第7話 白々しいにも程がある ~高校二年・秋/椿
秋も深まって紅葉が綺麗に染まるころ、今年も文化祭の季節がやってきた。通称『橙高祭』は、いよいよ明日・あさって。部室で舞台の準備を終えると、蔦ちゃんと別れた私はいつものように防火扉の向こうへと足を運んだ。
「先生」
「ああ、君か」
私の声に振り向いた先生は、肌寒いくらいの空気の中、白衣とワイシャツを肘まで捲り上げていた。夕方の日差しのせいか、いつもより優しげな先生の眼差しに出会う。
「腕、寒くないんですか」
「寒くないわけではないが、汚してしまってな。……明日の準備をしていて水槽の中身を被ってしまったんだ」
「水槽?」
「カエルとイモリとドジョウが入っていて――」
「あの、詳しい説明はいいです」
そういえば、先生は生物部の顧問だった。ナマモノ達の羅列に慌てて話を遮ると、先生は「苦手だったか?」と目を細めた。同じ文化部仲間の晴れ舞台、前日になって中止なんてことがあったらいたたまれない。気になってその先を尋ねる。
「それで、生き物と水槽は無事だったんですか?」
「何とかな。さっきまで部員達と回収作業に追われていたよ」
回収作業、と聞いて背筋が寒くなったが、明日からの展示には影響がないという。先生と生物部員達がどたばたしながら生き物を追いかけている姿が目に浮かんで、私は思わず微笑んだ。
「じゃあ、明日が楽しみですね」
「いや。……去年、真面目に展示監督をしていたらひどい目にあったからな」
「『今入部すれば、若柳先生があなたを橙高祭にエスコート!』……でしたっけ」
「そんなくだらないこと、早く忘れなさい。今年は見世物になるのはごめんだな」
『去年のひどい目』というのは、先生の女子人気をダシにして部員募集をした結果、生物室に入りきらないほどの人がごった返してたいへんなことになったのを指している。生徒の中では橙高祭の新たな伝説として語り継がれているのだけれど、先生がそんなことを知っているはずもなく、当の本人は去年もこの場所で『私は動物園の動物か?』とぼやいていた。
苦虫を噛みつぶしたような顔で、若柳先生は先生らしからぬ決意表明とともに遠い目をする。
「同じ過ちはしない。どこかで絶対に抜けるつもりだ」
「サボりですか?」
「未来への退却と言ってくれ」
「それなら、ぜひうちの部を見に来てください。明日の午後と、あさっての午後です。今年は吹奏楽部と合同で、生演奏つきなんですよ」
私は、ここぞとばかり演劇部の売り込みを始めた。去年はそのゴタゴタで先生に舞台を見てもらえなかったので、今年こそはと考えていたのだ。
「演目は?」
「ウエスト・サイド・ストーリーです。私、歌も歌います。蔦さんと一緒に」
「ふうん」
「私の歌は――まあ、面白いと思います。あ、でも、吹奏楽の音楽は文句なしに素敵ですよ」
関心があるのかないのか分からない先生にたたみかけるように、小出しにネタを披露する。歌、と言ったところで先生の眉が少しだけ動いたのを、私は見逃さなかった。
ウエスト・サイド・ストーリーはロミオとジュリエットを下敷きにした悲恋の物語だ。私は主人公の一人、マリアの役をもらったものの、一般のお客さんが入るあさっての舞台では三年生の先輩に譲った。それはもう一人の主人公・トニーを男装で演じる蔦ちゃんも同様で、彼女も明日行われる生徒へ向けた公演のみの出演だ。
「ミュージカルか。それは少し興味がある」
「ダブルキャストなので、私と蔦さんが出るのは明日だけなんですけど」
「分かったよ。……では、明日は少しだけサボって観劇といくか」
「良かった。ますます気合いが入ります!」
「正直だな。……意外と、ギャラリーがいた方が燃えるタチなのか?」
よほど目を輝かせてしまったのか、彼は私の顔を見るとこらえきれないと言った様子で破顔した。
最近は、先生の喜怒哀楽もだいぶ分かり易くなってきたように思う。それは、私が先生の表情を読むのがうまくなってきたわけではなくて、先生自身が出す色が以前よりもはっきりしてきたからだ。不器用ながらもまっすぐに飛んでくる思いを受け止めるのには多少コツがいるけれど、私はそのキャッチボールが楽しくて仕方がない。
まさか、『見に来るのが先生だからです』と言うわけにもいかない。何かフォローを入れようとしたが、すぐに思い直して貴重な笑顔を目に焼き付けようとしばらく黙る。すると今度は先生が、私に聞こえないくらいの小さな声で何か呟いた。
「え?」
「いや。……さあ、そろそろ下校時刻だぞ。明日に備えて、早く帰って休みなさい」
言葉を濁し、先生は立ち上がると校舎の中に入るよう促した。
先生に防火扉を開けてもらって建物内に戻る。先生がマグカップより重い物を持っている姿は想像できないのだけれど、間近で見ると意外にも筋肉質な男の人らしい腕だった。
「頑張ります。……それでは、また明日」
別れ際、生物準備室の前で軽く会釈をすると、私は実験棟を後にした。今日はちゃんと眠れるんだろうか。明日はセリフや歌詞が飛ばないだろうか。先生が見てくれるというだけで、そんな悩みなど吹き飛ばせるほどの力が湧いてきていた。
次の日の夕方。
演劇部と吹奏楽部のウエスト・サイド・ストーリーが文化部発表のトリを無事に勤め上げ、橙高祭初日のメインイベント『宵祭』の時間がやってきた。夕焼けの空が徐々に藍色に変わりつつあるころ、生徒も先生もみな体育館に籠もり、実行委員会主催の様々なアトラクションを見物するはずの夜。
部室に荷物を運び、先ほどまでの舞台の後片付けを終えてすぐに、私はその熱気を避けるように一人実験棟へと向かった。
防火扉の外へ出ると、先生がいつものようにコーヒーを飲んでいた。非常階段に腰掛け、手にはビーカーを持っている。いつかここでマグカップを割ってから、ずっと新しいものを買っていないらしかった。
「先生、サボってますね? 今頃はきっと『ミステイク橙南』やってますよ」
「女装コンテストか」
「うちの部から衣装を借りていった人もいました」
「見に行ったらどうだ? ……実は、今年は私にもオファーが来たんだ。全力で断ったがな」
「え! 先生が出るなら見ます」
「やめてくれ」
「来年はぜひ出てください、先生でも着られる衣装を準備しておきますから。……先生、足が長いからチャイナドレスとか似合うと思いますよ」
「いい加減にしなさい。……君こそどうした。宵祭には出ないのか」
「ええと……あまり興味がなくて」
先生はメガネのブリッジを押し上げると、私を見て眉間に皺を寄せる。
「強制参加ではないからな。準備が残っている生徒は出ていないし、私も人のことは言えないから戻れとは言わないが」
「すみません」
「まあ、いいさ。……さっきは押しかけてすまなかったな。邪魔になるかと思ったんだが、宵祭には初めから出ないつもりだったから早めに言っておこうと思った」
発表が終わった直後、先生はわざわざ私と蔦ちゃんが控えていた舞台袖までねぎらいの言葉を掛けに来てくれた。私がその背中を目で追っていると、先生はやがて宵祭の準備が始まった体育館をひっそりと後にしたのだった。それを見て、きっとここ、扉の向こうにいるだろうという確信を持って先生に会いに来たのだ。
「邪魔だなんてとんでもないです。みんな、驚いていたけど喜んでましたよ。……わざわざありがとうございました」
「それならいいんだ。楽しめたよ。藤倉の歌もなかなか上手かった。……ところで」
窮屈そうに膝を抱えたまま座り続けていた先生は、ビーカーを空にすると立ち上がった。もう戻るつもりなのだろうか。
「白々しいぞ、不良生徒。見たところ、着の身着のままだな。何か、急ぎの用があるんじゃないのか」
私はといえば、先生を追って急いでいたためにさっきまでの舞台衣装――真っ白いワンピースに制服の上着を羽織った格好という、なんともアンバランスな服装だった。それを見とがめて、先生はため息混じりで苦笑いした。
この場所からは、今にも夕闇に沈もうという体育館――宵祭の会場が見える。体育館を出る先生の後ろ姿がなぜか寂しそうに見えて、いてもたってもいられずここまで来た。一年に一度の賑やかな日を抜け出して、いったいどういう気持ちで一人コーヒーを飲んでいたのだろう。
「私、先生を追いかけてきたんです。体育館から出るのが見えたので」
「どうして?」
「お渡ししたいものがあって。……演劇部には掟があるんです。舞台の後、一番に声を掛けてくれたお客さんにはお礼に小道具をひとつ差し上げるっていう」
本当は掟なんかよりも私個人が先生にもらって欲しいという気持ちのほうが強いんだけれど、それが先生を探しに来た建て前だった。
小道具をはぎ取られない役者は、部員内での評価が下がる。受け取ってもらえないときには押しつけるくらいの勇気がないと、舞台度胸を認められない。
私は、制服のポケットからさっき舞台で着けていた小道具――ガラスビーズをあしらったワイヤーリングをそっと取り出す。明日の舞台のことを考えて先輩の演技に支障が出ないものを探したらこれくらいしか見当たらなかった。しかし、かさ張らないしいかにも安っぽいので、先生も受け取るのに抵抗がないだろう。
「これ、良かったらもらってください」
「生徒たちが主役の祭だ。私が受け取っていいものではないだろう?」
「そんなことないです」
「今の私は、高校生のような気持ちで君たちと文化祭を楽しむということはできない。そんな私が譲ってもらっても、君たちの素晴らしい舞台に失礼だ」
「私は、他のみんなも私も先生も同じ時間にいて、文化祭を一緒にしてるって思ってました。……こだわらなくてもいいんじゃないですか。私は先生が来てくれて嬉しかったから、これをもらって欲しいと思って来たんです。それじゃ、ダメですか?」
目の前に立ちはだかる壁を少しでも低くしようと、私は全力で食い下がった。先生の視界に入るように指輪を高く掲げて、せいいっぱい背伸びをする。すでに日が落ちた外はいつもと違って暗く、そうでもしないと先生の顔がよく見えなかったのだ。
「私、本当はあと八年早く生まれて――いえ、七年でも六年でもいいんですけど、先生と一緒に文化祭をしてみたかったです。……でも、私が今こうして先生と一緒に過ごしている橙高祭は、そんな想像よりももっともっと楽しいです。今年のお祭を一緒に楽しんだ証拠に、受け取ってくださいませんか」
やり取りの中で、この指輪を受け取ってもらえれば先生との心の距離が少し縮まる、そんな気がしていた。できる限り先生を見上げ、私は思っていたことを素直に伝える。思わず、先生が好きだから、と言ってしまいそうになるのを喉の奥に留めるのに必死だった。場面が違えば告白のようにも取れる言葉だったことに後から気付いて、私はそのまま俯いた。
「……私も似たようなものだ」
しばらくして、先生が静かに呟いた。何が似たようなものなのだろう――疑問に思った私が顔を上げると、一旦は立ち上がっていた先生は再び階段に座り直し、私に隣の空いた場所を示した。ジェスチャーに従って私が腰掛けると、彼は体育館の方に視線をやったまま話を切り出す。
「昨日、私が何か言いかけてやめたのを覚えているか?」
「あ、はい。私が聞き取れなかったことですね」
「こういうのも悪くないな、と言ったんだ」
さっきの沈黙は言葉を選んでいた時間だったらしく、先生は多少照れくさそうに、しかし蕩々と話を続ける。
「展示物を前日になって慌てて準備したり、打ち上げの相談をしたり、周りの進行状況を聞いたり、いろいろな根回しに駆け回る実行委員を見かけたり――ここに来てみれば、君が居残って必死にセリフを覚えていたり。今年は、そういうことを見守るのが面倒だと思わなくなった。……高校生に戻りたいわけではなく、今の君たちと同じ橙高祭を楽しみたいと思った。これだけ頑張ったら、さぞ楽しいだろう、と。でもまあ、それは無理な相談だろう」
似たようなもの。
私は先生と同じ世代として文化祭を体験したかったし、先生も教え子たちと同じ文化祭を同じ立場で共有したかった――そういうことのようだった。いい意味で子供じみた先生の一面を垣間見た気がした。やや屈折した表現ではあるが、柔らかい顔つきを見ると彼なりに準備期間を楽しんだらしい。
当たり前だけれど、学校生活を生徒の立場で送ってみたいと思っても、生徒は『若柳先生』として扱うし、先生としての役割分担だってしっかりと決められている。それをきっちり理解しているはずの先生がどうして拗ねたように膝を抱えているのか、なんだか不思議だった。
「だから、ここで少し遠くから向こうを見ていたんだ。……しかし、そうだな。君と話していて少し前向きになろうという気になった。こうして宵祭をサボるのも楽しみ方の一つか、とかな」
「先生、そんなこと言ってると実行委員に怒られますよ」
「今こうしている時間も橙高祭なんだろう?」
普段よりフランクな雰囲気は、文化祭というイベントのせいなんだろうか。先生はメガネを直しながら私の言葉を勝手に引用すると今日初めて私の方をしっかりと見据え、すっきりした表情で「さっきの小道具、いただくよ」と口元を緩めた。
「本当ですか?」
「ああ。藤倉が今年の文化祭を頑張った証拠、預かろう」
私はずっと握りっぱなしですっかり暖まってしまったリングを、先生の手のひらに乗せた。先生はそれをそっと白衣の胸ポケットに入れると、確認するようにポンポンと上から叩いた。ポケットに浮き出た丸い形が、暗がりでもはっきり分かる。
「確かにもらったぞ。これで、藤倉も女優として認められるわけだ」
「ありがとうございます」
「サボりの証拠でもあるがな」
「それは先生も一緒です」
「なかなか言うじゃないか」
先生は困ったように顔をしかめ、話を終わらせようとしたのかすっと立ち上がった。
「今日はご苦労さま。君はどうする。宵祭に戻るのか?」
「そうですね。……今から行っても乗り遅れちゃいますし、今日は着替えたら帰ろうかと――」
「では、ほら」
先生は、続いて立ち上がろうとした私に何気なく手を差し伸べてくれた。
そういえばさっきの舞台、主人公の二人がお互いの気持ちを確かめ合ったのは、非常階段の下だったっけ。階段の下から手を伸ばすトニー、その手を取るマリア。私と先生も、もしかしたら万に一つの確率くらいで――そんな筋書きを頭から振り払う。
「コーヒーは喉に悪いかな、『女優さん』?」
「いえ! 喜んでいただきます」
先生の手、掴んでいいのかな。
一瞬浮かんだ迷いは嬉しさでかき消し、私はその大きな手を取って立ち上がった。今日は欲張りすぎず、先生との距離が少し近くなった、それだけで充分だと思おう。私にもっと勇気が溜まったら、そして想いが募って溢れそうになったら、その先を考えよう――。
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