子猫

 白い子猫はキャリーバッグの中に身を丸くして座っていた。

キャリーバッグはガタガタと揺れ、とても居心地の良いものではなかった。


 周囲は薄暗く、桃色のキャリーバッグから透けた光が微かに見える。中には花柄の毛布が敷かれているため暖かく、今まさにキャリーバッグを抱きかかえている老婦からは高級デパートの婦人服売り場のような香りが漂ってくる。猫はその匂いが気に入らないのか、鼻をシュンッと鳴らし、念入りに顔を洗った。


 前方を見ると網状の格子が取り付けられているため、状況はなんとなく把握することができた。

杖をついた老人や制服を着た少年少女、黒い革ジャンやくたびれたスーツを着た男などの様々な格好をした人々が席に座ったと思えば立ち上がり、空気を吐き出すような音と共に去って行く。


 プシューッという音と共に、パンパンに詰まった買い物袋を両手に持った、ふくよかな花柄のワンピースを召した婦人が乗降口から現れる。婦人の顔は赤く火照り、買い物袋の重さのせいか苦悶の表情に満ちている。

「段差にご注意くださーい」と運転手が心配をしているのか、していないのか分からないような声で婦人を気遣った。


 段差を上る度に頬とあごの肉が揺れる。婦人は整理券を取ろうと、買い物袋を持つ手でかろうじて使えるボイルソーセージのような小指と親指で整理券を挟もうと奮闘している。

乗客たちの中には婦人の様子を興味本位で眺める老人や、興味がないのか下を向き、自分の手元にある携帯電話を忙しそうにいじっているサラリーマンもいる。クスクスと婦人を嘲笑する者もいたが、小学生ほどの男の子は心配そうに婦人を見つめていた。

彼は助けに行って良いのか、また助けに駆け寄ったところで自分に何ができるのか分からないといった様子で、タイミングが掴めず、ソワソワと体を揺らしていた。


 婦人はやっとの思いで整理券を掴み取ると、フシューッと口から息を吐き、何か大きな試練を達成したのかというような満足した表情で最後の段差を昇るために足をかけた。

その瞬間、買い物袋からこぼれ出た1つのトマトが木製の床の上を疾走する。

待ってましたと言わんばかりに、小学生ほどの男の子が飛び出し、若々しい小さな両手でトマトをキャッチする。


「大丈夫ですかー?」と運転手はなんでもいいから早くしてくれと言いた気なニュアンスで老婦と男の子に車内放送で問いかける。

男の子は「だ、大丈夫です!」と自信に満ちた顔で、元気よく上擦った声で返事をした。婦人はぺこりと頭を下げると、申し訳なさそうな顔をしながら整理券を持っていない方の2本のボイルソーセージでトマトを受け取る。


男の子はニカッと所々隙間の空いた歯並びを見せた笑顔を返すと、今にもスキップしそうな足取りで元に居た席に戻る。

婦人は周囲に軽く頭を下げた後、下げるついでに見つけた2人掛け用の席にフシューッと息を吐き出しながら荷物と一緒に席に着いた。トマトは婦人の指によって見事に貫通されていた。

「発車しまーす」運転手の気の抜けた合図とともに扉は閉まり、バスは再び走り出す。


 猫は毛繕いを済ませると、再び格子の先を見据える。

前方の大きなフロントガラスからはライトを灯した車が勢い良くすれ違って行くのが見える。歩道には街灯に照らされた親子が、仲良さそうに手を繋ぎながら歩いている。

ピンポーンという音が鳴り、どこへ行っても同じに聞こえる女性の声のアナウンスが入る。


 「お待たせしました。次は◯◯寺。◯◯寺。▲▲方面にお乗り換えの方は、ここでお降りください。次は◯◯寺。」


アナウンスが終了するやいなや、杖をついた老人が間髪入れず『次、とまります』ボタンを押していた。老人は早押しクイズで一番に答えることができたかのように愉悦した表情をしていた。

 アナウンスは老人の早押しを祝福するように「次、とまります。」と応えた。


 次のバス停が見えるとバスはウインカーを左に出し、後続車に合図する。運転手はハンドルを切りながら車体を路肩に寄せると、乗客にバスが完全に停車した後に降りるよう注意を促す。

プシューッという音とともに前後の乗降口の扉が開かれる。杖をついた老人と制服を着た少女が席を立ち、ICカードと小銭でそれぞれ支払いを済ませた。

運転手は「ありがとうございましたー」とありがたみのない声で言う。


 老人と少女が下車した後、入れ替わりで筋肉質な見た目30代くらいの男がヌッと入ってきた。その男は黒のニット帽にサングラスをかけ、背中にトラの刺繍を施したスタジャンにGパンという、格闘ゲームのキャラクターが現実世界に現れたらこんな感じなんだろうなと思わせる風貌をしていた。男はICカードもタッチせず、また整理券に目も向けず段差を昇りきった。

猫はその異様な風姿に危険を感じ、格子越しにフーッと威嚇をした。猫なりのこれ以上近づくなという意思を巨漢に送った。男は猫の意思を汲み取ったのか

周囲を一瞥すると、大きな足音を鳴らしながら運転手から一番近い席を選び、座った。

「発車しまーす」脱力感のある声が車内に響き、バスは再び走り出した。


 しばらく走ったところで先ほどの大柄な男が席を立つ。男はそのままの状態で懐を弄りだし、何かを取り出そうとしている。周囲の乗客もは大柄な男が急に立ち上がった事にギョッとし、思わず男の方に視線が集中する。おそらく財布を出し、両替をするのだろうと乗客たちは思った。


 しかし男の懐から出てきたものは財布と呼ぶにはあまりにもセンスのないものだった。

ヒッとふくよかな婦人が小さく悲鳴をあげる。それを起点に乗客たちがざわつき始めた。バスの中はあまり明るいとは言い難いが、乗客たちは男が何を持っているのかを理解するのにさほど時間はかからなかった。


 「静粛に! みなさん静粛にお願いします!」


ドンドンと鼓膜が破れるかと思うほどの重苦しい音が車内に響き渡る。乗客たちは慌てて耳を抑えるが、すでに耳はキーンという音に支配されてしまっていた。

拳銃にも驚いているが、まずあのプロレスラーのよう風貌をした男が丁寧な言葉で話しかけてきたことに驚いた。


ふくよかな婦人は震えながら頭を手で覆い、丸くなっていた。小学生ほどの男の子は目の前で起きたことに対し理解が追いつかず、体をピクリとも動かさずに硬直している。

そのほかの乗客も震えていたり、口を手で押さえていたりと様々な格好をしているが、皆共通的に恐怖を感じていた。


猫はキャリーバッグの中でガタガタと暴れている。愛らしい顔を般若のように歪め、発砲した男に対して威嚇の限りを尽くしていた。それを見た飼い主の老婦はとっさに首に巻いていた紫色のストールをキャリーバッグに被せたため、格子越しから見えていた景色は一面紫色に隠されてしまった。


猫は威嚇する対象が失せてしまったため、騒ぐことをやめた。老婦は猫に向かって人差し指を縦に唇に添えて、静かにしてほしいというジェスチャーをする。

拳銃を持った男は運転手にコソコソと耳打ちをすると、運転手は震えながら何度も小刻みに頷いた。 

男は咳払いをすると一礼し、口を開く。

 

 「みなさんこんばんは! お初にお目にかかります、わたくし、『バスジャック36』と申します。先ほどは突然大きな音を出してしまい、皆様には大変ご迷惑をおかけしたことを、深く、深くお詫び申し上げます!」


そう言うとバスジャック36は深々と頭を下げ、そのお辞儀は美しく、まるで世界で一番美しいお辞儀ではないのかと思わせるほどの素晴らしいお辞儀だった。

乗客たちはその男の風貌とは不釣合いの礼儀正しさに唖然としていた。というよりはバスジャックを行うような人物像が映画や漫画の影響によって頭の中で出来上がっていたため、バスジャック犯のイメージとはまるで正反対のバスジャック36に、もしかしたら危険な人物ではないかもしれないという期待が生まれていた。


 しかしバスジャック36の口から放たれた言葉に、乗客たちの期待は粉砕された。


「お集まりいただき、誠にありがとうございます! 本日は特別に、皆さんを『ドキドキ! 冬の死後の世界バスツアー』へご案内させていただきます!」


バスジャック36は先ほどよりも美しくお辞儀をした。

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