かぶと虫

  バスの中は束の間の静寂に包まれていた。


 突如として現れた、バスジャック犯の唐突な殺人予告に、乗客たちの知覚は、その言葉を咀嚼そしゃくし、理解することを拒んだ。


 車内の蛍光灯がチカチカと点滅し、場の異様な空気を引き立てるホラー映画さながらの演出に、実は、自分たちは映画のエキストラではないのかという錯覚に陥る。


 どうせそのうち監督がカチンコを持って現れ、「はい、カット! みなさんお疲れ様でした! 公開日まで楽しみにお待ちください!」と言って、演者たちは、それぞれ、労いの言葉を交わしながら、笑顔で感想を話し合うのだろうという結末を妄想した。


 しかし、運転手の横で深く頭を垂れている巨漢がゆっくりと体を起こし、濃いヒゲに覆われた口を開き始めると、乗客たちの顔は、再び真っ青に変わる。


 「先ほどの言動、決して嘘偽りはございません、全て事実でございます。なおこれから私の意志が変わることもありませんし、反逆を企てようものなら今この場で射殺してさしあげます。

 しかし素直に従っていただけるならば、こちらから危害を加えることはありませんので、安心して残りわずかな『生』を共に過ごしましょう!」


 そう言い終えると、『バスジャック36』は両腕を外側に大きく開き、サングラス越しの慈愛に満ちた目で、乗客たちを見つめる。


 一方、バスジャックの被害に遭ってしまった悲運な猫は、空腹を感じ始めていた。飼い主に訴えるように鳴くが、バスの走る音と、巨漢の声に遮られてしまい、恐怖に震える飼い主には届かない。

 しかも、スカーフに隠されてしまった格子の向こう側には、まだあの男がいるのだろうかと考えてしまうと、ストレスを感じざるをえない猫なのであった。


 耐えがたい圧迫感に、とうとう参ってしまった猫は、何もない空間に向かって、手を伸ばし、シャドーボクシングのような動きをし始めた。しかし、そのうち何もないと思っていた空間に、硬い『もの』を感じる場所があることを探り出す。猫じゃらしと戯れる要領で、透明の『もの』に猫パンチを繰り出し続けるが、いつまで経っても姿を現さないそれに、しびれを切らしたのか、猫は、地面に叩き落とすように前足を振りかざす。


 すると、毛布の上には、四角い形をしたスイッチのようなものが目の前に現れ、突如現れたそれに、驚いた猫は威嚇をしながら、スイッチを叩き続ける。

 そのうち、前足が赤いボタンに触れると、猫の姿は瞬時に消えさり、代わりに1.5リットル入りの牛乳瓶が現れた。パッケージには、デフォルメされた牛の絵が施してあり、「私が絞られました♪」と生産者の粋なメッセージが添えられてある。


 突然重さが変わったキャリーケースに、飼い主の老婦人は、驚きのあまり床に落としてしまうと、放たれた鉄格子の扉から、牛乳瓶が勢い良く飛び出してきた。牛乳瓶はそのままコロコロと転がって行き、『バスジャック36』の足元にたどり着いた。


 「牛乳瓶......ですか? どうしてこんなものが転がってくるのでしょう! しかも、キンッキンに冷えているではありませんか! まるで、冷蔵庫から取り出したばかりのようなベストな飲み頃! 落とし主はあなたですか? 一番奥の多人数掛けの席に座っている、今、まさにキャリーケースを拾い上げようとしたご婦人!」


 指をさされた老婦は、腰を屈めた状態のままぴたりと動きを止めた。視線だけは、バスジャック犯の方へ向けている。


 「そう! あなた! そのキャリーケースは動物を入れるためのものでしょう? まさかクーラーBOXとして使用していたわけじゃありませんよね? 用途が違います! 何も冷やすことなどできません! 何を考えてらっしゃるのか、私にはさっぱり理解できませんよ!」


 男は、眉間にしわを寄せながら大げさに頭を抱える。それは自分たちのセリフだ。と言いたげに乗客たちは『バスジャック36』を凝視する。

 男は深呼吸をすると、こう言った。


 「私は、あなた方が何か隠し持っているのかもしれない、という疑念を感じてしまいました。このようなことはしたくなかったのですが、これから、各自、所持品を私の元に集めてください。もちろん、1人ずつですよ。約束だから、守ってくださいね」


 言われるがままに、最初の1人がバスジャック犯の元へ怯えた様子で向かう。最も近くにいたサラリーマン風の男は、ビジネスバックと、財布や携帯を差し出すと、バスジャック犯の確認が終わり次第、席へ戻っていった。


 「次は君だね、そこの僕! 小学生くらいの男の子の...そう! 君だよ君! 怖がらなくていいから、こっちへおいで! さあ!」


 バスジャック犯に呼び出された『桑方兜』は、恐怖で今にも泣きそうだった。彼は、1人祖母の家へ遊びに向かっている最中だった。そのため、現在は顔見知りの人間も、守ってくれる両親もいない孤独と絶望が、彼の身の内で波となり、目頭へ一直線に突き進んでいった。もはや、あってないような少年の涙のダムが決壊するに時間は分とかからなかった。


 ダムが決壊する寸前のところで、少年の携帯電話の呼び出し音が、車内に鳴り響いた。慌てて携帯を開くと、ディスプレイには「くわがたはさみ」と表示されていた。

 母親だと理解した僕は、緊張の糸が緩み、それが、また、涙のダムを壊そうと水位の増した涙が目頭を叩く。

 通話ボタンを押そうとした刹那、『バスジャック36』がそれを許さなかった。


 「電話には私が出ましょう!さあ!こちらへ携帯電話を渡しなさい!」


 僕は、泣きそうな顔で首を横にふる。しかし、大人の腕力に敵うはずもなく、小さな手からは、いともたやすく希望はもぎ取られた。

 男は発信者の名前を確認すると、お母さんかい?と優しい声色で少年に問う。抵抗する気力を失った少年は、一度だけ首を縦にふると、長ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、沈黙した。


 通話ボタンを押すと、スピーカーからは、弱弱しい女性の声が聞こえてきた。


 「もしもし兜? お母さんだけど今大丈夫? あのね...」


 「もしもし、兜くんのお母さんですか? 初めまして! 私『バスジャック36』と申します! なぜ『バスジャック36』かといいますと、私が36歳だからですな! まあ、その話は置いておいて、今、御宅の息子さんは、我々と死後の世界へ行く準備をしているところでございます! どうか、盛大に送り出してくださいませ! え? お父さんが、電車に轢かれて亡くなられた? 突然の不幸、心情お察しします」


 それを聞いた僕は、ハッと顔を上げる。お父さんが死んだ? どうして急に? もしかして自殺? 僕ら2人を残して?

 様々な考えが、脳内を駆け巡る。頭が痛い、吐きそうだ。今日はなんて日なんだ...バスジャックに巻き込まれ、お父さんは死んでしまう。挙げ句の果てに、自分の短すぎる人生も、今日中には終わる予定ときたもんだ。そんな理不尽な現実に、ふつふつと怒りがわき上がってきた。

何が原因だ?

そうだ、目の前にいる男さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ!


 そう思った時、僕は自分のポケットの中に違和感を感じた。手の感触のみで、違和感の正体を探る。

それが四角い形をしていて、丸い突起物がある箱であることを認識した。


「ですが心配はありません。私が、責任を持って息子さんをお父さんの元へ送り届けます! ご安心ください! もう息子さんは、悲しみや寂しさを感じることはありませんので、心配は無用です! さあ、ではお見送りの言葉をどうぞ!」


 そう言うと男は、携帯電話を差し出した。彼は哀しそうな笑顔でうんうんと頷いている。バスはちょうど、左右に等間隔に配置された街路樹に囲まれた道路を走っているところで、遠くには、大きな木が立つ公園が見えた。運転手は、ハンドルから手を離し、うめき声をあげながら、頭を抱えてうずくまっている。


「もしもし兜? いい? 決してあきらめたらダメよ、気をしっかりと持つの。悪いことがあった後には、必ずいいことがあるの、だから、生きることを諦めない限りきっとチャンスはやってくる。お母さんを信じなさい」

僕は考える。これは、僕の恐怖や緊張を取り除くために言ったのだろうか、はたまた、何か別の意味があるのだろうか、と。とにかく、母は言ったのだ、決して諦めるなと。


 決意の目をした少年は、ポケットにある箱を勢い良く男に投げつけた。と、同時にバスは大きく揺れ、タイヤは縁石に乗り上げる。車内は悲鳴に包まれた。

男の顔面に、箱に取りつけられていた突起物が当たり、カチっという音がした直後、『バスジャック36』はその場から姿を消した。


 そして、残された乗客たちとバスを含む、すべての物体と時間は、まるでだるまさんが転んだように、止まった。

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