第11話 影絵遊び ~春/理雪

 早春と呼ばれる時期はとうに過ぎたと思っていたのに、防火扉の外は『春は名のみの』という歌がぴったりの冷たい風が吹いていた。見上げれば、紅葉の木の向こうに透ける空は綺麗な夕焼けで、真ん中に一筋、風で乱された飛行機雲が残っている。

 俺の手には、夕焼けに負けず劣らず鮮やかなオレンジ色のマグカップ。最後に残った一口はもう冷えて生温くなってしまっていたが、飲み干してから改めてカップを見直す。『先生にはオレンジが似合う』と言い張られて押し切られたような格好で買ったものだが、使い勝手もデザインも今ではすっかり気に入っていた。

 水色から茜色へと変わりゆく空のグラデーションは、独り占めするにはもったいない。

 そう思ったところで、金属がきしむ音が耳に入った。聞き慣れたこの音だが、新年度になってから鳴らされるのは初めてだ。

「先生、こんにちは。夕焼け鑑賞中ですか? ……わあ、影も背が高いですね」

 すっかり空になったカップを手に振り返った俺の足下から影が伸びて、訪問者のところまで届く。重い扉を両手で押し開け、眩しそうに目を細めるのは、藤倉椿――カップを見立てた人物であり、私の教え子であり、そして俺の彼女――に間違いなかった。

「どうした? こっちに来なさい」

 俺が、顔を半分のぞかせたまま周りの様子をうかがう藤倉に声を掛けると、彼女は安心したのか開いた扉の隙間からすり抜けるように外へ出てきた。他人に見つからないようにとの配慮だろうが、かえってそれが怪しさを醸し出している。まあ、どっちにしても今は誰もいないのだが。

「新しい参考書を買ったんですが、答えを見てもさっぱり分からなくて質問に来ました」

 今日は、生物の問題集を持参しているらしい――と言ってしまうと普段はしっかりした理由がないかのようだが、俺の所に来るときの彼女は何かしら相談事を持ってきている。その頻度も前とほとんど変わりはない。会話の中身が多少『恋人』のそれに近くなったことを除けば、俺が職権を濫用しているわけでも、藤倉が甘えすぎているというわけでもないのだった。

 そろそろ志望大学を絞り込み始める時期だ。今年一年は、これまでよりもここに来る機会が増えるかもしれない。それは、校外ではなかなか一緒の時間が取れない二人にとって嬉しくもある。

 藤倉は俺のもとまでやって来ると、手にしていた本を付箋を頼りに開いてみせた。どうやら本当に悩み抜いたのだろう、俺を見上げる彼女の眉は『もう降参だ』と訴えている。

「問五がわからないんです」

「貸してみなさい」

 俺は、空のマグカップを彼女に持たせると、まだ折りぐせのついていない真新しい参考書を受け取る。赤と青のペンで入れられた丸っこい小さな字の注釈は、いつの間にか覚えてしまった彼女の筆跡だった。

 おや、と思わず口に出して、一旦本を閉じて表紙に目を落とすと、俺はメガネをずり上げながら言う。

「ああ、これなら私も持っている」

「先生も、参考書買うんですか?」

 藤倉は相変わらずの小動物のような表情で首を傾げた。

「評判のいい参考書や、入試の定番と言われるものは大抵持っているんだ。……この他にも何冊かはめくったんだが、ざっと見たところこれが私の板書に最も近いまとめ方で、練習問題も適度な難易度だ。藤倉は見る目がある」

 打ち合わせもしなかったのに、まるで示し合わせたように気が合ったのが面白くて、俺は少しだけ満足げに言った。何冊かの中でこれがいちばん俺の授業内容に似ていたのだが、きっと藤倉も同じことを思い、この本を手に取ったのだろう。

 一方、本気だか冗談だか判断しにくい言葉に面食らったのか、藤倉は「今、私、誉められたんですか?」と、やはり目をくるくるさせている。こんなことを言うと彼女は怒るかもしれないが、まん丸い目でパチパチと瞬きをしながら俺を見上げる仕草は、尾を振っている犬を連想させた。しかも、きっと垂れ耳の子犬だ。

「誉めたつもりだぞ」

「でしたら、これにして良かったです。読み比べ、結構悩んだんですけど、その甲斐がありました」

「ああ。あとはちゃんと理解することだ。……さて、と。君は相変わらずこのあたりの問題が苦手と見える」

 心の中で『よしよし』と毛並みを撫でつつ、一旦仕切り直すと再び付箋のページを開く。隣でそれを覗き込んでいる子犬、もとい藤倉の姿を確認し、俺は問題を指で辿りながら説明を始めた。



 彼女が詰まった問題の要点を一通り話しているさなか、藤倉がそっと腕を宙に伸ばしたのが見えた。彼女の胸の高さあたりで、開いた手のひらがゆらゆらと動く。俺の話を聞いているのかいないのか――おそらくは聞いていないのだろう――すでに視線は参考書の上にはなかった。

 はじめはさっぱり理解不能だったその行動。しかし、藤倉の目を辿ると何を思いついたのかはすぐに分かった。

 オレンジに染まった地面には、ぼやけた輪郭ながらも二人分の長い影が落ちている。その彼女の手の影と、参考書を支える俺の手の影とが、まるで本当に触れ合っているかのように重なった。何食わぬ顔で解説を続けながら藤倉の表情を盗み見ると、ささやかな笑みが浮かんでいる。

 やがて藤倉は、半端に空中へと差し出した手を何ごともなかったかのようにこっそり元に戻した。

「次に、イモリの目の水晶体は表皮から誘導されて」

 俺も、平静を装いながら模範解答例を示し続けるが、頭の中はそれどころではない。

 彼女の悪戯を『かわいらしい遊び』とは言い切れない自分に気付いて、ぎくりとした。考えてみれば、想いが通じてから一月あまり、彼女とまともに手を繋いだことなどなかった。もしかして、ずっと、言い出したくても言えなかったのだろうか。俺はこの幸福に浸りきってしまって、藤倉をしっかり見ていなかったのではないのか。俺自身、その辺りを汲み取る能力が他人よりも低いのは承知しているから、もっと頑張らなくてはいけなかったのかもしれないと自らを振り返る。

 俺は、再び足下を眺めた。さっき、藤倉は俺を『影も背が高い』と言ったが、一方の彼女は影になっても可愛らしいサイズだ。

 似合わないのを承知でセンチメンタルに過ぎる表現をするならば、シルエットになってしまえばただの二人。そこには年の差も立場の違いもなく、藤倉にとっては気持ちを自由に、素直に行動に移すことができる場なのだ。

「……角膜が誘導されないから、完全な目にはならない。以上で、説明終了だ」

 恐らく彼女は右から左へ聞き流しているだろう説明を、俺も上の空でただ垂れ流し終える。

「良く、分かりました。ありがとうございます」

 藤倉はいつの間にか後ろに組んでいた両手を慌てて差し出すと、参考書を受け取った。神妙な面持ちで頭を下げる彼女に、俺は笑いを噛み殺しながら厳しい顔を作ると、すかさず返す。

「集中力に欠けるな。途中から聞いていなかっただろう」

「……そんなこと、は」

 そう深く突っ込んで尋ねたつもりはなかったが、藤倉は耳まで赤くして俺のネクタイの結び目あたりに視線を漂わせる。普段なら、首が折れるのではないかとこちらが心配するほどに見上げるはずの彼女が、俺と目を合わせようとはしない。その様子は明らかに不自然で、さきほどの影絵遊びを見ていなくても、きっと何かがおかしいと気付いただろう。

 そう。

 よく見れば解ることなのだ。

 要は、幸せに浮かれていた俺の観察力不足で、彼女の望みに気がついてやれなかったという、ただそれだけの話。ならば、今からだって俺からもっとしっかり触れていけばいい。

 叱られたと思ったのか徐々に後ずさりし出した藤倉に、俺は素知らぬふりで怪訝そうな顔をすると「どうした」と聞き返した。

「べ、別に、何でもない……です」

「それなら、そんなに逃げる必要はないだろう」

「先生が迫って来るから、下がってるんです」

 動揺しきった彼女は、俺のネクタイに目線を固定したまま、さらにじりじりと後ろへ退いて行く。そのまま行くと、紅葉の木にぶつかるコース取りだ。

 下がり続ける藤倉とは逆に、俺は離れた分を取り戻そうと一歩、また一歩前へと出ていく。当然、リーチが長い俺の方が距離を稼ぎ、ふと見ると二つの影法師は今やすっかり重なっていた。からかってみたくなり、地面を指差してみる。

「影、見てみなさい」

 一瞬だけ影に目をやったかと思うと、すべてを察した彼女は抱えた参考書をで顔を隠すようにしながら悲鳴に近い声を上げた。

「も、もしかして見てたんですか、先生!」

「しっかりと、な」

「やだ……」

 藤倉はもう逃げ場はないと観念したのか、ついに紅葉の幹に背中を預け、今にも消え入りそうなボリュームで独りごちた。もはや涙目になりかけている彼女の顔は、夕日に照らされてますます紅い。そんな表情を見られるのも自分だけだという妙な満足はあったものの、今日はちょっといじめすぎた。これではまるで小学生だと、さすがに罪悪感に襲われて俺は目を細める。

「すまない。……度が過ぎたな」

 藤倉は俺の追求が緩むと、深呼吸をしたり、火照った顔に手を当てたりとクールダウンを始めていたが、たっぷり数分をかけて何とか復活を果たし、今度はちゃんと俺を見上げた。潤みがまだ退ききっていない瞳で、彼女は恐る恐る俺に尋ねる。

「恥ずかしいです。……先生、呆れてますか?」

「いや。呆れる必要などないだろう。君が、心からそうしたかったのなら」

 よかった、と吐息混じりの声がした。

「君が気に病むことなど何もない。考えてやれなかったのは、こちらだからな。……今度からは、とにかく口に出しなさい。年上だから、教師だからと遠慮をしないこと。節度の範囲内で、出来る限り叶えるから」

「は、はい」

 微妙に畏まってしまったように見える藤倉を見て、反省する。言い方が硬い。そして、無駄に偉そうだ。まずは俺のほうから、変わっていかなくては。

 できるだけ不自然にならないように気を付けながら、俺は彼女の目の前に手を差し出した。

「影が重なったって、温かくないだろう?」

「え?」

「俺と触れ合うことが君の幸せだというのなら、素直に言ってくれ。いくらでも応えるから。……さあ、校舎までの間だけだが、手を」

「はい!」

 藤倉はぱっと綻んで、まるで子供のように無防備に手を宙に差し上げた。その手をしっかりと受け止めると、向こうからもきゅっと握り返される感触がある。ただそれだけで、彼女がどんなにこの瞬間を待ち望んでいたのかが、俺には分かってしまった。

「先生の手、大きい」

 感動したように、彼女はぽつりと漏らした。俺も彼女に倣って、何も言わずに指に力を込める。きっと、藤倉にはそれで充分伝わっただろう。

 初めて意識してちゃんと掴んだ藤倉の手は、こちらまでとろけてしまいそうな柔らかさで存在を大いに主張していた。繋いだところから、彼女の胸の内が俺に染み渡ってくるような不思議な感覚。手を繋ぐという行為がこんなにも満ち足りた気持ちを運んでくるなんて、俺は今まで知らなかった。触れてみないと知り得ないことが、この世にはまだまだあるのだ。

「温かいからでしょうか。何だか、安心しますね」

「これは、癖になるな」

「駄目ですよ、見つかったら――」

「言わなかったか。私は、不良教師なんだ」

 藤倉は困り切った表情で、それでもまた俺の手を握り返してきた。冷たい風が逆に彼女の温かさを強調してくれて、何とも言えずくすぐったい気分になる。その心持ちには、ここが校内だという事実――スリルのようなものも少なからず影響しているように思う。まさに、不良教師といったところだ。

 踏み出すごとに、一、二、三と、藤倉が小さな声で歩数をカウントしているのが聞こえる。それに合わせてできるだけゆっくり歩いてみたが、残念ながらそう広くはないこの場所。たった十数歩ほどで校舎の入り口、いつもの防火扉に到着だ。

「もう終点ですね。……わがまま聞いてくださって、ありがとうございました」

 残念そうに言いながらも、俺を見る藤倉の顔はにっこりと笑顔だった。その晴れやかな表情に、俺の心が膨らむ。今にも失われようとしている温もりをもっと味わいたくて、やや名残惜しそうに手をほどこうとする藤倉に、俺は囁いた。

「さっきの問題、もう一度解説し直そう。準備室に来なさい」

 ――今日だけ、職権濫用は許してもらおう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る