第4話 先生、解答用紙が全然埋まりません! ~高校一年・冬/理雪

「一人だけなのか?」

 暖房のスイッチは今入れたばかりで、吐く息が白い。

 冷え切った広い生物実験室の中、藤倉はチョコレート色のコートを着たまま途方に暮れた顔で俺を待っていた。本来なら他にも数名生徒がいるはずの部屋に、彼女が一人きりでぽつんと座っている。

「みんな、帰っちゃいました」

「帰ったというのは?」

「補習なんかやってられるか、って。あの、止められなくてすみません」

「藤倉が謝ることじゃない。遅れてしまった私が悪いんだろう。……たぶん、な」

 俺の遅刻は五分程度。時間通りに来たところで実際は大勢に影響はなかっただろう――と、思う。

 今日の放課後は、生物の期末試験の成績が芳しくなかった生徒を集め、答案を完全な形にして提出させようと考えていた。しかし、必然的にあまり学業に関心のない者が呼び出されているわけだから、結果こういうことになってしまう。ある程度予想はしていたものの、まさか一人しか残らなかったとは。

「呆れていても仕方がない。……マンツーマンになってしまったが、始めるか」

 きちんと待っていた藤倉が気の毒で、さっさと始めてさっさと終わることにした。どうせ一人きりなのだからどの席でも構わないだろうと、両手を擦り合わせて暖を取っていた藤倉をヒーターの前に移動させて、俺も彼女の隣に座った。

 しおりを挟んだ授業用のノートを開き、テストの問題用紙と正答の書かれた解答用紙をファイルから取り出す。

 藤倉も鞄を開けて、自らの答案を取り出した。彼女が心底恥ずかしそうに差し出した紙の右上には、俺の筆跡で『17』という赤い文字が躍っていた。改めて見直してもやはり信じられない数字に、俺はしばし言葉を失う。藤倉は沈黙に耐えられなくなったのか、黙っている俺に「すみません」と謝り出した。

 どの教科も平均的な成績の中、入学直後から生物だけは突出して高得点をマークしてきていた藤倉。採点の途中、目を疑ったのは記憶にある。平均点の半分にも満たない赤点は俺の知る彼女からはとても想像できないものだった。

「これは、思い切ったな。眩しい点数だ」

 藤倉が息を呑む気配に、『言い過ぎた』と思ったがもう遅い。

 秋までは藤倉がよく防火扉の紅葉を訪れていて、俺とは半ば茶飲み友達――実際飲んでいるのはコーヒーなのだが――と化していた。なまじ会話量が多いためにその成長もよく分かり、変化を追うのもまた一興だったが、雪が降るようになりお決まりだった悩み相談、驚きや発見の機会が少なくなったのは正直言うと少し寂しい。

 彼女の成長と俺の慣れもあり、少しくらいの軽口は許される、と簡単に考えたのがいけなかった。藤倉が相手だとどうも調子が狂うのだ。

 ――虐めようと思ったわけでは、なかったのに。

 彼女は寒さでやや紫色になった唇を噛み、小さい体をさらにちんまりとさせて最大限の反省を全身で表していた。きっと、頬が赤いのは空気の冷たさのせいだけではない。小動物、例えるならリスがしょんぼりと尾を垂れているような彼女の姿を見ているといたたまれなくなり、出来る限り柔和に、そして素直に詫びた。

「すまないな。……今のは、言葉が過ぎた。いつも生物は頑張っていたようだったから驚いているんだ。テスト中に具合でも悪くなったのか?」

「解答欄が」

 改めて答案を見直す俺の眉間の溝を認め、彼女はためらいがちに切り出した。

「一度消した後、埋めきれませんでした。制限時間ぎりぎりでずれていたことに気づいて、修正しようとしたんですが、間に合わなくて」

 藤倉の解答用紙は消しゴムをかけたために表面が黒ずんで派手にしわが残り、無機質に並ぶ升目のうち二、三か所がまとめて空欄になっていた。解答を後回しにして空欄にしたところから一問ずつずれていったのだろう。答えを消し、隣の欄に写して書き込み……と繰り返しているうちに時間がなくなったらしい。

「ああ」

 俺の喉から、おかしな声が漏れた。

 赤点がそんな初歩的なミスからきたとは、全く予想外だった。もしかしたら、彼女は俺の想像以上にうかつで天然で、ユニークな生徒なのではないだろうか。真面目でしっかりしていると思い込んでいただけに、そのイメージは一気に覆された。

 試しに彼女の本来の解答で採点してみると、なんとクラスでも五指に入るほどの高得点。それを見てますますやりきれなくなったのか、彼女は両の手で顔を覆うようにしてぎゅっと目を閉じ、動かなくなった。

 無言でしばらく待ってみたが復活の見込みがないので強ばる肩をそっと叩くと、体がビクリと大きく震えて小さく息が漏れた。どうも、お叱りを待っていたらしい。

「いい点じゃないか」

「でも」

「もったいなかったな。解答自体はそう間違っていないようだし、補習の必要はないだろう。アドバイスとしては、まずは見直しは早めに。他に強いて言うならば、形成体、誘導、予定運命図のあたり、発生に関する部分が少し弱いかもしれないな」

「……そうですね。その辺はちょっと自信ありませんでした」

 頷きながら繰り返す落ち着きのない瞬きは、やはり小動物。恐縮しきりの彼女を励まそうと目を細めてみると、はにかんだ笑顔が返ってきた。作り笑いもだいぶ板に付いてきたらしい。

「基本的にはいい出来だから、参考程度に聞いておいてくれ。……では、今日は解散」



 筆記用具や答案を片付けながら、藤倉は俺のノートに挟んであったしおり――名刺サイズの透明なシートで覆われた二枚の紅葉を目ざとく見つけ、冷えて白くなった指先で示した。

「先生、それは葉っぱ……ですよね」

「これか? 葉脈標本というんだ。重曹を入れた水で煮ると、このように葉脈だけがきれいに残る。……白衣を外に干していたときがあっただろう」

「あ、はい」

「あのときにポケットに葉が何枚か入り込んでいたんだ。割ときれいだったんで、それを取っておいて加工してみた。外側は、こう、ラミネートフィルムで覆って」

 秋の紅葉は校内で俺がもっとも好きな景色のうちの一つだ。偶然白衣のポケットに紛れ込んでいた真紅の葉を、これでいつでも秋を持ち歩けると標本にした。他人が見たら柄じゃないと笑うかもしれないが、藤倉になら言ってしまってもいいだろう。

「あの」

「どうかしたのか」

「いいえ」

 明らかに何か言いたげに目を泳がせていた藤倉は、やがて「それ、触ってもいいですか」と許可を得てからしおりをつまみ上げた。蛍光灯に透かすと、寒さのためか青白くも見える藤倉の顔に、葉脈の影がくっきりと落ちる。

「こういうの初めて見ました」

 くるくると角度を変えながら標本を眺める仕草は、両手で木の実を回すリスや、大学時代に卒論のために飼っていたラットやウサギを連想させた。小動物という言葉が似合う小さな女生徒は、まさにかみつきそうな勢いでしおりを見つめている。

 その様子に、軽い気持ちで「欲しいならプレゼントするぞ」と言うと、「下さい!」と間髪入れずに答えが返ってきた。

「でも、その……先生が困らないのならでいいです」

 小声で付け足すのが、いかにも藤倉らしい。面食らったのをごまかすようにメガネを直しながら、俺はやや思案して一つの提案をした。

「もう一枚作ったから、私の分はある。そうだな、『学年末は今回の分まで頑張る』という条件付きではどうだ。別に何点以上取れとは言わないが、せめてこのようなミスはせずにベストを尽くせるよう気を付けること」

「絶賛されるように努力します」

「その心意気を忘れないように。では」

 白衣のポケットから出したメガネ拭きでラミネートカードを軽く磨いてから、手渡す。「ありがとうございます」とうやうやしく両手で受け取り、彼女は満面の笑みで大切そうにペンケースに入れた。

「これ、テストのお守りにします。先生とお揃いだし、ご利益がありそうなので」

「お揃い? ああ、まあそれを見て、解答欄をずらさない、と思い出せればお守りにはなるかもしれないが」

「はい。大事に使います」

 ――おそろい、か。

 もう、そんなかわいいものが似合う歳じゃないのは十分分かっているから、藤倉が照れもなく使った言葉がくすぐったくて仕方がない。実際は『お揃い』ではないのだが、今の彼女に教える必要はないだろう。

「そんなに、好きなのか」

 尋ねると、彼女はコートと同じチョコレート色の瞳を見開いた。

「紅葉だよ。確かに立派な木ではあるが、女子高生にしては渋い趣味だと思ったんだ。そうでなければわざわざ校舎の片隅になど来ないだろうし、こんなカードなんて今どきの生徒が欲しがるわけがないだろう」

 彼女は一呼吸置いたかと思うと小鼻を膨らませて、怒濤の勢いで抗議を始める。

「変ですか? ……でも、最初は先生に連れてきていただいたんですよ。夕日があんまり綺麗だったから、合格したらまずあそこに行こうって決めてたんです。橙南イコールあの木っていうくらいに憧れていて、入学してからもあの場所に行……何言ってるんだろう。話が逸れちゃいましたけど、何を言いたかったのかと言えば、私だけじゃなくて先生も渋いんです。きっと」

「私が渋いのは認めよう。それでことあるごとにあそこに来ていたわけか」

 藤倉は補習が終わったためか舌がなめらかに動くらしい。そんなにむきにならなくてもいいのにと思う反面、ようやくここ何ヶ月かの疑問――藤倉がこのあたりをよくうろついている理由――が氷解して胸がすっとした。確かに俺もこうして持ち歩くくらいにあの木が気に入っているから、その点では藤倉と同類だ。

「ところで、落ち着きがないが何か言いたいことでもあるのか? 何事もなければ別にいいんだが、悩みがあるなら言ってみなさい」

 とたんに黙ってしまった彼女を見れば、挙動不審気味に視線を揺らしている。やがて俺の追求が止まないと観念したのか、彼女は上目使いで「怒らないでくださいね」と呟いた。何のことかさっぱり見当が付かないが、言ってもらわないと分からない。

「何か怒られるようなことでもしたのか? 内容によるが努力はしよう」

「じゃあ、勢いで言ってしまいますけど。……実はそれ、私がポケットに入れたんです。ごめんなさい」

 彼女は立ち上がり、ぴょこんと頭を下げた。

「はあ?」

 突然の告白に、教師らしからぬ言葉が口を付いて出る。

 ボタンホールに葉っぱが飾られていたことは確かに覚えているのだが、あれは蔦の仕業だと納得していた。ポケットの中に紅葉を見つけたときにもいたずらかと考えたものの、いくら蔦でもまさかこんなところにまで仕込むことはないだろうと、偶然舞い込んだものだと結論づけたのだった。果たして、藤倉がそんな悪ふざけをするだろうか。

 ――いや、やりかねない。今日の彼女を見て、やるときはやってくれるんだと思い知ったのではなかったか。

「すみません! ちょっと魔が差したというか、悪いことしてるって考えていなかったんです。でも、今日、先生のお話を聞いて謝らないといけないと思いました。まさかこんな風に大事にしてくださってるとは思わなくて、言い出しにくくって……。あ、でもボタン穴に葉っぱを差したのは蔦さんで――先生、そんなに笑わなくたっていいじゃないですか」

 俺の沈黙を憤りだと思い違ったのか藤倉は泣きそうな顔で弁明を始めたが、目を丸くして口をつぐんだ。その声に俺もはっとしたものの、とりあえず怒っていないことだけは伝えようと「いや、意外性の勝利だ。見直したよ」と明言しておいた。

「見直した?」

 案の定、彼女は不思議そうに首をかしげたが、あまり細かく説明しても仕方がないと話を逸らす。

「これが藤倉からの贈り物なら、礼を言わなくてはな」

「お礼なんて! やめてください、悪いです。怒られないだけで、十分満足なんですから」

 藤倉は、ぶんぶんと髪が乱れるほどに首を振った。

 そろそろ補習の予定時間も過ぎる頃だったので、その話は終わりにして俺は藤倉を見送った。彼女は名残惜しそうに例の紅葉の方を眺めていたが、今の季節は防火扉が凍り付いているので外に出るにも一苦労だと言うと、諦めがついたのか軽やかな足取りで去っていった。



 巣、もとい生物準備室に戻った俺は、しおり代わりになる手頃な紙を探したが見つからず、結局付箋紙を貼ってノートを閉じた。もう一枚作っていたというのはとっさに吐いた嘘だった。あのカードに思い入れがないわけではないが、藤倉の方が俺よりも必要そうだったのであげたまでだ。きっと、それで正解だったのだろう。

『笑わなくたっていいじゃないですか』

 藤倉のその一言が棘のように引っかかったまま、いつまで経っても忘れられなかった。一昨年の秋から今まで、一年半の間に、彼女にだけは躊躇なく笑いかけられるようになってきているのを俺自身も確かに気づいていたから。

 良くない傾向だとは、思いながらも。

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