第6話 可愛い顔して…… ~高校二年・夏/理雪

 ――可愛い顔して寝るもんだな。

 俺は、助手席で平和そうな寝息を立てている藤倉を眺めながら、自分の汗ばんだ手のひらをきつく握った。夜八時、普段なら部活動さえ終わっているような時刻に俺の車の中で女生徒と二人きり、おまけに、彼女が着ているのは俺の服だ。

 どうしてこんな事態になっているのかを説明しようとすれば、話は少し長くなる。



 外はまさに、惨憺たるありさまだった。

 台風による悪天候のために、今日は三校時までで休校になった。もっとも、交通機関は朝からマヒしていて登校すらできなかった生徒も多く、教室には空席が目立っていた。朝は動いていた市バスも下校の頃にはまともに動いておらず、帰りがけには学校前の屋根付きのバス停で生徒たちがひしめき合っていた。

 駅に着いたら着いたで、改札口には『強風のため全線運休』の張り紙が掲示され、復旧を待つ溢れんばかりの客でごった返している。

 そんな喧噪の中、待合いロビーで見覚えのある生徒が立ちつくしていたのだった。

「藤倉」

 不安だったのだろう。呼びかけた声が俺だと分かると、ガラス越しに打ちつける雨を眺めていた藤倉は、安堵の笑みを浮かべてこちらを見た。

「先生!」

「もう二時を回っているぞ。生徒はとっくに帰っているはずだろう?」

「学校に自転車を置いて歩いて来て、雨宿りを。先生は、どうしてここに?」

「ちょっと野暮用があったんで、寄り道していたんだ。それより、どうした。ずいぶん壮絶な格好だが、大丈夫なのか」

 横殴りの暴風雨の中、よくここまで来られたものだ――とはいえ無事ではないらしく、藤倉がかなり消耗しているのは一目で分かった。髪からは水が滴り落ち、彼女の顔の輪郭に沿ってぺったりと貼り付いている。それが気になるのか、藤倉は慌てたように髪を整えながら答えた。

「……実は、困ってました」

 聞けば、藤倉専用の合い鍵をテーブルの上に置いたまま登校してしまい、それに気づかずに後から出勤した母親に閉め出されてしまったとのこと。鍵を持っているのはその母親だけだが、職場に行くバスや電車は当然ながら運休で、途方に暮れていたという。

「お母さんの帰りは遅いのか? お父さんはどうした?」

「母は夜勤なので職場に泊まりです。父は単身赴任中なので。……とりあえずここで時間を潰して、服が乾いたらタクシーでも拾って母の職場に行ってみようと思っていました」

 藤倉は自分に言い聞かせるかのように強い口調で水浸しのカバンを持ち上げる。足下の床には小さな水たまりができていた。かわいそうに、明るい紺色のはずの制服のスカートは飽和状態にまで雨を吸い込んで墨色に変わっている。ブラウスは髪の毛同様ぴったりと身体に張り付き、普段よりもさらに小さい印象だ。透ける肌も色を失って――そこでやっと、慌てて目を反らす。とりあえず、俺は横を向いたまま自分の上着を脱いで差し出した。

「羽織りなさい」

「え? でも、濡れちゃいますよ」

「いいと言っているだろう」

「……ありがとうございます」

 遠慮がちに上着を受け取った藤倉は、しかし慌てて濡れた制服を隠した。

「タクシーはまともに動いていないぞ。制服だって、どう考えても乾かないだろう?」

 やっと顔を見て話ができるようになりいつものように見下ろすと、首が折れるのではないかと思うほど曲げ、細い顎を突き出すように俺を見上げている彼女と目が合った。不安と安堵が入り交じった丸い瞳、今日はいつもより一回り小さく見える身体――どうも、この小動物のような生徒を前にすると調子が狂う。

 助けてやりたくても校外で女生徒と二人きりになることにはためらいがあったのは事実。しかし、彼女のこの姿を見て放っておけるわけもない。

「藤倉さえ良ければ、車で送ろう」

「いいえ。そんな、悪いです!」

 藤倉は過剰反応ではないかと思うほどに首を振り、すぐに辞退した。

「いえ、あの、先生だってこんな日は早く家に帰りたいんじゃないかと思って」

「外がこの様子では俺だってどうせすぐには帰れないから、気にしなくていい」

「びしょ濡れなんですよ。車、汚しちゃいます」

「あとで乾かせばいいんだ。……まだ断る理由があるか? ないだろう」

「……そう、ですね」

 まるでボケとツッコミのようなテンポのやりとりに、彼女は思わず苦笑する。俺もつられて口元を引くと、「で、お母さんの職場というのは」とやっと本題に切り込んだ。

 藤倉は市街地からやや外れた場所にある大きな病院の名前を告げ、看護師なんです、と付け足した。そこなら俺のアパートは通り道になるから、飲み物くらいは出してやれる。ただ、田舎だけに迂回路が少ないので、道路事情に若干の不安はあったが。

「こんな日に夜勤とは、仕事とはいえ大変だな」

「でも、いくら天気が悪くたって、病気の人が減るわけじゃありませんから仕方ないです。……本当に、ご迷惑じゃないですか?」

 答える代わりに、俺は彼女の手から存分に水を吸ったバッグを取った。わずかに触れた手は想像以上に小さくて冷たい。

 藤倉はカバンを持っていた手を所在なさそうに動かしていたが、やがてこちらに向かって深々と頭を下げると小走りで俺の後へと従った。


 風雨が弱まる気配はなく、それどころか朝よりもやや勢いを強めつつあった。風で電線が切れたのか、信号機が停電していたるところで渋滞。路上はどこかから飛ばされてきたゴミや木の枝が散らばり、ところによっては道路が冠水してしまって通行止め。

 信号待ちの車内には、車に打ち付ける雨の音だけが響いていた。密室での居心地の悪さからか、藤倉は外ばかりを眺めていてほとんど会話がない。バチバチという雨音が充満するのを防ぐかのように、俺はつとめて楽しげに――俺のできる限りの明るさをもって話しかけた。

「……それにしても、似合わないな」

 似合わない、というのは、今現在藤倉が着ている俺の服のことだ。

 途中、タオルと当座の着替えの調達を目的に、藤倉を半ば強制的に連れて俺のアパートに寄った。部屋へと入るまでは無駄な抵抗をしていた彼女だったが、背に腹は代えられないといったところだろうか、やがて諦めて俺に従った。藤倉の身仕度が調う間に淹れたコーヒーで一服すると、先を急ぐためにあわただしく車に乗り込み、今に至っている。

 できる限り丈の短いものを選んだにも関わらず、小さな藤倉は完全に服に『包まれて』いる状態だった。ハーフパンツを足首までの丈でぴったりちょうどよく履いている状態というのは、恐らく今後の人生の中ではそうそう見ることがないだろう。そう思うと、どうにもおかしさが込み上げてくる。笑いを噛み殺しながら横目で隣を見ると、藤倉が口を尖らせているのが目に入った。

「笑わないで下さい。……先生の足が、長すぎるんです」

 ――笑うな。

 以前の俺に対しては考えられなかったそんな突っ込みにも、最近では慣れつつある。どうやら、会話の導入には成功したようだった。

「足が長いかどうかは別としても、サイズが合うはずがないんだ。笑って悪かったな。……まあ、諦めなさい。風邪でもひかれたら俺の授業にも出られなくなるしな」

「いえ、そんなに気にしていませんよ。確かに、ちょっと面白い光景だと思いますし」

 藤倉はそう言いながら自分の出で立ちを再確認し、ハーフパンツの裾をつまんで困ったように首を傾げた後に、自らぷっと吹き出した。そんな他愛もないやり取りで車の中は暖まり、変な緊張感も薄らいでくる。

 ちょうどそこで信号が青に変わり、路面を覆う雨水を割りながら車を発進させたものの、すぐに渋滞に掴まる。どんな話題を振ろうかと迷ったところで、今度は藤倉が話しかけてきた。

「先生、さっきは黙っていてすいません」

「気にするな。疲れているなら、俺のことなんか気にせず少し休むといい」

「いいえ、そんなことはないんです。……ただ、雨の日はちょっと苦手なので、つい無口になってしまいました」

「苦手?」

「はい。雨の日……というよりは、雷がダメなんです」

 何気なく話しているように見えた藤倉の声が、わずかに曇ったのが分かった。

「小さい頃、留守番をしていたときに近所に雷が落ちて。詳しくは覚えてないんですが、ほんとうに怖かったっていうことだけは忘れられません」

「では、こんな日に家に一人きりというのも心細いな。……あまり、思い出したくない話だったんだろう? 悪かったな」

「そんなことないです。前は少し寂しかったりしたこともありましたけど、今は平気ですよ。それに、その――今日は一人じゃないですから、怖くないです」

 藤倉は言ってから照れたのか、慌てて外に視線を投げた。俺も予想外の言葉に気恥ずかしくなり、車内には再び沈黙が訪れる。

 何か言おうとしながら、俺は嵐の中で雨をいやというほど浴び、雷の恐怖に耐えながら傘を支える藤倉の姿を思い浮かべていた。そして、藤倉がさっき駅で声を掛けたときに見せた、安心しきった表情も。

 彼女はいろいろと我慢して溜め込むタイプらしく、例の防火扉の向こうは唯一と言ってもいいくらいのガス抜き場のようだった。おそらく雷が怖いとか留守番が寂しかったとか、そんな弱音はご両親にさえ伝えていないだろう。

 藤倉が何かをこらえる表情は幾度か見たことがある。俺自身がその原因であることもしばしばだが、そのほとんどはあの防火扉での出来事だ。今日の俺は、少しでも罪滅ぼしができているのだろうか。

「家に着くころには雷も止むさ。……お役に立てて光栄だ。責任持って送り届けるから安心しなさい」

 彼女は憂いを追い出すように微笑むと、「はい」と答えて俺を見上げた。座った状態だというのに、この身長差もとい座高の差は何だろう。彼女が言うように足が長いかどうかは怪しいが、俺の服を彼女が着こなせるわけがないと改めて納得する。

 そんなことを考えていると、藤倉は何か思いついたらしく「あ」と小さく呟いた。

「そう言えば先生、話は変わるんですけど。……いつもは『私』ですよね? 今日は『俺』なので、びっくりしました」

 思い返してみると、駅で藤倉に会って以来『俺』で通していた。いつもならしっかりと公私を分けるようにしているのだが、今日は相手が藤倉だからといい意味で気を抜いていたかもしれない。

「普段はな。一応使い分けているんだ。学校では私、プライベートでは俺」

「じゃあ、表が私で裏が俺ですか?」

「そんなところだな。放課後だから裏で許してくれ」

「裏の先生も、表と同じく優しい先生ですね」

 俺にとっては放課後の自分が表なのだが、生徒の立場からすれば若柳先生が表、そうでない俺は裏らしい。

「そんなことないさ。……藤倉は表裏がなさそうでいいな」

「それ、誉めてくださってるんですよね?」

 彼女はやや疑わしそうに確認を取ったが、俺が「もちろん」と答えると屈託なく笑った。

 先生が雪のように冷たい人間だなんて思っていない――藤倉の言葉は今でも鮮明に思い出せた。藤倉はいつでもまっすぐに俺に向かい合ってくれる。その素直な感情表現は俺には羨ましく、尊敬すべきものでもある。

 しかし、俺はずるい大人で、藤倉には見えていない『良くない』部分だってたくさん持っているのだ。



 無事に鍵を受け取った帰り道は、行きと違って予想以上にスムーズに進んでいた。雨は降り続いていたが幾分小降りになったし、先ほどは消えていた信号も復活している。ただ、雨足が弱まるにつれて雷が鳴り始めたのが気がかりだった。それと共に隣の藤倉から言葉が消えていき、ついには無言になってしまっている。

「藤倉、雷は大丈夫か?」

 たまらず尋ねたが、いくら待っても返事はない。不審に思って信号待ちの間に助手席を見ると、疲れが出たのか、藤倉はがくりと頭を垂れて静かな寝息を立てていた。

「……寝た、か」

 登校から今の今までずっと気を張っていたのだ、疲れもするだろう。藤倉家の詳しい場所を聞くためにはいずれ起こさなくてはならないが、今くらいは休ませてやろうと、俺はとりあえず自分のアパートを目指すことにした。


 ところが、アパートの駐車場に入ってもなお、彼女は眠ったままだった。

 ――可愛い顔して寝るもんだな。

 初めて会ったときのあどけなさがまだ残る寝顔。それを見守る俺の心の中でじわじわと何かが溶け出し、いっぱいになって溢れる。近頃、たびたびほとばしる感覚だった。

 俺は手を伸ばし、すっかり乾いた彼女の髪の毛、そして頬にそっと触れた。柔らかく俺の指を押し戻す感触に、溢れ出した何かは暖かさとなって広がっていく。このままずっと触れていたい――そんなことを考え、そこで我に返り、慌てて手を引っ込めた。

 ――何やってるんだ、俺は!

 今、自分のしたことへの驚きと自己嫌悪、まだ手に残る藤倉の柔らかさ、暖かさ。いろいろなものがない交ぜになった感情を持て余して、俺はハンドルに突っ伏した。

 しばらくそのままの格好で冷静になろうとしてみたが、徒労だということはすぐに分かった。いくら待っても溢れ出したものは湧き出し続けて止まりそうもない。

 ――そろそろ九時を回る。とにかく、今は彼女を家まで送ろう。

「藤倉、起きなさい」

 俺の呼びかけに、彼女の眉がちょっとだけ動く。うろたえていて正直それどころではないのに、声だけは普段の通りなのが我ながらおかしい。

「そろそろ帰るぞ」

「……ん」

 二、三度瞬いて、藤倉がやっと目を覚ました。顔を上げるとぼんやりと正面を眺め、軽く頭を振ると右を向く。そこで、彼女の顔を覗き込んでいた俺と目が合った。

 寝ぼけ気味の藤倉は一瞬事態が把握できずにいたらしかったが、俺に気付いたとたんにぱっと目を見開いて声にならない声を上げると、ちょっと前の誰かのように顔を伏せてしまった。

「おはよう、藤倉」

「油断してました。……恥ずかしいです。結構寝てましたよね?」

「もっと寝かせてやりたいのはやまやまなんだが、あまり遅くなるのもな。……そうだ。そこの物入れ、開いてみてくれ。中に俺の名刺が入っているはずだ」

「名刺?」

 仕事で使っている名刺の予備を入れっぱなしにしていたのを思い出したのだった。藤倉はやっとゆるゆると顔を上げると、俺の言うとおりに車に据え付けの小物入れを開けて名刺を一枚取り出す。

「雷、不得意なんだろう? 心細くなったら連絡しなさい」

「あ、電話番号! いいんですか?」

「例えば今日のような事態で、俺が通りかからなければどうするつもりだったんだ? 教えておくから、困ったときには遠慮せずにかけてくれ」

 藤倉は俺がうなずくのをしっかりと見届けると、まだかなり湿っている通学カバンからやたらと物の詰まったビニール袋を取り出し、さらにその中からスマホを探し出す。どうやら、荷物が濡れないようにカバンの中身をビニール袋に入れていたらしい。準備が良いかと思えば鍵を忘れたり、しっかりしているのかおっちょこちょいなのか、いまいち掴めない。

 藤倉は俺の心中など知る由もなく無邪気にスマホをタップしていた。もっとも、今の俺の心境を看破されてしまうとかなり困ってしまうが。

 やがて一仕事終えたらしく、名刺とスマホをカバンにしまった彼女は人懐っこい笑顔を見せた。

「さっそく登録しました。……なんだか心強いですね」

「そうか? ……さあ、いいかげん出るぞ。ナビをよろしく頼む」

 俺は踏み出してしまった一歩を悟られぬように、いつも通りを装って車を出した。



 彼女を自宅まで送ってからアパートへ戻ると、スマホのイルミネーションがメールの着信を伝えていた。

 新着、一件。

 見覚えのない番号に、俺は急いで受信トレイを確認する。

 メールのタイトルは『先生、藤倉です』だったが、名乗らずとも文面だけで差出人が藤倉だと分かる。俺は、一字一字を確認するかのように、ゆっくりと画面をスクロールさせていった。


  お言葉に甘えて初めてメールをします。

  緊張します…。

  今日はご迷惑をおかけしましたが、本当に助かりました。

  ありがとうございます。

  雷は遠くに行ったみたいなので、私はもう大丈夫です。

  それよりも、先生は無事にお家に着きましたか?

  雨は小降りになりましたが、少し心配です。

  お借りした服は、あとでこっそり準備室にお返ししに行きますね。

  それでは、お休みなさい。


 何度も彼女のメールを読み返して考えたが、返信は当たり障りのない内容に落ち着いた。送信した後もスマホを握ったまま、俺はぼんやりとディスプレイを見つめ続けた。

 はじまりは、あの秋の日だった。

 藤倉と出会ったのは『教師は感情を動かさなくても仕事に支障はない』と悟った矢先で、俺は無表情、無感動に日々を送っていた。もともとそんなに付き合いの良くない人間だから、そんな生活にも特に不便さや不自然さは感じなかった。

 しかし初めて藤倉と話した日、俺の中のルールはひっくり返った。

 以来、藤倉に先生は優しいと言われればそうありたいと思うし、彼女の瞳に涙が浮かんでいるのを見ればマグカップを取り落とすほどに動揺し、胸が痛くなる。冷えた心に差した温かくてほんのりと灯る光は、幾度追い出そうと頑張っても、見て見ぬふりで逃げようとしても頭から離れない。

 さっき彼女に触れた左手から、厚い雪はさらに溶けていく。この想いは唐突に零れ出したわけではなく、これまでずっと考えるのを避けてきただけで、募ったものに名前を付けるのは簡単なことだった。


 俺の中には彼女がいる。

 俺は、藤倉に惹かれているのだ。

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