しいたけ、取りましょうか。

新樫 樹

しいたけ、取りましょうか。


 数回目のデートで、少し雰囲気のいい和食屋さんに入った。

 ようやく春めいてきてはいたけれど、風はまだ冷たく残雪も多い。自然にメニューを見る目は鍋ものに向いた。

「これ、一緒にどう?」

 指を差されたのは、野菜がたっぷり入った海鮮鍋だった。お互いに肉よりも魚介類が好きなのはすでに知っている。

「おいしそう。いいわね」

 微笑むと、優しい目がにこりと微笑み返した。

 同窓会がきっかけで交際を始めた私たちは、もうとうに親族に結婚をあきらめられているような年齢で、こうしてお付き合いしてはいるものの、それがはたして実を結ぶのかどうかは自分でもわからない。

 彼は中学校の教員。私は看護師。

 お互いに自分の生活はきっちり自分で面倒をみられるし、上に何人か兄姉がいるから親の心配もしなくていい。友人もそこそこいるし趣味もある。

 結婚という言葉に、さほどの魅力や必要性を感じていない。

 それ以前に、優先順位はどうしたって恋愛よりも仕事が上に来る。

「そういえば、この間のこと、どうなった?」

 店員に注文を終え、手持ちぶさたにおしぼりをたたんでいると不意に彼が言った。

「お見合いのこと?」

「そう」

 気にしていないはずはないとは思っていたけれど、まるでいつもと変わらない様子の彼に、もしかしたらこの人は私がお見合いしてもいいのかしらなんて、ガラにもなく内心ぐるぐると煮詰まりかけていた私は、一瞬言葉に詰まった。

 ここ数年、まったく結婚という単語を親から聞かなくなっていたのに、伏兵はどこにでもいるもので、先週、近所のおばちゃんから突然見慣れたベージュの台紙を渡されて、不釣り合いに若いイケメンの男性の写真を見合い相手と紹介された。

 なんでも、男性の父親が突然病に倒れたらしく、家業の米屋を支えてくれるような嫁を大至急探してくれと、親戚であるおばちゃんに泣きついてきたらしい。

 子供のころからなにくれとなくお世話になっているおばちゃんの、顔をたてないわけにもいかず…。と言って、交際相手がいるのに、会うだけでもと見合い話を受けることができるような年齢ではない。

 もっとも、その交際相手を親族に気軽に紹介できるような年齢でもないのだけれど。

 言わないでおくつもりだった見合い話は、旧友を経由して彼の耳に入っていた。

「会うの?」

 珍しく彼は目を伏せていた。

 いつもまっすぐ顔を見て会話をする人なのに。

 だから表情がよくわからなくて、どういうつもりで言っているのか測りかねる。

「…会うわけないじゃない」

「そう…」



 恋の数は多くない。

 たぶん彼も。

 幼いころからの夢だった看護師になるまでは勉強に明け暮れ、なってからは仕事だけで手いっぱい。要領の悪い私には、余計なものを差し込む暇などなかった。

 そして彼もまた、夢だった教師の道をわき目もふらずにひたむきに歩いてきた人だ。教員生活が十年以上になった今でも、部活だなんだとろくに休みも取れないくらいに仕事漬けの毎日。

 こうして会うようになったのだって、明確なラインを踏み越えてのことではない。

「どうせ独り者どうしなんだから、付き合っちゃいなよ」

 数年ぶりに集った旧友たち。ほろ酔いのみんなに囲まれて、やいのやいのと言われて苦笑交じりに見つめ合った。

 週末、空いていますか?

 そう聞いてくれたのは、その場の空気を壊さないためだったのかもしれない。

 彼はそういう人だ。

 だから私もそれに乗った。

 会うたびに次の約束をして別れる。その繰り返し。

 けれど、しだいに気持ちは芽生えてきた。

 お互いに好きでもない人のために割けるような時間はない。

 男女の関係になるのも自然だった。

 ただそれは、燃え上がるような情熱や、激しい恋心とは違ったもので。

 たとえば、夜勤から帰ってきて浴びる熱いシャワーや、甘く入れたココア。担当の患者さんが亡くなられたときに必ず行く猫カフェ。給料日に買いに行く高級スイーツ……。

 私の生活の中で、確実に私を癒してくれる部分。避難場所。

 その場所に、今は彼も住んでいる。

 そこに住まわせておいて、本当にいいのだろうか。

 彼はそこにずっと住んでくれるつもりだろうか。



「お待たせいたしました」

 鍋が運ばれてくる。

 テーブルに備え付けのコンロに火がともされる。

 鍋にはすでに野菜も魚介類も入っていて、煮えるのを待てばいいだけだった。

 いい年をしてろくに料理のできない私はほっとする。

 ほっとしながら、鍋を作っている自分を想像してみようとした。

 けれども、仕事をしている自分は容易に想像できても、料理をしている自分はまるで思い浮かばない。

 鍋から上げた目が、ふっと彼の目と合った。

「…俺さ、しいたけ苦手なんだ」

「しいたけ?」

「そう。匂いも味もだめ。給食で出ると卒倒しそうになる」

「へぇ。知らなかった。そういうときは、どうするの?」

「食べてるよ。丸飲みだけどね。生徒に残すなって言っておいて、俺がしいたけ避けてるわけにはいかないから」

 言いながら、大きな体を不意にかがめて、そっと鍋の蓋を開けて見ている。

 やっぱり入ってるよなぁと、情けなく眉尻の下がった顔に笑いが込み上げる。

「先生も大変だね」

「ほんとだよ。でも、それが俺のなりたかったものだから。けどさ、気づいたら私生活でもしいたけ丸飲みしててさ」

「…?」

「しいたけって、けっこうどこにでも入ってるんだよ。不思議だけどな。嫌いだから気付くんだろうけど。だからいつも丸飲み」

 柔らかな苦笑。

 鍋から湯気が出はじめる。

「私は、フォアグラ以外なら何でも食べられるよ」

 あはははと軽やかな笑い声がはじけた。

「よかった。高級料理店に連れて行かないですむ理由ができた」

 ああ、やっぱりこの人はいい人だ…。

 好きというだけではダメなのだろうか。

 そうして一緒に生きるのでは、いけないのだろうか。

 結婚をゴールという人もいるけれど、ゴールテープの切れない関係は永遠にはなりえないのだろうか。

 くつくつ小さな音がする。

 土鍋の穴から蒸気が立ち上る。

 火を小さくしようと、テーブルについているつまみの目盛をのぞき込んだとき、いつもより少しだけ固くて低い声がした。

「俺のところに来るしいたけ、食べてくれないかな」

「え? いいよ」

「いや、そうじゃなくて…。食事するときは、いつも一緒にいて、しいたけ食べてほしい」

 ぽかんと彼を見つめてしまう。

 しいたけ? いつも?

「…あの……それは…」

「結婚は、俺にとってはそういうことだと思ったんだ」

 ぐっと、彼はグラスの水を飲み干した。

「きみと一緒にいてみて、すごくほっとする人だなぁと思うようになって。けど、今さらお互いが築き上げてきたものを捨てるなんてできないだろ。だから、俺が食べられないしいたけをきみが食べてくれて、夜勤明けのきみに俺がココアを入れる。それでいいんじゃないかと思ったんだ」

 だから、結婚してほしい。


 土鍋の蓋が鳴りだした。

 そろそろ開けなくちゃ。

 吹きこぼれそうなのは、私の気持ちだけじゃないようだ。

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しいたけ、取りましょうか。 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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