第9話 お返しのほうが立派だったりする ~高校二年・冬/椿
振り絞ったなけなしの勇気を糧に、私は二階の渡り廊下を進んでいた。窓から外を覗き込むと、授業の間に積もった新雪の上を、寄り添って帰途につくカップルが見えた。いつもよりなんとなく男女の二人連れが多いのは気のせいだろうか。
(みんな、うまくいった人たちなのかな)
今日は、バレンタインデーだ。
立ち止まってカバンを開けると、白と水色の不織布の包みが当たり前のように入っていた。そして携帯電話の『雪』フォルダから受信メールを呼び出し、それを見てまた歩き出す。『叶えるために頑張るなら応援しよう』という一文を、朝から何度確認しただろう。
頑張れと心の中で呟いて、再び一歩一歩先生の元へと近づく。プレゼントを渡した後のことを考えると怖じ気づいてしまうから、今は目の前だけを見て歩こう。けれど、受け取ってもらった後、まだ勇気が残っていたら――先生に、伝えたいことがある。
「残念だが、それは貰えない」
しかし、生物準備室の廊下でその言葉を聞いた私の心は途端に凍り付いた。反射的に、身を隠すように壁に寄りかかって息をひそめる。どうやら、先生と女生徒の会話らしかった。
「わざわざここまで来てくれたのはありがたいんだが、基本的に生徒からの贈り物は断っているんだ」
「本命なんです! 頑張って作ったんですから、受け取ってください」
「その気持ちはちゃんと受け取った。それで許してくれないか?」
「先生、酷い! もらってくれるだけで、食べてもらえなくてもいいんです。捨てて構いませんから」
「本命だというなら、気持ちを込めたものを捨ててもいいなんて言うもんじゃない。……もらえなくて、本当に申し訳ない。すまないな」
先生の沈んだ声のあと、悲鳴のようなブーイングと共に生物準備室から数人の女子生徒が退散する足音がした。彼女たちと顔を合わせたくなくて、私はまっすぐに逃げた。目の前には、あの防火扉がある。
いつだったか、先生に『冬場は凍っていて開かない』と言われた扉は、私の必死の体当たりに負けたのかゆっくりと開いた。紅葉の下に逃げ込むように外へ出ると、いつも腰掛けていた非常階段には冷たい風で吹き溜まった粉雪が積もっている。私は手で雪を払いのけて階段に座り、身体を丸めるように膝を抱えた。
プレゼントをちゃんと渡せるのかどうか心配しながらここまで歩いてきた。けれど、先生が受け取ってくれるなんて保証はなかったのだ。それなのに私は、ひとりで浮ついてプレゼントを選んだり、心を躍らせながら実験棟を歩んだり――。
渡そう、とあれだけ固く決意をしてきたはずなのに突き返されるのが怖くて逃げた。先生の目に拒絶の色を見ることが怖い。
(私、何やってるんだろう。頑張らなきゃいけないって思ってたのに。……意気地なし。馬鹿みたい。ほんと、馬鹿)
情けなさで目頭が熱くなったけれど、先生にもう泣かないと宣言したからなんとか涙はこらえていた。私は小さくなったまま身じろぎもせず、北風に枝が揺れる音を聞いていた。
それから、どのくらい経ったのかよく覚えていない。
「藤倉?」
不意に、扉が音を立てて開いた。次いで響いたやや鼻にかかったバリトンにのろのろと顔を上げると、背の高いシルエット。間違えようもなく、若柳先生だった。
「やっぱり君か。扉が半開きになっていたから、まさかと思って――いや、それよりもとにかく中に入りなさい」
上履きのまま雪の上を大股で歩いてくると正面に立ち、先生は私の両手を取って立ち上がらせようとした。しかし、冷え切った私の手はほとんど感覚がなく、身体はまったく言うことを聞いてくれない。先生に引かれるがまま、崩れ落ちるように階段に膝をつく。
「すまない、大丈夫か? ……ずいぶん冷たいが、うまく立てないか?」
「……なさい」
ごめんなさいと呟こうとしても、顔の筋肉が固まってしまって口すらうまく動かない。すると、先生はため息をついて私の目の前にしゃがみ込み、次の瞬間には軽々と私を抱え上げていた。
「参ったな。……少し我慢してくれ。喋ると舌を噛むぞ」
冷え切った私に触れた先生の身体の暖かさが、コート越しにしっかりと伝わってくる。先生は何も聞かずに私を生物準備室まで抱きかかえて運ぶと、私の分だけコーヒーを淹れ、いつものようにビーカーで渡してくれた。
その一杯を私がゆっくりと飲み干すと、先生は「暖まったか?」とやや不機嫌そうに尋ねる。もっと怒られてしまうかと覚悟していた私は、面食らいながらも小さくうなずいた。
「まったく、あんなところにいたんじゃ凍死するぞ。いつから座っていたんだ」
「……ちょっと前からです」
「それだけで、そんなに冷えるわけがないだろう? まあいい。身体がほぐれるまで居ていいから、暖まったら帰りなさい」
先生の表情が苦笑いへと変わり、準備室の空気は少し和らいだ。
これまで先生からもらってきた気持ちがコーヒーの熱に溶かされて動き出し、流れ出す。頭の中で、先日聞いたばかりの『君ならできる、自分で頑張るんだ』という先生の言葉がしっかりと響いた。
今だ。きっと、今を逃したら一生後悔する。
「先生にお渡ししたいものがあります」
一気に言うと、後に引けなくなるよう、すぐにカバンを開けた。震える膝を押さえつけてから、眉をひそめる先生の顔を見つめて包みを差し出す。自家焙煎のお店で、砂糖とミルクを入れる人にいちばんお勧めなものを、と言って買った豆だった。
「……これ、ささやかですが、バレンタインなので。コーヒー豆なんです」
彼は戸惑いながらも受け取ると、「ありがとう。いただこう」と私を見つめて頬を緩ませた。
「こ、断らないんですか」
「何がだ?」
「プレゼント、断らないんですか。他の女子からのは受け取らなかった……ですよね」
「聞いてたのか。……まさか、君はそれを気にして外にいたのか? だとしたら、もう一時間近くも前だぞ?」
正直なことが言えなくて、私は先生から目を逸らした。
その先には、先生がいつも仕事に使っている机。書類でいっぱいの机上には、飲み残しのコーヒーが入ったビーカーが放置されている。彼がこの部屋に入り浸る理由は、いつでも紅葉を見ながらコーヒーが飲める、というだけなのを私は知っている。そのコーヒーを、実験で使わなくなった古いガスバーナーで淹れていることも、見かけによらず甘党でブラックでは決して飲まないことも。
もう、私の高校生活は若柳先生抜きには語れない。
「『基本的に』な。さっきの生徒たちにもそうだったが、本気の人間には、私も本気で答えないと失礼だろう」
「本気、ですか?」
「ああ」
その真意を掴みかねて聞き返したが、なぜプレゼントを受け取ってくれたのか、私には理解ができなかった。しかし、受け入れられたことで弾みがついた私は、心に浮かんだもう一つのことに気を取られてそれどころではなくなっていた。
優しい先生。君ならできる、諦めずに自信を持って椿に近づきなさいと、先生は言ってくれた。いつもいつも私を勇気づけて、背中を押して、勉強以外の色々なことも教えてくれた。今日だけはもう少し、その優しさに甘えてもいいだろうか。
私は舞台の前によくやるように、大きく息を吸い込んで心の澱とともに吐き出す。胸の中が空っぽになったところで、先生の名を呼んだ。
「若柳先生」
「ん? どうし――」
「聞いて、ください」
先生の言葉を遮ったものの、心を占領しているこの気持ちをいったい何から伝えたらいいのか、どうやって切り出したらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。しかし、分からないなら全部言えばいい、すぐにそう考え直して、私は真っ直ぐに先生の目を見た。冷たそうに見えるメガネの奥の瞳も、私がこれから告げようとしていることを感じ取ったのか、やはり真っ直ぐに私を見つめていた。
「こんなに強くひとりの人を想える力が私にもあるなんて、知らなかったんです。先生が、それを教えてくれました。……あの紅葉の下で私の話を聞いてくれたこと、すごく幸せでした。学校の中でも外でも先生の隣にいたかったです。先生の彼女になりたかったです」
先生は、私の目をじっと捉えたまま身じろぎもせず聞き澄ましてくれている。渇ききった口の中をなんとか湿らせると、続きを話し出した。
「入学してから……いえ、入学前から。出会ってから、ずっと思っていました。見上げないと目が合わないほど背が高いのも、私の目線に合わせて思い切り首を曲げてくれるところも、白衣をひるがえして歩く姿も、頼りがいがある大きい手も、低い声も、先生の淹れてくれるコーヒーの暖かさとか苦さも、優しさも、全部。ほんとに、全部――」
好きです、の一言は飲み込んだ。口に出してしまったら先生に迷惑がかかる。校内の噂になったりしたらいちばん困るのは先生だと分かっているから、本当に伝えたいことはどうしても言えなかった。
先生は、両手を合わせるように組んだ。私の好きな、大きな手だ。
「どうして、過去形なんだ」
「……え?」
「それはもう過去なのか? もう、私のことはどうでもいいのか」
「ち、違います! だって、きっと、叶わないから――」
「終わらせたいのか? 叶わないだなんて簡単に言うな。私はずっと見てきたぞ。君は今までだって壁を何度も乗り越えてきただろう? ……今度は、私の番だな。ちょっと、待ってくれ。今、頭を整理する」
沈黙の中、先生は表情を隠すように顔の下半分を手で覆った。そして、たっぷり五分も経ったころ、ゆっくりと口を開いた。
「藤倉は、私の大切な大切な生徒だ。……誰にも誇れる、自慢の生徒だ。生徒はいつか巣立っていくもので、俺にとってはそれが当たり前のことなんだ」
しばらく待ってよく通るバリトンが紡いだのは、予想通りの言葉だった。ああ、今日ですべてが終わるんだ――そう覚悟した矢先、先生はさっきよりやや大きな声で話を再開した。
「しかし、あと一年もすれば君がこの部屋に来ることもなくなるのだと気付いて、愕然とした。そんな生活が待っているなんて、今の私には考えられない。この部屋で一人きりで夕日を見て、一人きりでコーヒーを飲む日々がまた来るだなんて、想像できないんだ。……いろいろ考えを巡らせても、どうすべきなのか答えが出なかった。でも、藤倉は言っただろう。現実の橙高祭は、同い年だったらという想像よりも楽しい、と。考えたところで年の差が縮まるわけではないし、君は俺がどう足掻いたって俺の教え子であることに変わりはない。ただ、君と一緒にいられることが幸せだというのだけは分かった」
「ど、どうしたんですか、先生」
「それは、お互い様だろう? 俺は、俺の気持ちをそのまま話しているだけだ。本気には本気で答えると言ったじゃないか」
うろたえる私に、先生は目を細めて首を傾げる。見たことがないくらいに優しい微笑みだった。
事態は私の思わぬ方向に転がり始めていたけれど、少しだけこの状況に慣れてきた私は、先生が途中から自分のことを『俺』といっているのに気付いた。それは、先生の放課後の顔。これが先生の本気、本心だとするのなら――。
「君が現れて、どんどん成長するのを見守っているうちに、俺も変われた。君のそばにいると、固まった俺のすべてが暖かく溶けていくのを感じる。俺は、藤倉のおかげで笑えているんだ。……もう、わかるだろう? 君は言わなかったが、私は言うからな」
先生の言葉で半ば思考が停止していた私の頭の上に、心地よい重みが加わった。これは、今まで何度か撫でてもらったことがある先生の手。その度に照れながらも、私は幸せ者だと思ったものだった。
次いで、ギッ、と金属がきしむ音がして、先生が椅子から立ち上がって私の前に片膝を付いた。床に白衣の裾がふわりと広がり、先生と私の間の距離がぐっと近くなる。その目線は私よりも下で、目の前に先生の顔があった。相変わらず鋭い、けれどこの上なく温かい瞳に捉えられた私は、ただ固まったまま次を待った。
大きな手はゆっくりと私の頭を撫で、そろそろと降りてくると頬で止まる。
「まだ、冷たいな」
先生はしゃがんだまま、なめらかな動きで私の耳元にすっと顔を近づけた。
「好きだ、藤倉」
思わず目を閉じた私に、小声で囁くように告げる。
「君がもっと素晴らしく咲き誇るころには、もういい年をしたおっさんになっているかもしれない。けれど、それでも君を一番近くで見守っていたいというのは、勝手だろうか」
「……これ、ほんとですよね?」
目の前のことが本当に起こっていることなのか、まるで現実味が感じられなかった。傾いた夕日からの光がスポットライトのように当たる。地に足が付いていない、まるで突然舞台の上に連れ出されたような頼りなさだ。
そんな中、先生はからかうように「もう一度、言うか?」と頭を撫でる。その手の重みと熱さで、私はやっと納得して答えることができた。
「私は、先生がいいんです。……私が椿になれるのは、先生の隣でしかあり得ません」
「……じゃあ、俺にちゃんと聞かせて。迷惑だなんて思わないから」
いつもの先生とは全く違う口調だった。クールで凛々しく毅然とした先生ではない、柔らかくて包み込むような男の人の声。二年以上もかかってやっと見つけた、これがきっと、『若柳理雪』だ。
「私は、若柳理雪先生が、好きです。きっとこれからだって、先生のことがずっと大好きです」
「ありがとう。……君のおかげで、雪が溶けた」
先生は今更、少し恥ずかしそうに私から視線を外した。それを見た私も、耳まで真っ赤にしながら慌てて俯く。
「……我ながら、大人げないと思う。いざ藤倉を前にして相愛だと分かってしまったら我慢がきかなくてな」
先生はそう言うと、スチールの仕事机の引き出しを開けた。その奥からきれいに包装された四角い箱が取り出される。私に包みを手渡すと、椅子に座り直した先生は天井を仰ぐようにしてため息をついた。
「しかし、本当は、君の誕生日まで待とうと思っていたんだ。こんなものまで用意して、な」
「これは?」
開けるように促され、私は細心の注意を払って包みを開けていった。やがて中から顔を出したのは、滑らかな手触りの真っ白なケースだった。これは、よく見かけるような――。
「指輪……ですか」
「誕生日に渡すつもりだった。藤倉に先を越されたな」
先生らしい、細身でシンプルなリング。それを先生が、私の手を取って指に通してくれた。
「ぴったり、です。……ありがとうございます」
「さて、俺が君の指輪のサイズを知っているのはなぜだと思う?」
「……あ! 橙高祭、ですね!」
「ああ。もらっておいて良かったよ」
橙高祭の舞台が終わってから、先生に押しつけるようにして渡した小道具だ。まさかそんな使われ方をするとは夢にも思っていなかった私は、目を見開いて先生を見上げた。
お返しにしてはあまりに大きい気持ちと贈り物に、胸が一杯になって何も言えなくなる。落ち着くまでしばらく待って、私は先生に改めて礼を述べた。
「お返しの方が、立派すぎます。……でも、ありがとうございます、先生。大事にしますから」
「むしろどんどん身につけて、悪い虫が付かないようにしてくれ。しかし、藤倉はよく分かっている」
彼は意地悪そうにニヤリと笑うと、「俺にはこれが最高の贈り物だからな」と私のプレゼントを掲げた。
「俺は意地が悪いし、顔は怖いし、稼ぎも決してよくはない。取り柄と言えば背が高いことくらいだ。きっと苦労する」
先生は私の心を読んだように、冗談めかしてそんなことを言う。思わず吹き出した私の頭を、彼はまた撫でた。
「さて。……次の土曜は模試もないし、どこか出かけるか? ただしおおっぴらに出歩くわけにはいかないから、行き先は少し遠くになる。それでもいいなら」
「いいですいいです! どこにでも行きます!」
「年頃の女性がそんなこと気軽に言うもんじゃないぞ。……実は、ずっと前からこうして誘ってみたかったんだ。では、行き先はこのコーヒーを飲みながら考えるか」
そう照れくさそうに笑う先生の顔は、橙色の西日を浴びていつもよりもさらに柔らかく見えた。
外の寒さとは裏腹に、私たちに注ぐ暖かい日差し。もうすぐ春が来るのだと、これからの季節に私は思いを馳せた。
きっと、隣にはいつも先生がいる。これからは、お互いもっともっとたくさんの顔を見つけていくことになるだろう。若葉の萌黄色の鮮やかさも、秋の深紅の絨毯も、今度巡ってくるときには二人で見ることになるだろう。
先生と生徒ではなく、恋人同士として。
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