ポケットのなかと

新樫 樹

ポケットのなかと

「きゃあぁっ」

 思わず悲鳴をあげると同時に、突っ込んだポケットから手を引き抜く。

 いつもの鈍クサいわたしを知っている人が見たら、その俊敏さに何かとんでもないことが起こっていることをすぐにわかってくれるだろう。

 もにょ、でもない。

 ぴと、でもない。

 指に残る、なんと表現していいのかわからない感触を、消し去るように自分のデニムのスカートに擦り付けながら、掴んだままの大きなズボンをじっと見る。

 生き物ではないことは確かだ……と、思う。

 いくらなんでもジャージのポケットに生き物を入れたまま、洗濯に出すはずがない……と、信じたい。

 脳内のあらゆるデータを総動員して、さっきポケットの中で触れた感触が何だったのかを検索する。けれど。

「どうしよう。全然、わかんない」

 もう一度手を入れようとしてみるものの、さっきの感触が思い出されてどうしても入れられない。

 いっそ、彼が帰ってくるまでこのままにしておいて、自分でポケットから出してもらおうか。

 それとも思い切って、このまま洗ってしまおうか。ネットに入れて。

 ジャージを持ったまま、しばし考え込む。

 前はクリップだった。ガムテープのグルグルのときは、すぐにわかって取り出した。ティッシュやマスクは常習犯。ボタンやビーズが入っていたこともあった。

 小銭はラッキーだったなぁ。一緒に食べたコンビニスイーツの出どころが自分のジャージのポケットだったなんて、彼は気付かなかったろう。

 一番ドキッとしたのはきれいなペンダントトップ。プラスチック製だったから変な勘ぐりをしないですんだっけ。

 なんて、あれこれを思い出して逃避していた、そのとき。

 手が、ズボンの内側のメッシュ生地に触れた。

 ああ、そうだ。

 そっとのぞき込むと、ポケットがメッシュ生地になっているのが見える。

 ジャージのポケットってメッシュになってるやつがあるのよね。これなら中がわかりそう。敵の正体がわかればどうにかできるかもしれない。

 少し裏返して日差しの中に入れると、黒いメッシュの向こうに緑色のものが透けて見えている。テカリでもツルリでもない緑色の細長いものが、不思議な光沢をのせてそこにあった。

 まさか。

 動いてはいない。

 けれども、それはどう見てもアレに見える。

 長さ五センチくらい幅は一センチくらいぷっくり緑色のけっこう大きなサイズの、アオムシ君。

 さっきの感触がもう一度指によみがえる。

 虫はだめです。

 ヘビでもワニでも、掴めと言われれば掴む自信がある。独身時代には友達に泣きつかれてヤモリを部屋の中から救助してあげたこともある。

 でも、虫は、だめです。

「……はぁ」

 誰にも聞かれることのないため息は、静かに洗濯機の前に落ちた。

 結婚式の情報誌を買ってきたのは彼の方だった。

 わたしは式はしなくていいと思っていた。給料の半分を家に入れていたわたしには満足に貯金などなかったし、きらびやかな結婚式など分不相応だと感じていたからだ。

 卑屈な気持ちからじゃなかった。けっして。

 でも、彼はわたし自身も気付いていなかった寂しさを、ちゃんと感じ取ってくれていたのかもしれない。

 両親の離婚は幼稚園のころ。記憶は曖昧で、気付いたらもう母子家庭だった。

 結婚とか家庭を持つとか、そういうことに憧れはなかった。金銭的な悩みや不安が常につきまとっていたから、そんなに先のことを考える余裕もなかったせいもあるし、そもそも夫婦仲良しという姿を見たことがないのだから憧れようもない。そういうのはドラマや映画の中のことで、わたしには無縁のように思えていた。

 結婚写真は絶対にリビングに飾ったりしない。恥ずかしいもん。

 そう思っていたはずなのに、ついつい本棚の片隅に置いてしまったのはどうしてだろう。

 ぷっと笑ってしまうようなドレス姿のちんちくりんなわたしと、すらっと背筋の伸びたタキシードのギャルソンのような彼。

 笑うと言えば。

 たしか、カメラマンが笑ってくださいって何度も言っていた。

「これからは、自分だけの人生じゃなくなるんだと思ったら、どうしても笑うって気分じゃなかったんだ」

 あとになって彼は苦笑しながら言っていた。

 写真の顔は、真剣な表情だ。

 何かを心に決めている顔。

 一緒に生きていきたいと言ってくれた、そのときと同じ顔。

 本当のことを言うと、わたしには彼がわからなかった。

 どうしてわたしなんだろう。

 彼なら、いくらでもきれいな人やかわいい人やすてきな人が寄ってくるだろう。

 彼の職場は幼稚園。

 女社会だから出会いも多かったろうと思う。

 現に、今も年長組の女の子二人にプロポーズをされている最中だ。っていうのは置いておいても。

 結婚した今でも、彼の愛情を疑うことはないけれど……なんでわたしなのかはわからない。

 そういえばペンダントトップの犯人は、その年長組の女の子だった。

 こっそり彼のポケットに入れた、末恐ろしくもある悪戯。

 じゃあ、アオムシ君も、もしかしたら。

 ひょっとしてあの女の子のことを好きな男の子が、ヤキモチで入れたとか。

 いやいや、女の子がおませさんなのはわかるけれど、年長の男の子なんてまだサルみたいなものじゃない?

 なら、単なるイタズラ?

 このままジャージを放置するのが、なんだかだんだん悔しくなってくる。

 たかだか幼稚園児の愛やら悪さやらに、負けたような気がしてくる。

「よし」

 わざわざ声に出すのは、勇気を出すためだ。

 幸せになるのにも勇気がいると、誰かが言っていた。

 彼に告白されたときも、プロポーズされたときも、わたしはありったけの勇気を出した。大好きな人に好かれる勇気。愛する人に愛される勇気。

 それに比べたら、アオムシ君なんて。

「おりゃぁぁぁぁ」

 きみは頑張っていると、ずいぶんにぎやかになるんだね。

 前に彼に笑われたのを頭のすみに思い出しながら、ジャージのポケットに手を突っ込む。

 だってね、気合入れないと勇気が出ないんだもの。

 勇気を出さないと、幸せになれないんだよ。

「んぅぅぅぅぅ」

 何も感じない、何も感じない、何も感じない。

 言い聞かせてソレを掴み、けれどポケットの外に手が出たら限界だった。

 思わずぽいっと放り投げる。

 あ、いけない……つい。ごめん! アオムシ君!

 慌てて床を探すと、すぐ足元にいて飛び上がる。

「わぁっ」

 ざざっと距離をおいて、観察。

 ここからがまた勝負なのだから。

 割りばしで挟んだらなんとかなるかな。それとも紙に乗せるとか。ゴム手袋したら手でもいけるかな。ええと外に出したら葉っぱの所とかに置けばいいの?

「……あれ?」

 あれ? あれ?

 緑のソレはびろんと倍くらいの長さに伸びていて、先っぽに結び目が見える。

 え、結び目?

 アオムシ君に、結び目? ……あぁ、ああ。これ、

「……風船」

 へろへろとしゃがみ込み、大きなため息をついたらムカムカしてきた。

 もうっ!

 ジャージを洗濯機にトヤっと、投手のフォームで投げ入れてやった。

「今日は夕ご飯、嫌いなものだらけにしてやるんだから!」

 それは困ったなぁ。

 のんびりと眉尻を下げた顔が浮かぶ。

「先生あげるって渡されたら、これはゴミだろうかと思っても捨てられないだろ。でもこの間のぐるぐるガムテープの赤い方は、元気玉を作ってくれたらしいんだ。ほら、元気玉は捨てられないもんな。だって元気玉だぞ? その前のピンクのクリップには魔法がかけてあるって言ってたしな。で、ポケットに入れるんだけど、忙しさに紛れてそのまま忘れるんだ。ちゃんと宝物箱でも作って入れるようにしないといけないなぁ」

 前に、どうしてポケットにいろいろ入れたまんま洗濯に出すの? と聞いたら彼が言っていたのを思い出す。

 真面目な顔で言うから笑っちゃったっけ。

 この緑の風船は、どんなこと言われてもらってきたのかな。

 ちょっと聞いてみたい気もする。

 破れてしまった緑の風船、持っていた子は泣いたりしなかったろうか。

 それとも彼が勢い余って自分で破裂させてしまったのかな。

 そっと床の風船をつまんで、リビングに持っていく。そうして、本棚の隅の写真の前に置いた。

 彼が帰ってきたら聞いてみよう。

 これにももしかしたら小さなドラマがあるかもしれない。

 写真の中の真剣な彼の顔が、こちらをまっすぐ向いている。

 毎日の何気ない出来事を、日々のささやかな喜びを、ほらって手のひらに乗せて見せ合える。一緒に生きるということは、そういうことなのかもしれない。

 そうして、その手に乗せたものを、同じ笑顔で見つめ合えるひとが、一緒に生きていけるひとなのかもしれない。

 なら……それなら。

 わたしだってけっこういい奥さんじゃないの。

「よしっ」

 ぴっと緑の風船を指差しして、気合を入れて。

 洗濯機が止まるまで皿洗い。

 今日の皿洗いのお供は。

 西野カナの「あなたの好きなところ」だ。

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