僕
隣を歩く
彼の容姿は他と比べて大変よく優れていた。町を歩いていれば、男女関係なくすれ違う人間はみな振り返り、憧れの眼差しを向ける。
今で言ういわゆる『イケメン』というやつだ。そんな完璧に近い容姿を持つ彼の隣を歩く容姿平凡な『僕』は劣等感を抱かずにはいられない。
しかしなぜ『僕』が彼と何年も友人であり続け、今も共に散歩をしているのかというと、それは彼の不思議な性格にあると言える。
伊勢君と初めて出会った高校時代の春、彼は川で溺れそうな老婆を助けようとしていた。
どうやら飼い犬が川で溺れ、愛犬を助けようとした老婆もまた溺れそうになっているらしく、肝心の愛犬はそのうち自力で岸にたどり着いて飼い主の溺れる様を眺めていた。
河川敷から一部始終を見ていたらしい伊勢君は老婆たちを指差し、大変愉快そうに大笑いしていた。
「あーおかしい! どうしてあの犬はおばあちゃんを助けようとしないんだ? 飼い主が溺れているのも関わらずに、だ。なんて薄情なんだろうか! そこら辺の人間よりも薄情ではないのか? あの畜生は!」
僕はその時、「不謹慎な男だな」とか、「見ているのなら早く川に飛び込むなり、助けを呼ぶなりしてあげればいいのに」と、思いながら大笑いする彼を見ていた。
ふと、彼がお腹を押さえながらこちらの方に整った顔を向けてきた。
「あーお腹痛い。ねえそこの君! もしかして、君があのおばあちゃんを助けてあげるのかい?」
唐突な彼の言動に面食らった僕は、一時的に思考が停止する。その後すぐに彼を指差し
「君が助けに行けばいいだろう?きっといい絵になるだろうさ」
自分が助けに行くのが面倒とかそういう気持ちではなく、実際に、容姿の整った彼が老婆を助けるほうが世の中にとって良いと思ったからである。
すると彼は一瞬困ったような顔をすると、すぐさまニコッと笑い
「そっか! しかし、あのおばあちゃんは実に運がいい! 一生分の運を使い切ったんじゃないのか? とりあえず、今行くから待ってろよ!」
そう言うと、彼は制服を脱ぎ捨て、下着だけの状態で、まだ寒い春の川に飛び込んだ。
サングラスを回すことに疲れたのか、伊勢君はサングラスをもう一度かけなおし、僕に語りかける。
「なあ、あの川で溺れていたおばあちゃん覚えてるか? あれ、『僕』が片思いしていた女の子のおばあちゃんだったんだよな! なんで『僕』が助けに行かなかったんだよ。助けたら付き合えたかもしれなかったのにさ!」
伊勢君は口をツン尖らせて不満げに言う。
「だから、あの時そんなこと知らなかったんだよ。しかも、今はちゃんと嫁がいるし、問題ないだろう」
結局、あの救出劇の後、おばあちゃん伝にその話を聞いた僕が片思いしていた女の子は、すぐに伊勢君にアプローチを仕掛けていた。
しかし、彼は「ごめん! 無理!」とバッサリ断ってしまった。なお、卒業するまで『僕』の片思いの女の子は伊勢君にゾッコンだったそうだ。
「あの時一番運が良かったのは俺でもおばあちゃんでもない、『僕』だったんだぜ? だけど、あの時使い損なった運は未来に持ち越されたからな。」
伊勢君は人差し指を遠く前方へ向けて指す。指し示された方向へ視線をやると、1本の大きな木が立つ公園が遠くに見えた。
なぜ僕が伊勢君に『僕』と呼ばれているのかというと、名前が『僕』で、苗字が『荻窪』だからだ。すなわち、『僕』はあだ名でも親戚の幼い男の子を呼ぶ時によく使う呼称でもない、役所にしっかりと認められた本名なのである。
伊勢君をなぜ伊勢君と呼ぶのかといえば、彼にそう呼べと言われたからそう呼んでいるだけのことであった。
「過去は過去のことだ。というより今はいつ子供が生まれるのか気になって仕方ないんだ」
「だから、こうして散歩しているんだろう? 病院でいつまでもしかめっ面してたら、生まれてくるbabyも生まれてこないぜ」
遡ること数時間前、『僕』の奥さんの本陣痛が始まり、『僕』は立ち会い出産を希望したが、彼女の陣痛があまりにも痛いという理由で立会いを急遽拒否され、現在、赤ん坊が生まれるまでの時間つぶしをしているというわけだ。
2人は話している間に、伊勢君が指し示したように見えた大きな木が立つ公園までたどり着いていた。
どこからか女の子のすすり泣きが聞こえて来るように思い、『僕』は伊勢君に確認をする。
「そうさ。泣き虫はあの巨木の上の方にいるぜ」
そう言われるがままに巨木の上の方を凝視して見ると、確かに、赤いワンピースを着た7歳くらいのおかっぱ頭をした女の子が涙で頬を濡らしていた。
足には擦り傷ができており、細い四肢で、かろうじて木につかまっているという状況だ。
突然、携帯の電話がなり、ディスプレイには『○○病院産婦人科』の文字が映し出されていた
『僕』は急いで携帯電話を開くと、通話ボタンを押し、左耳に添える。しかし、スピーカーから聞こえてくる音は『ピーーー』という機械音のみであった。
「そんな......どうして......」
『僕』は膝から崩れ落ち、顔から精気が失せる。
「落ち着きな。よく携帯の画面を見てみろよ」
我に帰り、もう一度携帯電話のディスプレイを見てみると、電池のアイコンが真っ黒な背景に点滅を繰り返していた。時刻は午後8時過ぎを示している。
「おそらく、通話が開始されたと同時に充電が切れたな。」
「何かあったんだ......すぐに戻らないと......」
『僕』はふらふらとしながら立ち上がる。しかし伊勢君は病院へ戻ろうとする『僕』を制止する。
「ちょっと待て、どこへ行くんだ『僕』。君は、あの女の子を助けないと」
「は? お前ふざけているのか? 自分の嫁さんと、子供が危ないかもしれないんだぞ!? そいつにかまけてる時間なんてないんだ! 一刻を争うんだよ!」
『僕』はそう言いながら鬼の形相で伊勢君の胸ぐらを掴み上げる。
しかし伊勢君は『僕』の剣幕に辟易することなく、掴まれた手を振り払うと人差し指を上に差す。
「『僕』の過去の幸運が、今そこに現れている! 使うなら今しかない! 今回は、俺じゃあ助けられないぞ!」
逆に『僕』が彼の迫力に屈してしまい、立ちすくんでしまう。
「さあ、あの女の子を早く木から助け出すんだ。時間がない! 早くするんだ!」
そう言うと、伊勢君は『僕』を巨木の側まで誘導する。
「今日の『僕』は最高に運がいいんだぜ! 自分の運を信じろ!」
『僕』は深呼吸して精神を落ち着かせると、木に登り始める。木の幹に服が擦れて汚れるが、そんなことは気にも留めずに懸命に登り続けた。
少女のいる場所へたどり着くと、背中にしがみつくように言う。少女は助けが来たことに安堵の表情を見せた。
『僕』と少女はそのままゆっくりと地面に向かって降りてゆく。
少女を地面に下ろすと、手には赤いボタンのような物体が取り付けられた、白い色をした四角い箱のようなものが残っていた。
「これ、君の?」
『僕』は少女に尋ねるが、彼女は首を横に振り、それを否定する意思を表す。
「それ、押してみろよ、『僕』」
伊勢君が自信に満ちた顔で言う。
「なんだか、危険じゃないか?新手のテロだったらどうするんだよ」
『僕』は海外のテロ組織がテロに子供を利用するケースがあることを思い出す。
「いいから信じてみろって! だって今日は最高に運がいいんだからな!」
伊勢君はニコッと笑って見せた。
もうどうにでもなれという気持ちで箱に取り付けられたボタンを押す。
すると、人、車、空、動物、何もかもが動きを止めた。
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