第8話 空のゴミに祈る。このまま世界を沈めてくれ ~高校二年・冬/理雪
「流星群、ですか。……外で、空を見るんですよね?」
いつものように進路指導がてら茶飲み話をしていると、藤倉が目を丸くして身を乗り出してきた。
今日は観測好適日――新月で、星空を眺めるのにはもってこいの夜だ。大学の友人と星を見に行くと言うと、藤倉はいちばんに「寒くないんですか?」と尋ねたのだった。
「望遠鏡を使うから、車の中では無理なんだ。厚着をして行くし、寒くなったら車の中に入って暖まる」
「それなら安心ですね。……天気も良さそうですし、楽しそうです」
藤倉は少しだけ口を尖らせた。彼女の家は市街地のど真ん中だったが、今日の流星群は肉眼でも見えるほどの光度と規模のはずだから、うまくいけば藤倉家からも観測できる。俺は、羨ましそうな顔の彼女に口添えをしてやった。
「周りに明るいものがなければ、街中でも望遠鏡なしで見えると思うぞ」
「本当ですか? じゃあ、夜になったら私もちょっと外に出てみます。今日は一人ですし」
ということは、母親は夜勤なのだろう。一人の夜も星を眺めて過ごすなら短く感じるかもしれない。
「それはいいことだが、君こそちゃんと着込んで見なさい。それと、常識的な時間で帰るようにな」
「はい、分かっています。……流れ星がたくさんだとお願いのしがいがありますね。夜までに考えないと」
「流星群にかけた願いがすべて叶うなら苦労しない。藤倉なら、神頼みよりも自分で頑張った方が早いような気がするが」
彼女は眉根を寄せて少し考え込むと、「そうでしょうか」と呟く。
「君なら、な。まあ、もちろん私も人のことを言えたものではなく願掛けしたいことだらけだが」
ひいき目ではなく、藤倉はやればやるだけ伸びる生徒だということは担任として保証できる。生物だけが抜きんでていた成績は他教科も徐々に上がってきているし、それでいて部活にも手を抜いていない。そんな彼女が星に願うこととは、いったい何なのだろう。
「お互い、たくさん見えるといいな」
そう言うと、藤倉はにっこりと笑ってうなずいた。
塩出文人は現役大学院生だが、二浪の末の大学合格だったので俺よりも二つ年上の元同級生だ。同じ学科、同じ講座と来て、研究室は分かれてしまったものの現在の俺の一番の友人である。
「月が出てないからよく見えるな」
隣で、その文人が嬉しそうに望遠鏡をのぞいていた。天体観測は大学に入ってから始めた趣味で、もともとは彼の趣味に付き合わされたのが始まりだった。社会人になってからはなかなか行く機会に恵まれなかったが、今日は文人の誘いで久々に郊外の高原まで足を運んだのだ。
「……なあ、なのに何で俺は男二人でこんなロマンチックな場所に来てるんだ」
「俺を誘ったのはお前だぞ、文人」
「そりゃそうだけど。でも、できればこういうところは女の子と来たいだろ」
「言ってろ。……と、悪い」
タイミング悪く、ちょうどそこで俺のスマホが鳴った。
先生、こんばんは。夜分にすみません。
今、家の窓から空を見ています。
やっぱり、灯りがまぶしくてよく分かりません。
そちらでは流れ星、きれいに見えていますか?
先生は外にいらっしゃると思います。
風邪を引かないように観測してくださいね。
藤倉だった。文面からは落胆の色がにじみ出ている。
彼女の街から空はどのように見えているのだろうか。できることなら俺の目の前の景色を分けてやりたいが、無理なものは仕方がない。自分のいるところからは流星群がとてもはっきり見えること、期末テストは願掛けに頼らずに頑張ること、温かい飲み物で暖を取りながら観測していること。それらを手短に返信してスマホをポケットにしまうと、文人がニヤニヤしながら俺を見ていた。
「何だい、嬉しそうに。彼女? 俺のことは気にせずここに呼べ、呼べ」
「違うよ」
「じゃあ今のは? あ、教え子? もしかして女子?」
「それは」
俺の教え子で、同時に心から愛でたい存在であり、一方では憧れ。そんなことが頭をよぎって一瞬ひるんだ俺に、文人はさらに尋ねる。黙ったりなどせずに正直に答えれば良かったのだが、口籠もった時点で負けは見えていた。悪友は俺の沈黙で確証を得たらしく、自信たっぷりに言う。
「答えは『ちょっと気になる女生徒』」
「うるさいな」
「なあ。もしかして、ほんとに本気で好きなの?」
文人を眺めたまま考え込んで無言になった俺に、彼は何かを感じ取ったらしい。ふざけすぎたと思ったのか、文人は慰めるように俺の肩を叩いた。
「からかってごめん。……お前、よく笑うようになったのはその子のおかげか?」
「彼女以外の人間にそれを指摘されたのは、初めてだ。……自分でも分かっているつもりではあるんだが、そんなに違うものなのか」
「自覚ないのか。……変わったぞ」
「いや。俺自身が一番戸惑っているんだ」
「それそれ。その顔だよ。丸くなったって言うか、柔らかくなったって言うか、そんな感じ」
彼は星のことなどそっちのけで俺の顔を観察すると、「きっと、いい子なんだな」と笑った。
「ああ、自慢の生徒だ。努力家で、まっすぐで」
「はいはいはいはい、ごちそうさま。……しかし、いろいろ考えちゃうと茨の道だなあ。今受け持ってるってことは高二? お前に残されてるのはあと一年半だけだろ。いっそ、言っちゃえば?」
「卒業まで待てば、何の気掛かりもないだろう」
「ま、それが無難なんだろうけど、そんなに待てんの?」
「実際のところ分からない。……俺は教師で彼女は生徒なんだ」
それでなくても恋愛沙汰には強いとは言えない俺が、この先自分をどれだけひた隠しにできるのか怪しくはある。残りの一年半、例えば彼女と二人きりになったら――夏の嵐の夜にすでに前科があるからこそ、何事もなく、つまりは思いを告げずにいることができるのか甚だ疑問なのだった。
例えば世界が沈んで、この星の上に彼女と俺だけしかいなければ今すぐにでも伝えられるのに。教師だの生徒だの年の差だのという括りがなくなって、何も気にせずに二人の人間として存在できるならどんなに楽だろうか。
――そうか。自分だけでは何ともしがたいことは、星に願いたくなるんだな、藤倉。
相手があるということは、なんともどかしいのだろう。仮に伝えたところで心が通じ合うのかどうかも分からない。自分で頑張った方が早いなんて言える立場ではなかった、と一人で苦笑いしていると、文人がぽつりと呟いた。
「でも、好きなんだろ」
「ん?」
「そればっかりはどうしようもないじゃないか。教師だからって、人を好きになっちゃいけないってわけじゃないんだし。理雪がその子を好きだと、誰かが不幸になったりするか?」
いつもは軽いノリの友人が珍しく真顔で、言葉を詰まらせながら話す様子にはっとして文人を見る。
「お前、確かに角は取れたけど、よく笑うようになったからこそ、黙って悶々としてるのはかえって辛そうなんだよ。卒業待つ意志があるくらい本気で惚れてるんなら、責任とか全部自分が背負うつもりで、お前が本当に思ってるとおりにした方がいいと、俺は思う。どうしたいんだ、お前は」
文人は静かにそれだけ言うと、無言で再び望遠鏡に向かい始めた。恐らく、俺に考える時間をくれたのだろう。
――妨げになるものを乗り越えてでも藤倉を手に入れたい。星に願いを掛けて楽ができたらなんて虫がいいにもほどがある。
頭の片隅に確かに芽生え始めていたその覚悟を、文人のおかげで今はっきりと思い知った。『俺は教師で彼女は生徒』だなんて、ずるい大人の逃げだ。橙高祭のとき、俺はまっすぐに前を向こうと藤倉に告げたではないか。
彼女と同じ時間、同じ空を見上げていたのだと思うと、愛おしさが込み上げる。それが他の何よりも優先する感情だということを今日、やっと認めることができた。
「好きなものは、好きなんだな。……ありがとう、文人」
「何言ってんだ、恥ずかしい。お前も、たいがいまっすぐな奴だな」
俺が「お前もな」と言うと、文人はようやく彼らしく豪快に笑った。こうしてたまに見せる少しだけ先輩らしい面に、俺は昔から助けられてきた。そして、今回も。
しばらく経って、俺のスマホが再び鳴った。予感はあったが、バックライトに照らされながらメールを確認すると、差出人は『藤倉椿(スマホ)』だった。
先生、こんばんは。
遅くにご迷惑かとは思いましたが、報告だけでもと思いまして。
近くの公園まで出て来て、ちょうど今、流れ星が見えました!
でも、先生のおっしゃったとおり願掛けはやめます。
自分の力で頑張ってみようと思います。
周りはみんな恋人同士の人たちばかりで、いづらいです…。
もう帰りますから、心配しないでください。
それでは、おじゃましました。
お休みなさい。
前のメールから二時間ほどが経過しているが、ずっと空を見ていたのだろうか。
まさかとは思うが、きっとそうに違いなかった。この底冷えする寒空の下、何かを願おうか願うまいか迷いに迷って、ようやく決意できたからこそメールを打ったのだろう。藤倉はそういう性格だと、俺はよく知っている。自分で自分の願いを叶えることができる、芯の通った女性に成長したのだ、と。
俺は手袋を外すと、急いで藤倉に返信を打った。
こちらはまだまだ起きているから、気にしなくていい
無事に見られて良かったな
私も星を見ていて願いを掛けたくなる気持ちは分かったよ
しかし、その決断も藤倉らしくていいと思う
叶えるために頑張るなら応援しよう
君も風邪を引かないように
それと夜道はくれぐれも気を付けて帰るんだぞ
それでは、お休み
メールの送信を見届けると、俺は横で一部始終を静観していた文人に一つ頼み事をした。
「なあ、文人。明日、暇だったらちょっと付き合ってくれないか。買い物に行きたい」
「ああ、いいよ。……なんとなく何が欲しいのか分かるような気がするけど、俺そういうの選ぶセンスないぞ」
「本来なら一人で行くようなところを、お前に頼んでいる時点で俺のセンスも知れてるだろう」
「確かにな」
友人は苦笑しながらも快く引き受けてくれた。
来年は、この空を彼女と一緒に見たい。少しでも、ともに過ごす時間を長くしたい。彼女が悩んだ末に何かを決断したように、俺も望みは自分の力でつかみ取るのだ。
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