第2話 その翼はまだ飛べる ~高校一年・夏/理雪

「何をやっているんだ、そんなところで」

 残業を終え、いつものようにコーヒーの入ったマグカップを手に防火扉を開けると、暗がりの中で見慣れた生徒が両膝を抱えてうずくまっていた。彼女は非常階段の一番下の段、その隅に、手すりに体を寄せるようにして座り込んでいる。呼びかけが聞こえなかったのか、体を丸めたままピクリとも動かない。

 今度は彼女の隣まで歩み寄り、頭上から声を浴びせる。

「藤倉、部活動の時間はすでに終わっているぞ。早く帰りなさい」

 彼女は確か演劇部だったはずだ。橙南高校では夏季の部活動は午後七時までと決められている。ちらりと時計を見ると、時刻はもう午後八時を回るところだった。半開きの防火扉から校舎内の明かりが漏れているおかげで彼女の姿を確認するのに苦労はなかったが、日が長いとはいえ、この時間には辺りはすでに闇に包まれている。

 相変わらず返事がないので、俺はマグカップを階段の端に置いて藤倉の正面にしゃがみ込んだ。

「どうした。体調不良か」

「大丈夫です。もう少ししたら帰りますから」

 顔を伏せたまま、藤倉は小さな声でようやくそう答えた。ぐす、とわずかに鼻をすする音を俺は聞き逃さなかった。


 ハンカチを巻きつけたビーカーを手に戻って来ると、藤倉は案の定同じ場所、同じポーズで座ったままだった。俺は彼女とは反対側の手すりにもたれるように階段に腰掛ける。体の大きい俺にはかなり窮屈なスペース。何を思い、こんなところでいったいいつから泣いていたのだろうか。

「特別サービスだ」

「ありがとうございます」

「いや。……飲んで落ち着いたら帰りなさい」

 そこで初めて彼女は顔を膝から離し、小さな両手を遠慮がちに差し出した。一口飲むと「熱いです」と少し顔をゆがめる。あえかな月光に浮かぶ横顔は目蓋が赤く腫れていて痛々しい。

「すみません、ご迷惑をおかけして」

「ハンカチは貸しだ。顔を洗ってから帰るんだぞ」

 その言葉に藤倉は弾かれたように顔を跳ね上げて俺を見つめたが、すぐに慌てて顔を逸らした。

「あの、あんまり顔見ないでください。たぶん目とか赤くて腫れてて、ひどいので」

「悩み相談も仕事のうちだ。詮索はしないが」

「いえ!」

 ごしごしと目をこすり、眉を寄せたままでバツが悪そうに苦笑いをする。詮索してください、とでも言いたげな表情につられて、俺も口元を左右に引いた。

 昨年の秋、新米教師だった俺におどおどと声をかけた中学生がいなければ、生徒に笑顔を向けることを忘れていたかもしれない。緊張しきった彼女を楽にしてやろうと顔を緩ませたとき、初めてそれに気付かせられた。それ以来、いつも意識してできるだけ笑うことに決めている。

 藤倉はカバンの中から何かの冊子を取り出した。表紙には『第八回公演用(仮)』とある。

「台本か?」

「文化祭の舞台用の本です。私、準主役をもらってたんですけど、脚本を書いた先輩のイメージと違うって言われて。今日の練習で役を降ろされてしまったんです。『イメージと違う』っていうのが背が足りないからだって言うんですよ。そんなの、いくら努力してもどうしようもないじゃないですか」

「それで、ここでヘこんでいたわけだ」

「実は、がっかりして悲しいのはもちろんなんですが、なんだかすごく悔しいんです。……どこかで気分を落ち着けてから帰ろうと思ったら、ここしか思いつかなくて」

 そう言うと、藤倉はビーカーを握り締めて紅葉を見上げた。この木の下は、彼女にとって何か特別な場所なのかもしれない。悔し泣きしていた藤倉は、ここにやって来て果たして癒されたのだろうか。

 彼女は一年生にしては確かにやや小柄なため、俺と立ち話をするときなどは上を向きっぱなしで、さぞ首が疲れるだろうといつも思う。身長は見た目ですぐに判断できるのだから、キャストが本決定した後でそれを取り消すのは酷だろう。

 しかし、正直言って若干驚いてもいた。レギュラー争いはどんな部活動にも付いて回る試練で、打たれ弱い生徒にとっては大きな挫折となることもある。俺は藤倉もそんな生徒かと思ったが、余計な心配だったらしい。

「そうは言っても憤慨できる元気はまだ残っているな」

「え?」

「中学の頃を少しは見ている私からは十分成長の跡がうかがえる。去年の秋の自分と比べてみなさい。……納得がいかないと悔しがるくらいなら浮上できるだろう? 何にせよ、それだけ一つのことに思い入れることが出来るのはすばらしいことだ」

 学校説明会のときには俺に話しかけるのもやっとだった内気な彼女が、あれから約一年経ち、今は悔し涙を流すまでに逞しく育っている。十六歳というのは、こんなに急速に大人へと近づいていくものだったのだろうか。昨年受け持った中にはそう思わされた生徒はいなかった気がするが、だとすれば藤倉が特別なのか。

「本当に、そう思われます?」

「ああ。……そんなに悔しかったら毎日小魚や牛乳を摂って、背を伸ばしてやるくらいの意気込みで頑張りなさい。努力することは大切だ」

「じゃあ、先生くらいになるように全力を尽くします」

「それは大きすぎる」

 でも大きければ大きいほどいいかなと思ってと、俺の慣れない冗談を受けて、藤倉は屈託なく微笑んだ。多分、俺の顔もやや弛緩したことだろう。ころころ変わる彼女の表情はまるで子供のようなのだが、その中身――心のほうは立派なものだ。

「さあ、もう帰ったほうがいい」

「ごちそうさまでした! ……ありがとうございました。聞いていただけて、すっきりしました。裏方でも頑張るので文化祭は見に来てくださいね」

「見に行こう。さあ、暗いから足元に気をつけなさい」

 ぺこりと頭を下げて小走りで去っていく後姿は、いつもより一回り大きく見えた。その小さな翼ははばたき始めたばかりで、見守る立場の俺には少しもどかしい。彼女はあと二年も経てば、ここから巣立っていく。それまでに翼はどれだけ大きくなっているのだろう。

 そういう俺も去年の秋と比べれば少しだけ大人になっている。その一端はきっと、藤倉のおかげなのだ。

「置いていかれないようにしなくてはな」

 すっかり空になったマグカップとビーカーを手に、俺はもう夜闇に溶けて見えなくなった背中を目で追っていた。

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