第20話 甘くて苦い ~春/椿 (最終話)
卒業式は明日だというのに、気持ちにはもうすでにぽっかりと穴が空いたようだ。
飾り付けの済んだ校舎は、まるで卒業生を押し出すためだけに存在しているかのような建物に見えた。三年間ここで過ごしていたのだから愛着が湧くかと思ったのに、お別れとなるとそんな風に感じるものなのだろうか。
この時期、他の入試組の生徒に比べたら、私は暇な方だった。
前期試験は、先生が卒業したのと同じ地元の大学の理学部を受けた。将来は、得意な生物を生かせるようにと考えてのことだ。そこには初め、生物の成績を上げて先生に褒められたいという不純な動機もあったのだけれど、本人には気付かれてはいない。
後期試験も同じ学部に出願したが、改めて筆記や面接試験などはない。国立大一本に絞るというのは前々から決めていたので、あとは卒業式から数日後に行われる合格発表を待つばかりの身だ。
校舎が冷たく見えるのは、私の持って行き場がない心のせいかもしれない。私は、小さく首を振ってまた歩き出した。
生物準備室を二度ノックする。はい、という低い声がしたのを確かめてから、私はドアを開けた。
「失礼します」
ドアの向こうには、これまでに数え切れないほど見ているのに見飽きない風景が、いつものように広がっている。分厚い遮光カーテンに包まれた室内。ガスバーナー、金網、三脚台という先生独自のコーヒーグッズが、蛍光灯の青白い光に照らされていた。
大きなスチールのデスクに向かっていた先生は、一つ伸びをして私の方を振り返った。それから、立ち上がるとパイプイスを一つ出し、私に勧めてくれた。
私の顔を覗き込んだ先生は、意外そうな表情を浮かべていた。
「どうした、うかない顔だな。あれだけ解ければ大丈夫と、言っただろう」
彼が言うのは、前期試験の自己採点結果についてだ。すでに、先生と答え合わせを行っていて、ボーダーラインは余裕で超えているだろうというお墨付きをもらっている。
違います、と言うと、「まあそうだろうな」と彼は当然のように答えた。粉砕済みのコーヒー豆をフィルターに入れながら、話の続きを振る。
「では、校舎を見納めているうちにぐっときたとでも?」
「いえ。学校に用事があるわけではなかったんです。でも、家でひとりでいろいろなことを考えているうちに、じっとしていられなくなって」
「いいか、藤倉。……そういうときは、嘘でも『先生に会いに来ました』とでも言いなさい」
さらりと教師らしからぬ発言をして、先生は顔色一つ変えずにメガネを直した。シルバーのフレームが、鈍く輝く。
私は先生の突然の攻撃に恥ずかしさで赤くなりながらも、内心は大いに励まされていた。最近の先生はこんな冗談も普通に口に出すようになって、嬉しい反面、意表を突かれて少しだけ悔しく思うことがたびたびあった。せっかく構ってもらったのだからと、私は敢えて棒読みで繰り返してみる。
「先生に会いに来ました」
「こら、復唱するな」
意地悪しすぎたと思ったのか、先生は作業の手を止めて椅子に座り直した。そして、さっきまでよりも柔らかい口調で私に尋ねる。
「……それで、本題はいったい何だ?」
「えっと――」
そこで、私は今日、何をしに来たのだろうかと改めて考えてみる。
本当のところ、心を覆う寂しさの原因は、私自身が『生徒の私』に持っている複雑な感情のせいだと、充分理解しているつもりだ。ただ、分かるのと、心に折り合いが付けられるのとはまた別の問題で――。
先生を想うとき、生徒という肩書きが壁になって泣いたこともあった。けれど、私が生徒であったからこそ、先生と出会うことができて、今に繋がっている。その甘さも苦みも、捨て難い思い出なのだ。
「やっぱり、先生に会いに来たみたいです」
ありったけの感慨を込めて、当たり前のことを私は先生に告げる。
「うん」
先生は静かに頷いて、私に続きを促す。はじめは怖いと感じていた切れ長の目が、今はこんなに優しい。今日は、それだけで涙が出そうだった。
学校での先生は、私との距離が近づいても度を超えた優しさは決して見せないようにしていた。もちろん、それは周囲に私たちのことを勘づかれないよう、人目を気にしてのことだ。
私も、学校では先生に必要以上に近づかないようにしていたつもりだ。生物準備室に来るのは、授業や進路、部活のことで相談したいことがあるときだけに絞っていたし、なるべく他の生徒や教師に見られないように訪れるようにもしていた。
ここ一年間、私たち一部となっていたその骨折りも、明日で終わってしまう。彼の生徒だった私は、明日でいなくなる。
「卒業すれば、今までよりも自由に会えるのは嬉しいと思ってます。……でも、私、まだこんなに先生の生徒でいたいと思ってるのに、卒業しなきゃいけないんです。終わってしまうのがもったいないくらい、愛しい三年間だったんですよ? 明日で終わっちゃうなんて、寂しすぎます」
「うん」
「それを、先生に聞いてもらいたくて――」
にわかに視界が暗くなったかと思うと、熱くなりかけていた私よりも低い体温が頭の上に乗った。
顔に似合わず無骨な手が、私を撫でてくれていた。その手は三度、四度と頭を滑ると、下ろしたままの私の髪の束を弄び、去って行く。
「三年で、ずいぶん髪が伸びたんだな。似合う」
先生はそう言うと頬を緩めた。いつの間にか、ごく自然に笑顔が出るようになっていた先生。その表情、大きな背中を目で追うようになったのは、一体いつからだったろう。
私を見つめたままでしばらく黙っていた先生は、やがて考えがまとまったのか、一つ深呼吸をすると少し身を乗り出して口を開いた。
「いいか。……三月いっぱいは、まだ君は『高校生』だ。四月になっても、私の教え子であること、それに、大事な人であることにも、変わりはない。君と俺は、明日が終わってもずっと続いていくんだ」
先生の目は恐ろしいほどに真剣で、熱い。ゆっくりと諭すように――まるで授業で話すときのように、一つ一つ言葉が重ねられていく。
「あ、ありがとうございます。でも」
私を遮って、「分かるさ。しかし、俺は困る」と先生は腕を組んだ。
「君に卒業してもらわないと、いろいろな問題がいつまでたってもクリアできないだろう。君の思いももっともだが、俺にとっては、椿が生徒だと不都合なことばかりなんだぞ」
「え?」
「君は今さら説明しなくても知っているだろうが、俺にも我慢の限界はあるんだ。そして、その限界はかなり近いぞ。四月になったら覚悟しておくように。これまでに溜まったツケの分、嫌というほど――嫌と言っても連れ回すからな。寂しいと思う余裕など、与えてやるものか。……だから、安心して卒業しなさい。以上だ」
私はすっかり気圧されてしまい、しばし呆然としていた。これほど熱っぽく心の内を吐き出す先生の姿は久しぶりだった。そして、時間が経つにつれて、今度は喜びが込み上げてくる。
「ありがとうございます。ツケをちゃんと払うには、まずは卒業しなきゃ、ですよね」
「そういうことだ」
きっと、先生の言うとおりだ。
彼の目は、春を見据えている。四月になれば、先生は私にたくさんのものを次々と与えてくれることだろう。密度の濃い日々が、飛ぶように過ぎていくのだろう。
そんな幸せを目前にして、私は足踏みしていていいのだろうか。私も早く明日からのことを考えないと、先生に置いて行かれてしまうのではないだろうか。
試しに、合格発表よりもちょっと先のことに目をやってみる。
「そうですね。とりあえずは、ちゃんと先生の後輩になれるといいんですけど」
「充分合格圏内だ。心配ない――っと」
先生は何故か突然咳き込むと、いつもよりもやや高めのトーンで続けた。
「まあ、万が一のときには、永久就職という手があるしな」
それは誰がどう聞いてもプロポーズだったのに、かなりの間、私は言葉の意味を飲み込むことができずに固まっていた。それにも関わらず、先生は私を見つめ、穏やかに微笑んでいる。
我に返ったときには、卒業式や入試の結果のことなど、どこかへ吹っ飛んでしまっていた。許容範囲を超えた問題に、私はといえば、間の抜けた答えを返すだけ。
「……理雪さんのところに? それって、結婚を前提に、ってことですか」
「繰り返すな、照れくさいだろう。……俺はずっと考えていたんだが。そんなに驚くことか?」
「お、驚きますよ!」
半ば悲鳴とも聞こえかねない私の声にも、彼は動じることなどなかった。むしろ、その顔が見たかったんだと本当に嬉しそうに笑う。
「だって、まだ先生はうちの親にも紹介してなくて!」
「家庭訪問に行っただろう?」
「それは学校行事なんだから、当たり前じゃないですか!」
つい声が大きくなってしまう。それに比べ、それを軽々と交わす先生は余裕の表情で、私を余計に焦らせる。
今さらになって、目の奥が熱くなり始めていた。
先生と一生一緒なら、想像もつかないほど素敵なんだろうな――私も、本当は心のどこかで、ぼんやりとした覚悟のようなものは持っていたのだと思う。ただ、先生のように、それを言葉に出す勇気ときっかけがなかった。
それにひきかえ、八つ年上のこの人は、人生を左右するような話の直後なのに、こんなにも落ち着いている。まさか、高校生活の最後の最後に、彼が大人で私が子供だということをこうも思い知らされることになるとは――。
今、子供の私にできる精一杯は、先生の気持ちに素直に答えることだけだ。
「分かりました。……そんなことを言われたら、本気にしますよ。いいんですか」
「結構。それなら、俺も本気で応える」
先生は言い切ると、窮屈そうに背中を曲げて、顔の高さを私に揃えてくれた。今度はさっきまでとは正反対の、まるで挑みかかるような強い視線が私に降り注いでくる。
「君は昔、自分が椿になれるのは俺の隣でしかあり得ないと言ったな」
「はい」
「それを思い出して、決めたんだ。それなら俺は一生、椿の傍らで溶かされていきたい、と。俺を溶かすことができるのは、君だけだからな」
彼は、言い終えた後も私から目を逸らさなかった――少年のようないたずらっぽさを乗せた瞳だった。その心はすでに凍り付いた根雪などではないということに、先生は気付いていないのだろうか。
それなら、私が彼に伝えよう。
私はいまだ同じ高さにいる先生に素早く近寄り、目を丸くした彼とそっと額を合わせた。さっき誉められた私の髪と、先生の髪とが触れて、微かに音を立てる。
「……溶かされてるのは私の方です、理雪さん」
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