割れた鋏

 受話器の向こう側では、ツー、ツー、という冷徹な不通音が、桑方稲架美の空虚な心を循環し、嗜めていた。


 力なく膝を折り、地に屈するその姿は、まるで、神に懺悔する使徒の様であり、高尚な画家の描く絵画にも似た美しさを感じさせる。

 反対に、彼女の心中は夜の闇よりも深く、岸壁から伸びた無数の手が、彼女を底の知れぬ海溝へと引きずり込むようであった。

 いっそ、このまま沈みたかった。何も考えず、何も感じなくても良い場所へ連れて行って欲しい。誰でもいい、悪魔でも、鬼でもいいから。


 希望を失ったこの世界には、もはや生きるに値する価値などない。

 青く冷えて固まった血液は、立ち上がる気力を運ぶ役割を完全に放棄していた。


 彼女の屍のような手が、美しく磨き上げられたフローリングに爪を立てた。



 「行ってらしゃい。気をつけて行ってきてね」


 稲架美は、鮮やかな赤いエプロンで、手についた水滴を拭いながら、スリッパの鳴らす軽快な音とともに玄関へ向かう。

 柔らかな朝日の差す、リビングにあるテーブルでは、桑方兜が鮭入りおにぎりを、慌てた様子で食べていた。


 「行ってきます。今日は、いつもより早く帰るようにするから」


 口角を上げて、にっこりと笑う桑方歴木は言う。


 「お父さん今日早く帰るの? でも僕夜いないよ!」


 「そうだったな! おばあちゃんの家でしっかり楽しんでこいよ!」


 うん!と元気よく返事をすると、兜は再びおにぎりを頬張り始めた。


 「ふふ。はい、これお弁当」


 青いチェック柄の、ナプキンに包まれた弁当箱を手渡す。


 「うん、ありがとう。それじゃぁ、行ってきます!」


 「はい、いってらっしゃい」

 「お父さん、行てらっしゃい!」


 そう言うと、歴木は玄関から飛び出し、閉じかけた扉の隙間から戯けたように手を振った。


 「さ、兜も早くご飯食べて学校に行きましょ! そろそろ支度しないと大変よ〜」

 「ん! はーい!」


 「ごちそうさま!」と言うと、まとめた食器をシンクへ運ぶ。つま先立ちをして、なんとか手が届く。

  彼女は「ありがとね」と労を労うと、山盛りの衣類が詰まった洗濯カゴへ目を向ける。


 「さぁて、今日もいっちょやりますか!」


  彼女は、気合を入れた声で自身に喝を入れると、腕をまくり、洗濯カゴに手をかけた。



  ようやく動いた虚ろな目は、光のない、暗晦あんかいな場所を見つめていた。


  玄関を眺めていれば、いずれ2人が帰ってくるのではないのかと思うが、おそらく、そんなことはないだろうとわかっていた。


  いっそのこと、死んでしまおうかと考える。夫は電車に轢かれ、息子は、おそらく、最大限の恐怖と苦痛を味わいながら死んだのだろう。


 ならば、私も、同じ程度の苦しみを以て命を絶たねば、彼らに対して申し訳ない。そう、私だけが楽に死ぬ訳はいかないのだ。

 彼女は時間をかけて、上半身をゆらりと起こす。


 考えよう。苦しみながら死ぬ方法はなんだろうか。

 首吊りがいいだろうか。いや、失敗した時のことを考えると、確実ではない。

 私も電車に飛び込もうか。違う、他人に迷惑をかけるわけにはいかない。


そうだ。劇薬を飲めば、きっと、たいそう苦しみながら死ねるだろう。農薬は、飲むと死に至るモノがあると聞いたことがある。

ホームセンターへ行けば、売っているだろうか。

たしか、閉店時間は午後9時だ。まだ時間はある。


彼女は、近くにある、たくさんの子供向けシールが貼り付けられた棚に捕まり、少しずつ立ち上がる。

その時、唐突に玄関のチャイムが鳴った。


その愉快な音は、鬱蒼とした雰囲気には、あきらかに場違いであった。

 まるで、葬式の最中、やって来たお坊さんが、突如タンバリンを叩き始めたような気分だった。


間隔をあけて、もう一度チャイムが鳴る。

いったい誰だろう。

しびれを切らした警察が迎えに来たのか?いや、それはいくらなんでも早すぎる。

数分前に、警察から電話があり、その後、直ぐにバスジャック36と名乗る人物から電話があったばかりだ。


「どちら様ですか?」


掠れた声でそう言うと、稲架美は、重たくなったドアを、ゆっくりと開ける。


そこには、最愛の夫である桑方歴木が立っていた。

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