鈍器系男子の運命論
野谷トオル
鈍器系男子の運命論
序論 届かないラブレターを書いていた。
長い間……夢を見ていた。
とてつもなく長い時間、その夢と共に生きてきたような気がしていた。
夢の中の自分は悲しい、寂しいと、理由は分からなかったが、酷く泣いていて、酷く滑稽で、酷く愚かに映った。
幼い頃の自分は、その夢を恐れていて、己の弱さを叩きつきられているようだ。
子供という権限を振りかざしても上手く泣くことも出来ない人間だった。感受性の薄いはずの自らの精神を、深くふかく抉られるような痛みさえあった。
成長すればするほど、夢の中の物語は進んでいく。
もしかしたら、理想像に塗り替えていっていたのかもしれない。不確かな内容は、目覚めた時には重たい感情だけを残す。
ある日から、急激な幸福感を、与えられると共に、断片的なことを記憶するようになった。
大人に近づくにつれて、この幸福感が何かを悟った。
夢の中の自分は、長い手紙を書いていた。
届くことのないラブレターをずっと書いていたのだ。
***
「運命だ。」
コレが扉を開けて数秒で飛びかかってきた言葉だ。
先ほどは好みのタイプだと熱を上げていた相手だったが、そんな言葉に喜ぶほど、千花の頭の中はお花畑じゃない。
目の前の男は、興奮しながら頬を染め瞳を潤ませた異常者だ。そんな輩が、初対面同然の女子高生に「運命だ」という異常事態に遭遇すれば、百年の恋も冷める。
「あの、
「ずっと会いたかった」
「いえ、先ほど、数分前にお会いしました」
「そういう意味じゃないんだ……ずっと、君を探してた」
彼は、しどろもどろになりながら手を取った。
十は下の女子高生に、言いよどむ美丈夫の姿は奇妙だ。口から伝う言葉は吐息混じりに聞こえてきて、少しの不愉快さを感じる。
彼には、確認して欲しい事項が一つある。
ここは、一般家庭が住まう分譲マンションの、一室。
しかも、廊下である。
伝説の桜の木の下でもなければ、壮大な神殿でもないし、天界の牢獄でもない。
千花は夢見る恋するうら若き17歳の乙女なんて言うタイプじゃない。若さ特有の痛さを持ち得ていれば、語尾に星を飛ばして彼の言動に乗っかっていたかもしれない。
目の前の男は、好みを差し引いても美しい男だろう。
整った鼻梁に、切れ長の瞳は怜悧で理知的だし、長い手足はモデルのようで、スタイルも引き締まっている。
着ているスーツだって、叔父が着るより遥かに似合っているし、センスも良い。
しかし、現実世界じゃ電波じゃお話にならないのだ。
例え、大企業の大きな出版社だとしても、全く意味がないのだ。
初対面の少女に運命だと、独り言でも吐き捨てる男を電波じゃないとすれば、控えめに言えば変な人だと思う。
千花の中で正直に吐き捨てるならば、只の変態だ。
「手、離してもらっていいですか?」
あくまで、ソフトにお手柔らかに打診した。
彼は叔父の仕事相手だ。此処で女子高生らしく「キモい」と手を振り払ってしまえば、何かと後が面倒だ。分別のある"大人"を気取った千花は、表面上の嘘くさい笑みを浮かべておく。
千花は面倒なことを避けるためならば、聞こえないふりも、見ない振りもする狡猾さを持ち合わせている。
「君の名前を聞いても良いか?」
「……
「チカさん?君は、チカという名前なのか?」
「そうです。とにかく、リビングに叔父が待っておりますので」
嬉しそうに千花の名前を口の中で転がし、妙に確信めいている様は意味が分からなかった。
千花はこの男と会った記憶などないのに、この男はまるで知っていたかのように振る舞う。
それが不思議でならないし、気味が悪いとも思わない自分も、少し可笑しくなったのかもしれない。
口の端をひきつらせて、男と目を合わせた。
その時に、初めてちゃんと彼の目を見た気がする。
「えっと、たしか真壁さんでしたっけ…?」
「そうだ。
最初こそ、無機質で、美しさ故の荘厳な雰囲気を持っていたような気がする。
話せば話すほど、彼の空気は、やけに柔らかで、甘いものに変わっていく。その急激な変化に、千花は全くついていけない。
名前を呼んだだけで、目を合わせただけで、うれしそうに微笑まないでいただきたい。
「ずっと会いたかった」
「先ほどで初対面ですよね…?」
「さっきの事じゃない、もっと昔から」
「もっと、昔?あのすいません、ちょっと…手離してください」
この言葉の数々が、日常をぶち壊してしまうような強力な鈍器の一部になることを、この時の千花はイマイチ理解していなかったのだ。
千花は子供で変に大人の部分だけ、持ち合わせている厄介なこどもだ。
どれほど大人ぶっても、経験値は子供なのだ。
「やっと見つけたんだから、手離すわけないだろう?」
「貴方と会ったの、先ほどが初めてだって言ってるでしょう!?」
こうして、すぐに感情を燃やしてしまう。
男から向けられる重たい鈍器的な感情は、千花の心臓を確実に、叩き壊しに来たのだろう。
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