番外編 桜パノラマ
生物準備室のドアを開けると、薄暗いはずの部屋が今日はやけに明るい。
この部屋に入り、眩しくて目を細めたなんてことは初めてだったから、太陽の光のせいだと気付くのに遅れた。いつもは閉ざされているカーテンが細く開けられ、先生がそこから外を覗いていたのだった。
生物の実験に必要な器具や薬品が置かれたこの部屋。それらが日光で劣化するのを防ぐため、通常、窓はいつから使われているのか分からない古ぼけた遮光カーテンで覆われている。
私に気付いた先生は、カーテンを素早く、しかし丁寧に閉めて椅子に腰掛けた。ぎしぎしと金具が軋む音がする。
「藤倉だったか。……ノックをしなくては駄目だぞ」
「ちゃんと、しましたよ。お返事がなかったので」
私が頬を膨らますと、先生は表情も変えず「それは悪かった」と言った。
「今、カーテン開けてましたよね? 何を見てたんですか」
「俺には見えて、藤倉には見えないものだ」
まるで禅問答だ。
私は首を傾げた。見えないものを見ているとは、いったいどういうことだろう。
もしかして、先生は特殊な能力を持っていて――例えば、俗に言う霊感なんてものだ――普通の人には見えないものが『視えて』しまうのだろうか。眼鏡を通してしか目に映らない何かを視た、なんてことは?
逆に、私が知らない、そして見えないくらいに小さな生き物を、先生は発見したのだろうか。生物の先生なのだから、そっちのほうがまだ納得できる気がする。
――どっちにしても、あまり気持ちのいいものではなさそうだ。
私はそう結論づけて、肩を落とした。
「相変わらずの百面相だな」
先生は額に手を当てて表情を隠してしまった。その大きな手の下から僅かに見える口元が、歪んでいる。どうも、笑いをこらえているらしい。
しばらくしてその笑いの波が引いたのか、先生は何食わぬ顔をして尋ねた。
「……何を見ていたか、想像は付いたか?」
「分かりません。でも、あんまり見たくない――もの、かなと思います」
「見たくない?」
「はい。……あの、幽霊とか、ちっちゃい虫とか、ですか?」
「どうしてそんな結論になったんだ」
先生は、今度はこらえきれずに声を震わせた。
先生が小さな椅子――実験室をだいぶ前に引退した、古びた木の椅子だ――を出してきてくれたので、私はこわごわそれに乗った。私にとっては十分に高い踏み台。安定が悪く、ぐらついている。本当は先生に支えて欲しい程度には心細いけれど、そう頼むのも恥ずかしい。
さっき先生がしていたようにカーテンをそっと開けた。とたんに光が目に飛び込んできて、私は思わず怯む。咄嗟に閉じた目蓋をじりじりと上げていくと、普段はあまり見る機会がない準備室の外が見えた。
甕覗の空に、白よりは少ししょんぼりした鼠色の雲が浮いている。校舎の端にある実験棟は生徒の通り道ではないから、人影はまったくない。いつもの紅葉はここからは見えないものの、他の木の梢が窓のすぐそばまで届いていた。
やや枯れた静かな雰囲気は、確かに先生が好きそうな風景だな、と思う。しかし、『先生には見えて、私には見えないもの』の正体は謎のまま。
「どうだ?」
「さっぱり分かりません」
「そういう表情も」
なかなか面白いな、と先生は小声で続けた。
今日は先生と同じ高さなので、その顔も声も、いつもより少し近くてどきりとする。相変わらずあまり表情を動かさない先生だけれど、なんだか意地悪そうに見えるのは私の気のせいだろうか。
「……もういいです」
「まあ、待ちなさい。……教えたくなかった。今は」
「今は?」
「一度見えると、納得するはずだ」
私の問いかけには答えず、先生は自らカーテンの隙間を広げた。さっきと同じ光景。もう眩しくは感じないが、目をこらしても見えるものは変わらなかった。
先生はカーテンだけでなく、窓までも開けた。細く開いた窓から冷たい風が吹き込み、私は身震いする。
窓から手を伸ばした先生は近くの枝の先を掴み、引き寄せた。先生でなければ届かない高さの枝だ。
「これを見ていた。オオヤマザクラだ」
「あっ」
先生に教えられた瞬間から、私にも桜の木が『見えた』。
それまではただの木だったものが桜になり、目の前に現れたのだ。木の肌に桜特有の模様が見える。僅かに枝に残った葉は――。
「桜餅の葉ですね」
「……藤倉らしいな」
先生が手を離すと、枝はそれを待ちかねていたかのように、勢いを付けて元の位置に戻っていった。
窓を閉め、カーテンも元通りにすると、先生は私の方へ手を差し出した。その手を借りて、私も踏み台代わりの椅子から降りる。先生との距離が遠くなってしまうのは勿体ないけれど、仕方ない。
定位置の机の前でいつもの仕事用の椅子に座り、先生は植物図鑑を開いた。私が『桜』と聞いて思うのは白に近い薄桃色だが、先生はそれよりもかなり鮮やかなピンク色の花を指差す。
「防火扉のところのモミジと同じで、昔から自生していたものをそのまま残しているらしい。ソメイヨシノとは違う濃い色の花が、とてもいいんだ」
「見てみたいです!」
さっきの枝には小さな蕾がたくさん付いていたが、まだ小さく固く締まって花にはまだまだかかりそうな様子だった。
「咲いたら見せようと思っていた」
先生は僅かに悔しそうな色を滲ませながらぽつりと漏らした。それはつまり、咲くまでは内緒のつもりだったという意味だ。
こっそりカーテンを開けて外を確かめる先生の姿。さっきだって、私に見つかって本当は焦っていたはずだろうに、知らん顔をして妙な謎かけ――見えるのに見えないもの――を繰り出した先生。あれは多分、はぐらかそうとしていたのだろう。
――まるで子どもみたい。
私の顔は桜より先に綻んだ。
暖かい春はもうここにある。あとは花を待つだけだ。
「じゃあ、一緒に待ちませんか。待ち遠しさも、咲いたときの嬉しさも二倍、っていうのはダメですか?」
「それは正確ではないな。恐らく――」
先生は何か言いかけたが、結局眼鏡を直しただけで無言のままだった。そして、その手を顎にやり、考え事を始めた。こうなると長いことを知っているので、私も黙って待つことにする。
今は午後だから暖房も効いているが、もともと夏でも薄暗いこの部屋は、冬の朝などひたすらに寒い。それでも、窓の外では少しずつ季節が進み、花は誰も知らぬ間に春の準備をし始めている。先生の涼しげな表情に隠れた心が、心地よいくらいに温んでいるのと同様に。
やがて先生は顔を上げた。
「理系らしくないことを言えば――恐らく倍以上になるぞ。……藤倉の見る世界は、俺とは違う。だから、ひとつひとつ、俺と君と、二人のものにしていきたいと考えているんだ。俺のことを言うならば、『藤倉と同じものを見ているんだ』と思った瞬間に、急に目の前が明るくなって視界が開ける。きっとそれは、君と繋がったあたらしい世界を見ているのだと、俺は思う」
「私も! ……私もそうでした。先生と同じ目の高さで外を見て、先生に『桜』って聞いたとたん、桜が見えるようになって。だから今のお話、すごく分かります」
満足げに頷いた先生は、少しだけ顔を傾けて私を見つめた。
「俺も何度か藤倉の視点を経験したが、新鮮でなかなかいいものだ。……君もちょくちょくやってみればいい」
先生はしばしば、しゃがんだり、時には跪いたりして私の高さで話してくれる。私も先生の高さに――例えばさっきのように椅子に乗れば、先生の見ている世界に少し近づけるかもしれない。実際、桜は見えたのだから。
「私、踏み台に乗ったらいいですか?」
「いや」
椅子を取ろうと立ち上がった私の足の下から、不意に地面が無くなった。おかしいと思う間もなく着地したのは、何か温かいものの上だ。背中に感じるのは、少しごつごつした感触の背もたれ――ではなく、ネクタイとスーツの凹凸。バランスを崩しそうになってしがみついた場所は、スーツの腿の辺りだった。
私は、先生の膝の上にいた。
「……あ、あの――」
「これが、今の俺が見ている風景だ」
低い声の振動がダイレクトに背に伝わり、私は思わず身を竦ませた。それがおかしかったのか、ふっ、と先生がかすかに息を吐いたのが、やはり背中で分かった。
私のいつもの座高より、数十センチも高い位置からの視界。眼下に広がる、と言うと少々大げさだけれど、見下ろすすべてのものが普段とは違う角度で、新鮮だった。それと同時に、自分が先生の目になっているような感覚にもとらわれる。先生から私はどう見えているのかと想像して、笑えてしまった。
「何だ?」
「先生は、私の頭のてっぺんばかり見せられてるんだろうなって」
「そんなことはない。君が考えているよりも、俺はいろいろと見ているぞ。……目が、追ってしまうからな」
「そ、そうなんですか?」
「どうかな」
どちらとも取れない台詞を残して先生は黙った。私からは見えないけれど、してやったり、という顔をしていることだろう。どちらにしても、言われた方の私は恥ずかしくて耳まで熱い。
「これ、素敵ですけど、ちょくちょくは――無理です。心臓が持ちません」
「それは残念だ。……下ろすぞ」
脇にすっと手が差し入れられて、私は元いた椅子に戻された。さっきは突然すぎてそれに気付かなかったが、抱きかかえられていたのだと理解してさらに熱がのぼる。
落ち着く高さになって我に返ってみれば、目の前は私の世界。しかし、そこは確かに先生と繋がっていて、優しさに満ちていると、今は分かる。
「春はまだ遠いが、楽しみが待っているとなると冬を耐えなくてはな」
カーテンの方へと目をやり、先生は言った。ちょっと声が高く感じるのは、待ち遠しさの現れだろうか。
先生からもらった小さな蕾は、二人の蕾になって膨らんでいくのだろう。私はまだ見ぬ桃色の花を思い描き、先生に重ねた。
自らの胸をそっと押さえて、私は告げる。
「もう、春はここに」
「……それは、あたらしい」
先生は目を細めた。やや上気したその頬は、一足早い春の色だった。
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