喝采

 惜しみない賞賛の拍手。

捲き起こるは歓然、歓笑、大歓呼。

先ほどと比べ、人が増えた気もする。おお、口を押さえて泣いているではありませんか、お姉さん、大丈夫、無事ですよ、みなさん、ところでちょっと引っ張り上げてもらえませんか? そうです、そこのダンスミュージックを嗜んでそうな蛍光緑のキャップを召した人、手が見えますか? さあ、お兄さん、掴んで、手を、絶対に離してはいけませんよ、いえいえ、おかまいなく、自力で這い上がることができますから、私は。はい、鍛えているものですから、やれプロレスラーだとかやれキン肉マンなどと言われまして、はい。怪我? それなら、お兄さんと泣き虫坊ちゃんを心配してあげてください、無事ですから、私は。

 さて、出口はあちらの方か。階段は急斜面、忙しそうに降りる人々、群衆がバリケードを張っている。


「すいません! ちょっと通してください、待って、『恩人』! そこの『恩人』さん!」

スーツの男が叫んでいる。


『恩人』? ああ、私のことか。立ち止まり、振り返る。女子高生らしき人にサインをせがまれる。まいったな、さっきまで犯罪者だったんだが。また、後ろから声が聞こえる。人混みをかき分け、息を切らしてやってきた。

「待ってくださいよ、『恩人』。お礼がしたいんです。飯、行きましょう! なんでもご馳走しますから」

いいえ、結構、これは、罪滅ぼしみたいなものです。罪滅ぼしとは何かと聞かれ、それとなく流す。立ち話もなんだ、とりあえず、喫茶店にでも行こうかと提案する。押し問答の末、申し訳なさそうな顔をした、スーツの男が付いてきた。


 「助けていただいて、本当に、ありがとうございました!」


木目調のテーブルに、額を乗せる。顔をあげてください、お兄さん、だから、もう注文は結構です、そのメニュー表を片付けてください、アイスコーヒーだけで、十分です。

「そうですか......」と渋々メニュー表を下げる。適温に保たれた空間、清潔な店内、控えめなジャズが心地よい。客はまばらで、それぞれ、会話や読書を楽しんでいる。ちらりと手元を見やると、針は午後19時14分を指し示していた。


「それにしても、どうして、あんな場所にいたのですか?」


返答に困る。『なぜ』と聞かれても、『なぜ』と返すしかない。わからないのだ、私にも、おそらく、バスで起きたことが原因だろう。しかし、非現実的な話なため、到底、理解する範囲を超えている。きっと、信じてはもらえない。


「私、これから死ぬつもりなんです」


一瞬の静寂。再び、会話が聞こえ始める。しまった。言うつもりはなかったのだ。スーツの男は、突如とび出した物騒な言葉に顔を強張らせる。


「すいません、急に。でも、本当に死ぬつもりなのです。これ以上、生きていても辛いだけと言いますか......私、未来で1度、罪を犯しまして、その償いも兼ねて、ということで......」


はっきりしない物言い、我ながら女々しい。突然、両肩に衝撃。顔を上げると、正面には、見事な男泣き。


「どうして、そんな悲しいことを......あなたは、私を助けてくれたではありませんか......死ぬなんて、言わないでください! それに、未来なんて、まだわからないじゃないですか!」


「大丈夫ですか?」心配したウェイトレスがハンカチを持ってやってくる。迅速で、いい判断だ、ありがとう。頭を下げ、厨房へ戻っていく。チラチラと、好奇心に満ちた視線を感じて落ち着かない。


「すいません、泣いてしまって、もう、大丈夫です。そういえば、『恩人』の名前、聞いてませんでしたね、教えて下さいよ」


鼻水を拭くスーツの男が訊ねる。しかし、迷う。正直に教えていいものだろうか。なるべく、人と関わり合いたくはない。もし、借金取りにちょっかいをかけられるかもしれないことを考えると、胃が痛くなる。いっそ死んだ方がいいのだ、これ以上、迷惑をかけたくはない。


「あ、ちなみに僕の名前はですねぇ、『桑方歴木』といいます。桑田佳祐の『桑』に、方位磁石の『方』、故事来歴の『歴』に、木村拓也の『木』です」


聞いてもいない、勝手に名乗ったスーツの男は、机に指で文字を書く。『くわがた』、その言葉には、見覚えがあった。バスの男の子だ、あの携帯電話のディスプレイに表示された文字。そう、ひらがなで、たしか、『くわがた』。


「そうだ! どうせ死ぬなら、その前に、家に寄って行ってくださいよ! きちんと、お礼がしたいんです。嫌と言っても連れて行きますからね! 妻にも、事情を話せば歓迎してくれるはずです」


弱った、どうしたものか、早く死にたいのだが。腕を引っ張るスーツの男は、いつの間にか会計を済まし、「名前、道中で教えてもらいますよ」などと言って、強く、背中を押してくる。「断っても、聞いてはくれないんでしょうね」

 外へ出ると、すっかり暗い。ふと、目についた、背の高い時計塔の針は、午後19時45分を差していた。

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