第3話 洗濯あるいは散歩日和 ~高校一年・秋/椿
「あ、若柳先生!」
青空の眩しい、土曜日の昼過ぎ。部活の練習も終わり、今日は蔦ちゃんと二人でいつもの防火扉から顔をのぞかせると、白衣の後姿が視界に入ってきた。紅葉の下に立つ白衣の人物なんて先生しかいないはず。そう思って呼びかけたのに返事は無い。
「ちょっとちょっと、何ボケてんの椿。若、いないよ」
友人の突っ込みによく見れば、肝心の中身が入っていない。
「あれ?」
「無理ないけど。この黒衣、間違いなく若のだもん」
そこには、枝からハンガーで吊り下げられた白衣だけが気持ちよさそうに風に揺れていた。ちょうど先生が白衣を引っ掛けたのと同じくらいの高さだったので、見間違えてしまったらしい。抜け殻に声をかけてしまったのかと思うと恥ずかしくて反射的に辺りを見回すが、幸い蔦ちゃんの他には誰もいなかった。
「洗剤の香りするね。今日、いい天気だったから洗濯かな」
「洗ったわりに汚くない?」
渋い見た目に反し、さわやかな香りが鼻に届く。年季の入り具合と丈が長めであることからすると、これは先生のものだろう。蔦ちゃんの言うように、若柳先生といえばグレーの白衣――生徒の間では通称『黒衣』だ。本来は汚れを目立たせるための白なのに、干されているものは薬品の染みで変色したりひじの辺りが黒ずんでいたりと、ずいぶんひどい状態になっている。
「きれいに洗ってくれるような相手はいないのかね? もてない要素はないと思うんだよね、若って。そこらへんの男の人より背は高いし、顔は整ってるし。目が怖いことを除けば水準以上でしょ?」
蔦ちゃんはかけてもいないメガネをずり上げる動作をしながら言った。ブリッジを中指で押し上げるのが先生の癖なのだ。
「確かに目は鋭いね」
私は彼女に相槌を打とうと、若柳先生の姿を思い浮かべてみた。紅葉を背景にして微笑んでいた先生、春の若葉の下でメガネを曇らせてしまった先生、夏の夜に私を隣で励ましてくれた先生。防火扉の紅葉のもとでのできごとばかりが次々に湧き上がってくる。
中三の秋、学校説明会から一年が経つが、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立ったこと――何かあるたび紅葉に会いに来るのが習慣になっていた。先生には、その恒例行事にいつも付き合ってもらっている気がする。ここでの先生との会話はいつも幸せな気分をもたらしてくれていた。
「椿」
いきなり呼ばれ、目を見開いてピントを合わせると蔦ちゃんの顔が目と鼻の先にまで迫っていた。驚いて身を引くと、「ボーっとしてたでしょ」と彼女は頬を膨らませた。そんな顔をしても絵になるのだから、美少女はずるい。
「なんでもない。……先生は、低い声とか白衣着たときの立ち姿とかも素敵だよ。あと、すごく優しい」
「あんたは視点がマニアックすぎ」
「そう? 思ったことそのまま言っただけなんだけど」
「だって、若が優しいとか想像付かないって」
「私が困ってるときとか悩んでるときとか、いつも解決してくれるよ。ここに来ると、ほっとする」
「へえ、知らなかった。よく来るんだ?」
「うん。実は去年からなんだけど」
若柳先生がいかに優しく私の話を聞いてくれたか、去年の説明会から今までを順を追って説明する。
黙って聞いてくれていた蔦ちゃんは途中から両手で頭を抱えて何事か考えている様子だったが、やがて彼女は真剣に、でも穏やかに私を見つめた。
「あんたさ、若に言えない悩みできたら私に言いなよね?」
「え? うん」
「よろしい。……さてと。ここの紅葉、本当にきれいだね。白衣を可愛くしてあげてから帰るか」
仕切り直すように明るく言い、彼女は紅葉の葉を何枚か拾うと爪先立ちで一番上のボタンホールから順に差し込んだ。確かに、紅葉の赤が強い分だけ白衣の色が引き立つし、始めからそういうデザインだったかのように見え――なくもない。
「せっかくだから椿も何か仕込んだら?」
一年前の今頃、初めてここに来たときのように真っ赤に染まった葉。蔦ちゃんと顔を見合わせて、少しだけどきどきしながら私も同様に何枚かを白衣のポケットに入れた。
「これで共犯ね。秋っぽくてきれいでしょ、若も喜ぶ」
「そうかなあ?」
「喜ぶかも。……それにしても、なっがいなー」
背伸びをし、蔦ちゃんが白衣を見上げた。彼女も男役もかっこよくこなせるほどの身長の持ち主なのに、このサイズでは袖や裾がかなり余ってしまうだろう。
私も蔦ちゃんに習って背伸びをしたりジャンプしたりしてみたが、そもそも、ハンガーがかけられている枝にすら手が届かない。着丈は1メートルほどだろうか。私がこの白衣を着た姿を想像すると、面白すぎて思わずため息が出た。
「何してんの?」
「私、白衣より小さかったりして。絶対引きずる」
笑って蔦ちゃんを見ると、彼女はニヤニヤしながら私の後ろを指差している。
「何?」
「何だ?」
私の問いと男の人の声はほぼ同時だった。ぎょっとして振り向くと、いつから立っていたのか当の本人が涼しげな顔で腕を組んでいる。
「先生! いたんですか」
「ずいぶんな挨拶だな」
「あ、あの……ごめんなさい。てっきり誰もいないと思ってたので」
「面白そうだから黙ってた、ごめん椿」
友人を睨みつけるが、当人はそ知らぬ顔で妙な笑みを湛えたまま。不覚なことに、私はまったく気づかずにのん気に背比べをしていたのだ。いつから観察されていても恥ずかしいことには変わりないが、白衣の横で飛んだり跳ねたりしていたのを目撃されていたらと思うと耳まで赤くなる。
「まあいい。乾いたか」
そんな私にはお構いなく、ワイシャツ姿の先生は高い枝に軽々と手を伸ばした。「朝からここに干してたんですか?」と聞くと、「一時間目の予鈴が鳴ってからだ」とハンガーを下ろす。
「家で洗ってきたんだが、この天気ならここに干せば早く乾くと思ってな。……何だこれは」
ボタンホールに刺さった葉を取り払ってひらひらと風に乗せると、先生はさっそく白衣に袖を通した。見慣れた白衣姿に、私はなぜだかほっとした。蔦ちゃんはと言えば、可愛かったのにと小声でつぶやき、口を尖らせている。そういえばポケットにも紅葉が入ったままだけれど、言い出すタイミングを失してしまった。
「洗ったわりに、あまりきれいになっていないような気が」
「そうか? 私は気にならないが。ちょうどいいサイズが見つからなくて、大学のときからずっとこればかり着ているんだ。薄汚れてくるのは仕方がない」
葉っぱのことで逡巡している私をよそに、先生はハンガーを回収しながら蔦ちゃんのぶしつけな疑問にもポーカーフェイスで答える。最近は大きいサイズの洋服を扱う店も大分増えてきたように思うが、白衣でこのサイズでは替えを探すにも一苦労なのだろう。
そういえば、若柳先生の背の高さが女子生徒の間で議論になったことがあった。あんなに背があると彼女にキスするのも立ち膝とかしゃがんだりとか一苦労だよね、と言ったのは蔦ちゃんだったか。身長をはっきりと尋ねたことはなかったと思い、いい機会なので聞いてみる。
「先生って、どれくらいあるんですか」
「八十五くらいかと思うんだが、ここ何年か測っていない。小さいのも困るんだろうが、大きくても何かと損だな」
彼は今日初めて僅かに顔を緩めた。
小さいのもというのは、この前先生にごちそうしてもらったときのことを指しているんだろう。正直言えばブラックのコーヒーは私には少し苦かったけど、ここで先生に元気を分けてもらい、いじけずに気持ちよく練習に戻ることができたのは紛れもない事実。結果、頑張りが認められて再びその役を手にし、今に至っている。文化祭の練習は最後の追い込みの時期に入り、今日からは本番の衣装を着けてのものへと変わっていた。
「大きい方がいいこと多いですよ。ねえ蔦ちゃん」
「白衣を大事に使うなら、ちゃんと漂白とかしたほうが絶対いいですよ。きれいに洗濯してくれる彼女、いないんですか?」
ところが彼女は全く別のことを考えていたようで、私の呼びかけを無視して爆弾を先生に手渡した。
蔦ちゃんは相手が誰であろうと、そういう危ない質問を当然のように繰り出す。それでも聞かれた方が思わず答えてしまうのは、入部まもなく看板女優の座を勝ち取った演技力と、意思の強そうな眉が印象的な美貌、それにハッタリのなせる業だと、私は勝手に分析している。
「遠慮というものを知らないのか、蔦」
「みんな気になってるんですよ、先生がフリーなのかどうか。格好いいから」
若柳先生が女子に人気だというのはその通りだけれど、面と向かって彼女の有無を尋ねた生徒はおそらく蔦ちゃんだけだろう。先生は心底迷惑そうに口をへの字に曲げていたが、面倒そうに言い放った。
「蔦の言葉を借りるなら、ここに洗濯物を干している時点で明白だろう。……これで、満足か?」
プライベートを秘密にしようという警戒心はないのだろうか、先生はあっさりと自供して二人の会話は完了したようだった。
「ほんとうに、彼女いないんですか。……先生」
先生ほどの男性が独りだなんて、にわかには信じられない。私が重ねて念を押すと、先生はややふて腐れたように言った。
「情けなくなるから繰り返し聞くな、藤倉。いないよ。不本意ながらな」
「ご、ごめんなさい」
蔦ちゃんは「誰にも言いませんから」とうそぶくと肩をすくめ、フォローを求めてなのか私をちらりと見た。ずっと気になっていた懸案事項が片付いたからか、反省の色があまり感じられない満足げな苦笑いだ。
「言いふらしても構わないさ、私の彼女の話なんて君たちには関係ないことだろうしな。……散歩日和だ。寄り道するためにも早く帰りなさい」
「珍しく笑ってたよ、若。……よく白状したね。フリーとは意外意外」
蔦ちゃんの言葉を上の空で聞き流す。私はすっかり呆けてしまっていた。
『君たちには関係ない』
手のひらには生ぬるい汗がにじみ出ていた。ちくりと刺さった先生の言葉。考えても考えても整理しきれない気持ちを何よりもはっきりと表していたのは、思い返すたびに増してくる胸の奥の痛みだった。傷が疼いて、育っていた想いに初めて気がついた。
先生に彼女がいないことに、私はなぜこんなにも安心しているんだろう。私に向けてくれたたどたどしい微笑み、夕日に照らされたオレンジ色の横顔、長い白衣を着こなす背の高さ、その一つ一つになぜ顔が火照るんだろう。先生の淹れてくれたコーヒーの味をなぜはっきりと思い出せるんだろう。ここに来るたびに幸せになれるのはどうしてなんだろう。
導き出されるのはたった一つの答え――。
「椿!」
先生はいつの間にかいなくなっていて、蔦ちゃんが立ちつくす私を揺さぶっていた。視界に澄んだ高い空が戻り、じっとりと冷や汗をかいた体をさわやかな秋風が撫でていく。口を開くと想いが溢れ出しそうで、両手を唇に押しつけた。
「どうしたの? 具合悪い?」
「泣きそう」
「私に相談したいこと、ある?」
その一言ですべてを察したらしい蔦ちゃんが、優しく微笑む。そう言えば、先生には相談できないことは彼女に訊くとさっき約束したばかり。
「……私、若柳先生が好き。先生の彼女に、なりたいな……」
「そっか」
涙目の私を蔦ちゃんはぎゅっと抱きしめてくれた。彼女の肩ごしに、私の想いを一年間見守ってくれた紅葉が揺れていた。
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