第5話 何物にも染まりうる魂 ~高校一年・春/椿

 三月に入ったとは言ってもまだ風が冷たいこの時期、実験棟の廊下は日が陰ると思わず両手で肩を抱きたくなるような肌寒さだ。まして、校舎裏の一角に好んで近寄る奇特な人間なんて世の中に二人くらいだと思う。

 ――ここに来るのは、いったい何ヶ月ぶりだろう。

 どうかそこにいて下さい、と祈るような気持ちでいつもの扉を開けると、当然のように白衣の人影があった。

「先生、お久しぶりです」

「さっき授業で会ったばかりだろう」

「ええと、じゃあ『ここでは』お久しぶり、です。雪が溶けたみたいなので来ましたが、構いませんよね。……そこ、狭くないですか」

「狭い」

「どうしてそんなところに?」

「ちょっと息抜きをな」

「窮屈、ですよね」

 若柳先生は西日が当たる非常階段の一番下で長い手足を窮屈そうに折り曲げながら、今日最後の日溜まりの中でマグカップを傾けていた。その橙色の横顔を見つめながら、私は非常階段へと近寄る。先生を上から見るなんてたぶん最初で最後のことで、期間限定の優越感を味わうことができた。

 先生は意外にも甘党らしく、生物準備室でコーヒーをごちそうになったときに砂糖を二杯入れていたのを目撃している。のぞき込んだカップの中身は残りわずかで、ちらりと見えた限りでは黒ではなくて小麦色。今日はミルクまでたっぷりと入っているようだった。そろそろ年度末で何かと忙しそうだし、疲れて甘いものが欲しくなる時期なのかもしれない。

「たまにはそれもいいかと思ってな。……そういえば、期末は約束通りかなり精進したようだが」

 コーヒーに気を取られている私に、先生は言葉を濁して別の話を振ると、残りを一気に飲み干した。のっそりと立ち上がるその足下から、冬の間に積もった砂埃がぶわっと巻き上げられる。私はそれを避けながら、先生の白衣が汚れるのはこういうところに平気で腰掛けたりするからなんだと察した。

「今回は解答欄を間違えませんでした」

「それが普通なんだ。まさか九割台まで伸びてくるとは思っていなかったが、どうやらよほど私の補習を受けたくないと見える」

 やや大げさな動作で腰の辺りの埃を払い、「これで立派に汚名返上だな」と先生は私を見下ろした。やっぱりこの位置関係がいちばん落ち着く。上から注がれる温かい声はいつも通り。ここで聞くバリトンは授業のときよりも少しだけ柔らかくて、耳に心地よい。

「それにしても。……藤倉は、こんなところまで立ち話をしに来たのか」

「いえ。今日は効果を報告に」

「効果?」

「これです」

 そう言って、私はカバンの中から例の標本を取り出した。私が白衣のポケットに入れて、先生が標本にし、それをまた私が貰ったという複雑な境遇の紅葉だ。テストのお守りのはずがあれ以来ずっと大事にカバンに入れて持ち歩いているのは、蔦ちゃんにさえも内緒にしている。

「何のことかと思った。ご利益、というわけか。まだ寒いのにわざわざ、律儀だな」

「だって、予想以上に効きましたから。先生のおかげです。どうもありがとうございました」

「……私に、か?」

 先生は面食らったように聞き返したが、私が頷き、改めてお礼を述べるといつものようにやや口元を左右に引いた。

「元は藤倉が私にくれたものだろうに。……お守りや私なんかの力ではなくて、藤倉の努力が実ったんだ。来年度もこの調子で頑張りなさい」

 彼は、そこで一つくしゃみをすると「カレンダー上では春なんだが」と小さくこぼした。

 寒さが身に凍みるのも当然で、よく見ると白衣の下から少しだけ覗く胸元は放課になってから崩したのだろう、ネクタイがやや緩めてあった。いかにも理系教師っぽい外見や雰囲気から生真面目でかっちりしているのかと思えば、案外ルーズなところも見え隠れするのが可笑しい。

 もちろん寒いのはそれだけが理由ではない。ここに来て数分の間に日差しは重い雲に遮られ、体感温度はかなり下がってきていた。先生はカップを持っていない左手で白衣の前を合わせると、風をシャットアウトするかのように腕を組んだ。私もそれに倣って、部活で使った道具の詰まったカバンをしっかり抱きかかえる。

「春といえば、藤倉はツバキの花期に生まれたからツバキなんだろう?」

「あ、ええ、はい」

 先生はそこで思わぬ方向に話題を変えた。

 全くの不意打ちに即答できず面白いほど声がうわずったままだ。焦りながらそっと表情を伺うと、彼はいつもと変わらない無機質さでこちらを見下ろしていた。思えば、先生は大学で生物学を専攻していたのだった。彼にとってツバキは単なる植物の名前であって、ものを見分けるために付ける目印のようなものだろう。

 それでも――春といえば、という程度で振った話で深い意味なんかないと分かっていても、先生の口から出た三文字に冷えた身体がじんわり温かくほぐれていく。私は先生に悟られないようにささやかな幸せを噛み締めつつ、渇いた口の中を湿らせると、できるだけ普通に冷静にと努めながら何の変哲もない答えを押し出した。

「そうです。私の誕生日は今月なんですけど、私が生まれた年はその頃もかなり雪が残っていたらしくて。だから、『春を呼ぶ花』っていう意味で付けたって聞きました」

「確かに、春が待ち遠しいこの時期にはぴったりだ。いい名前だな」

「はい。私もそう思いますし、好きなんですけど。……ただ、椿の花はちょっとゴージャスすぎて、まだ私には似合わない気がします」

「そうか?」

「ちょっと負けてしまっているかな、と」

「さあ。……どうかな」

 先生はため息とともに目を伏せると長考に入ってしまった。きっと私の何気ない一言に対する考えをじっくり整理しているはずで、こうなるとどんなに長い間でもまとまるまでは無言になるのがいつもの彼だ。

 諦めて先生を待つことには決めたものの、果たして私以外の人にこの気持ちはどれくらい伝わるのだろう。それが例え先生でも――いや、先生はあくまで先生であって、私は彼にとってはいち生徒で、言ってしまえば他人なのだから――。

 そこで鈍い胸の痛みを覚え、私は思考を止めた。

 荷物を抱えたまま足下をぼんやり眺めていると、突然の低音とともに寒さが少し和らいだ。

「藤倉は、椿のようになりたいのか?」

 顔を上げると先生がいつの間にか風上に立っていた。もしかしたら、壁になってくれているのだろうか。

「憧れです」

 気に入っている名だからこそ、余計に実態とのギャップに落胆することもある。憧れと答えたのは、『なりたい自分』はまだまだ手の届かないところにいると思っているからだった。今の私は小さくて弱い。

 葉はつやつやと光り、花は豪華で大きく、散る時は潔く落ちる。そういう華やかで強そうな雰囲気は私に似合わない、と常日ごろから考えていた。また反面、そうありたいとも願っている。先生に釣り合うような生徒になりたい、椿のような女性になれたなら先生の隣に並んでもきっとおかしくない。ただ、私が高校生のうちにその夢が実現するのかどうか、先はまったく見えなかった。

「憧れ、か。きれいな花だからな。……これから話すのはあくまでも私の考えだ。藤倉がそれは違うと思うなら、聞き流してくれて構わない」

 先生は冷たい風に顔をしかめながらそう前置きをして、深呼吸をするように音を立てて大きく息を吸い込むと私の目をまっすぐ捉えた。真摯な視線に吸い込まれるように、私も先生をじっと見つめて言葉を待つ。

「藤倉椿が藤倉椿であることは、似合う似合わないの問題ではなく紛れもない事実で、君はご両親が名前に思いを込めたそのときからずっと椿なんだ。ただ、所詮――と言うと多少語弊があるが、名前は名前でしかない。その中身は君が決めるものだ。まわりくどくなってしまったが、要するに私は椿の花に憧れる君、たとえばこの場所に来て悩んだり悲しんだりしている、ここにいる藤倉こそが椿だと言いたかったんだ」

 そこまでをノンブレスで言い切ると組んでいた腕をほどき、先生は少しだけ目を細めてみせた。

「藤倉にはゆっくりだと感じられるかもしれないが、今の歩みでも確実に目標に近づいている。だからまだ、負けたなどと判断するのは早いんじゃないか。……藤倉は、まだ急がなくともどんな可能性でも掴める力があると思う。自信を持って、自分のペースで椿になりなさい」

 今度は植物のツバキではなく私の名前を呼んでくれたような気がして、落ち着きかけた心拍数は再び跳ね上がったものの、一方ではひどく安らかな気持ちに包まれていた。

 みっともないところをたくさん見せてしまっているのに、もがいている私をそれでいいんだと受け入れてくれている。先生はずっと見守ってくれていたんだ――もちろんその眼差しは一生徒に向けられたものに他ならないけれど、今の私には充分すぎるほどだった。

 私は先生からたくさんのものをもらい、彼のおかげで『藤倉椿らしく』動き始めることができた。高校に入ったのだって、部活でへこんでもすぐ立ち直ったのだって、生物の成績が上がったのだって、先生がいてくれたからだ。

「ありがとうございます。のんびり、前向きに頑張ってみます」

「藤倉がそう思うなら、な。しかし……名前のことを私が言っても説得力に欠けるか」

 再び降りる、長い沈黙。また何か考え込んでいるのかな、と見上げると、一瞬前までとは別人のように厳しい表情の先生がいた。メガネが冷たく光り、まるで重い扉のように私の視線を遮る。何かが先生と私の世界を区切っているのをおぼろげながら感じ、それを何とか砕こうと呼びかけた。

「先生?」

「色に乏しく冷たい、氷の結晶。……私は雪だからな」

 冗談にしてはいやに凛然とした顔で呟いた先生に、私は絶句した。

 出会った頃の先生はいつもこんな調子だった。私がこういうタイプの人に出会ったことがなかったのもあって、怖そうな人だという印象はしばらく消えなかった。

 しかし先生と一緒に過ごしてきて、それは『若柳理雪』のごく一部だったと知った。そもそも、感情を揺らさない人間はきっとそんな台詞は言わない。気持ちをストレートに表に出さないだけで、決して色が無いわけでも、氷でもない。目の前の先生はクールを通り越して冷酷にさえ見えるけれど、気を付けて見れば唇は拗ねたようにほんの少しだけ尖っている。

 何か声をかけたくて言葉を探しながら、私はゆっくりと口を開いた。

「先生。……私は、親身になって丁寧に私の話を聞いてくれる暖かさや優しさが『若柳理雪』らしいと思ってます。『理雪』はとても素敵な名前で、似合う似合わないじゃないかもしれないですが、先生には雪っていう字がすごく似合ってると思います。でも、冷たくなんかなくて、いろんな色もちゃんとあって、私は先生の言葉で、いつも元気にしてもらってます。だから、そんなこと言わないでください。……先生は自分のことを雪のように冷たい人間だと考えているかもしれませんけど、私はそうは思っていませんから」

 ただゆき、と口に出したのはこれが初めてだった。雪の理、なんて美しい名前。先生にお似合いの名前。そしてたぶん、先生の教え子でいる限りはもう呼ぶことのない名前だ。

 そう考えた途端みるみる目頭が熱くなってきて、顔を見られないように風下を向いた。私なりに素直に思っていることをぶつけたのだから後悔はしていない。でも、生意気なこと、余計なこと――気休めの慰めや同情だと思われたら。

 先生は白衣がはためくのも気にせず、無言のまま立っている。気まずさがじわじわと苦しくなり、私はあっという間に音を上げた。

「……私、今日はもう帰りますね。励ましていただいて、ありがとうございました」

 できるだけ明るく言って一礼し、扉へ向かう。踏み出す足は予想外に重くて、歩いても歩いても校舎は近づいてこなかった。

 あと数歩、扉の向こう側に入ってしまえばどんな顔をしたって先生には見られなくて済むから、もう少しだけの我慢。

 そんな矢先、私の身体を、ガシャン、という鋭い破裂音が打った。

「藤倉!」

 それに続いて追ってくる低い声が、建物にぶつかって反響する。

 衣擦れが耳に触れて恐る恐る振り向く。先生は私のすぐ後ろまで近づいて来ていて、さっきまで彼が立っていた非常階段の辺りにはマグカップの破片が散らばっていた。状況がよく分からないまま、私はやっとのことで「先生、カップが割れて」とだけ、口籠もりながら答えた。

「ああ、落としてしまった。……それはどうでもいいんだ」

 先生は俯いたままメガネを押し上げ、すぐに意を決したように顔を上げた。

「さっきの椿の話は嘘なんかじゃないから、誤解しないで欲しい。……今だって、無視していたわけではない。昔からこんなひねくれた性格だったからな、優しいとか、そういうことをあまり言われ慣れていないんだ」

「いえ、あの、大丈夫です」

「いつも、すまない」

 まじまじと見つめられて、慌てて濡れた頬を撫でて俯く。驚いたからかすでに涙の生産は止まっていたものの、まさに目一杯溜めていた分はごまかしきれなかった。最近、ことに白衣の一件以来、私の涙腺は決壊しやすくなっているけれど、それは先生のせいではない。

「もう、泣きませんから」

 もし彼がそれらに、私の涙に胸を痛めていたんだとしたら。先生の前で誓ったからには、もう後戻りはしない。これ以上困らせたくはないから、この涙っぽさからは卒業しなくては。

 「藤倉らしいな」といつも通りの先生の声が降ってきて、視界の上の方で大きな手がゆっくりと動くのが目に留まった。その手は私の髪にそっと触れ、思ったより温かくてごつごつした感触が何度か前後する。誰かに頭を撫でられるなんてしばらく経験がなかった。私の頭を、先生が――心地よさや嬉しさよりも恥ずかしさが先行して身体を強ばらせていると、先生は終わりの合図のようにポンと手を弾ませた。

 涙の乾いた私が先生を見上げたころには、彼の瞳の温度はすっかり元に戻っていた。

「新学期は担任も替わるだろうが、生徒に気を使わせるような頼りない教師でもよければ進路相談にでも来なさい。そうだな、誕生日はコーヒーでもご馳走するから、気が向いたら準備室に来るといい。……いい豆を仕入れておくぞ」

「はい! 行きます、絶対」

 夕日を背負って、先生は照れくさそうに微笑んだ。まだまだぎこちないけれど、その表情には誰が見ても笑顔だと分かる穏やかさがある。さっきまで私が感じていた壁は消え去り、皮肉っぽい言葉にも刺々しさや自嘲は微塵もない。

 先生に積もった雪は少しずつ、確かに溶け始めている。色々なことが怒濤のように押し寄せた今日だったけれど、その瞬間に立ち合えたことを思うだけで幸せになれる。理雪と口に出せたことにだって、今は感謝すらしていた。

「ああ。……さて、後片付けだ」

 先生は思い出したように階段の辺りまで戻ると、白衣をたくし上げてしゃがみ込み、マグカップのかけらを拾い出した。私も手伝おうと駆け寄りながら、先生につられて綻んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る