく遊んでくれていたあの優しい夫はもういないのだ。
便器から顔を上げると壁に掛けてある家族の写真の中の夫と目が合った。
全国的にも有名な遊園地で撮った写真で、3人共笑顔でピースサインを突き出しながら写っていた。息子はダブルピースで屈託のない弾けるような笑顔で、横にいる夫も負けないくらい輝かしい笑顔を見せている。
その夫の写真を見つめていた稲架美の瞳からダムが決壊するが如く、熱い涙が溢れ出てきた。それと同時に再び吐き気が込み上げてきたため、便器に顔を差し出す。
数10分経っただろうか。吐き気と格闘していた稲架美はふらふらとした足取りで洗面所へと足を運ぶと、稲架美専用の赤いプラスチックでできたコップで口内に残った吐瀉物を洗い流した。
「兜に連絡しないと......」
時計を見ると時刻は午後8時過ぎを示していた。息子の
息子の兜には携帯電話を持たせていたことを思い出し、リビングの机の上に置いてある携帯電話を取りに向かう。
彼女は携帯電話に登録されている電話帳の項目から「桑方兜」を選択するが、通話ボタンを押す寸前で手が止まった。
息子に何と説明すればいいのだろうか。直接的に父親の死を伝えてもいいのか。ショックでどうにかなってしまいやしないか......
様々な不安な思考が彼女の中で駆け巡る。しかし事実は伝えなければならないのだ。バスから降りて戻ってきてもらうしかない。稲架美は覚悟を決め、通話ボタンを押す。
コールが続く。なかなか電話に出ない。
バスに乗っているから出にくいのだろうか。
カチャッと音がし、携帯電話の画面は通話中の状態に変わる。待ち構えていた稲架美は喋りだす。
「もしもし兜? お母さんだけど今大丈夫? あのね...」
「もしもし」
携帯電話の向こうから聞こえてきた声は、男性の低い声だった。
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